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2009年03月08日 (17:03)

+iと-iの問題:同一性=物質とは同一性自己+iの他者-iへの投影像である:PS理論的東洋身体論

私は+iだけでなく、-iにも能動性を認めると言ったが、+iが同一性の傾斜を生むとしたら、-iはどういう傾斜になるのか。それは、直感ではというか、当然、差異への傾斜である。
 今、思ったのであるが、これまで、同一性と同一性自己(意識)の区別が不明瞭な点があったが、思うに、+iが同一性自己意識の原点であり、⇒+1の+1が同一性=物質と見るべきはないか。そうすると、両者が明確に区別されるだろう。
 それを作業仮説とすれば、+iは原同一性自己(意識)となる。そして、-iは原差異自己(意識)ではないだろうか。この原差異自己とは、当然、ある認識をもっている。そう、平たく言えば、感性認識である。私が直感・直観というのは、ここから発するように思える。しかし、感性という用語はあいまいなので、精緻化する必要がある。
 『タオ・コード』では、万物との一体感を強調していたが、正に、一体となる感覚は、この原差異自己から生まれるのではないだろうか。だから、原差異「自己」というのは、少し問題があるかもしれない。
 これは、思うに、自己を無にして、空にして、他者を感受するという能力だと考えられる。虚心と言ったときの虚でもある。換言すると、同一性自己を抑えて、差異自身を肯定する感覚能力である。
 いわば、差異自体、他者自体を受容する感覚が原差異「自己」であろう。これは、わかりやすく言えば、他者と一体となる感覚、他者そのものとなる感覚である。
 とまれ、原差異「自己」-iとは、原差異感覚・原他者感覚と言うべきであろう。これは、原同一性自己+iとはまったく異質であり、正反対である。
 (ここで少し付け足すと、原同一性自己+iとは、原言語志向性と言えよう。つまり、原同一性自己性=原言語志向性となる。)
 以上から整理すると、+iとは原同一性自己=原言語志向性であり、-iとは、原差異感覚=原他者感覚=原他者一体感覚である。
 そして、両者が共振して、正当な自己認識が発生するのである。それが、+1である。しかし、+iまたは-iに傾斜すると、-1になるのである。+iの傾斜はたとえば近代合理主義に、-iの傾斜はロマン主義になるのである。
 しかし、そうすると、これまで同一性=物質が+1であると述べたことと矛盾する。即ち、正当な自己認識が+1とすると同一性=物質の+1と矛盾するということである。だから、物質と自己とは何か、という問題が生じるのである。思うに、同一性像とは何かが、肝心であろう。
 これまで、差異共振像に同一性像は包摂されると述べてきた。具体的に考えよう。たとえば、眼前に水仙の花が咲いているとしよう。この水仙の花の像はどう記述できるだろうか。これまでは、+1で表記してきたが、今やそれが疑問視されているのである。
 「わたし」は+iであり、水仙の花は-iである。同一性自己から見ると、つまり、前者から見ると、それは、同一性自己を後者に投影して見るので、それは、+i→-iとなると考えられるのである。
 そう、ここでも、両者の共振は、⇒+1でいいだろう。しかし、同一性自己傾斜になると、-iを否定することになろう。だから、(+i)・[-(-i)]⇒-1となるだろう。
 つまり、水仙の花「自体」は、+1であるが、同一性自己から見ると、それは、-1になるのである。これが、通常の同一性自己認識であると考えられる。言い換えると、意識では、水仙の花は-1であり、無意識では、+1であるということである。因みに、英国詩人ワーズワースの詩の水仙の花の群は、+1であろう。もっとも、-iへの傾斜があるが(つまり、ロマン主義的であるということである)。【追記:ここも齟齬が生じている。最初、眼前の水仙の花を-iとして、後では、+1であるとしているのである。これを整合化しないといけない。知覚・認識が生じる以前では、主観は+iであり、客観は-iである。だから、上記で正しいのである。しかし、知覚・認識が生じると、最初、差異共振像視覚(知覚・認識)が発生する。これが、⇒+1である。だから、知覚された水仙の花は初期では、+1でいいと考えられるのである。だから、言い方が悪かったのである。認識以前の主観が+iであり、対称が-i である。そして、原認識が生じると、差異共振視覚が生起する。これが、⇒+1なのである。そしてのそのときの、主観なり客観が+1なのである。
 そして、ここから、同一性自己が言語認識を形成する段階になると、差異共振性から離脱して、(+i)*[-(-i)]⇒-1となるのである。これが、同一性自己認識である。近代合理主義・近代的自我である。この倒錯・錯誤は、 +1を-1と認識しているところにあるのである。

 それでは、同一性=物質とは何かと言えば、それは、+iが他者-iへ投影した自己同一性像であろう。つまり、+iのもつ同一性自己が他者へ投影した「自己」像である。つまり、同一性自己像の他者への投影が同一性=物質であるということになる。
 そして、現象とは、本来、差異共振現象であり、それを同一性=物質としているのは、同一性自己の傾斜・投影に拠ると言えよう。この同一性自己の投影像が仮象・幻像・マーヤーである。
 確かに、同一性=物質とは差異共振自然現象の仮象・幻像・マーヤーであるが、同一性自己意識のもつ同一性という点では、それは、差異共振自然現象に内包された性質であると言えるだろう。そう、問題は、同一性=物質が支配的に、近代合理主義・唯物論になることなのである。差異共振自然現象の中に、同一性=物質を配置するのは、理性的なのである。
 だから、先に述べたように、同一性=物質は、差異共振自然現象の仮象・幻像・マーヤーであるが、同時に、実質のある反映=仮象と言えよう。だから、単に無とするのは、間違いなのである。仮象であるが、無ではない。いわば、有的仮象である。
 さて、-iにもどろう。これは、原差異性・原他者性であるが、それに能動性を認めるとはどういうことなのだろうか。そう、やはり、エネルギーをもっていると考えられるのである。
 -iとは、端的に、内的差異性・内的他者性であり、必然的に、外的差異性・外的他者性へと反照されるのである。
 この内的差異性・内的他者は外的差異・外的他者を直感・直観する。「物自体」を直覚するのである。そして、また、「物自体」と一体化する傾向をもつ。それならば、単に受動感覚である。直感では、賦活された-iが存するはずである。
 つまり、+iの同一性傾斜とは+iの賦活に拠ると考えられるように、-iの賦活とは差異傾斜と考えられるだろう。だから、-i の能動性とは、差異的能動性である。そして、後期近代において、即ち、主に19世紀後半から差異的能動性が駆動するようになったと考えられるのである。それが、いわば、反近代主義的文化を形成するようになったのである。哲学では、キルケゴール、ニーチェであり、また、フッサールであり、ベルクソンである。宗教では、鈴木大拙であり、折口信夫である。(諸芸術は割愛する。)
 経済ではそれが連続化となり、社会主義や共産主義になったと言えよう。ケインズの経済も、その面があるだろう。この点は検討問題であるが。
 結局、後期近代において、-iの能動性の駆動により、同一性の反動は帝国主義、独占資本主義となり、また、差異は連続化して、社会主義、共産主義になったと言えよう。
 ということで、-i=原差異・原他者の能動性を認めることができた。
 思うに、これは、きわめて重要である。先に触れたように、詩的な『タオ・コード』は、旧い陰陽論に囚われていて、陽=能動性、陰=受動性にしてしまっているのである。陰にも能動性があるのであり、これを認めることが今日決定的に重要であると考えられるのである。陰的能動性、陰エネルギーの肯定である。
 これが思うに、たとえば、今日蔓延するうつ病等の心の病気の治療に役立つと考えられるのであるし、また、今日多く見られる人格異常の問題の解明にも指針を与えると考えられるのである。また、経済にも、性愛の問題にもそうである。いわば、一切合切である。
 うつ病の場合は、活性化する-iのエネルギーを遮蔽してしまい、エネルギーが枯渇するのである。つまり、差異共振エネルギーが枯渇するのである。そのために、生命エネルギーが欠如すると考えられるのである。
 ここで精密に言うと、活性化する-iエネルギーとは、差異共振エネルギーを志向しているということである。前期近代において、活性化した+iエネルギー(同一性エネルギー)は、もやは、役割を終えて、エネルギーが再帰するのであるが、このとき、潜在していた-iのエネルギーが賦活されて、+iとの共振・共鳴が必要となるのである。
 より的確に言えば、Media Pointにおいて、前期(往路)は、+iエネルギー(同一性エネルギー)が活性化したが、後期(復路)においては、-iエネルギー(差異エネルギー)が活性化すると考えられるのである。
 これは、Media Point における極性運動で説明できるのではないだろうか。つまり、最初は+iが優位になり、後期は交替して、-iが優位になると考えられるのである。リズムである。波動である。このMedia Point Rhythm、Media Point Wave、Media Point Oscillationが、このエネルギー交替を生んでいると考えられるのである。簡単に言えば、同一性と差異の波動である。
 そして、今日、トランス・モダンの時代にあって、差異エネルギーが活性化しているので、これを同一性と共振・共鳴させる必要があるのである。だから、正確に言えば、差異共振エネルギーが駆動されているというのではなくて、-iエネルギー=陰エネルギー=差異エネルギーが駆動しているのである(これは、つまり、Media Pointへの螺旋的回帰、高度Media Point回帰であると考えられる)。
 そして、両者の共振・共鳴のためには、-iを肯定する「精神」が必要なのである。それは、おおまかに言えば、身体であるが、正しくは、精神身体である。身体というとき、一般には、物質身体を意味するからである。
 この問題も精緻に考える必要がある。-iは差異であり、他者であるが、内的には何であろうか。いったい、他者をそのまま肯定する「認識」とは何が行うのだろうか。
 思うに、ここには、「うつす」という「認識」があると思う。いわば、ミメーシス、リアリズム、写実である。一つの鏡面である。そう、鏡面認識である。この鏡面が森羅万象を「映す」と考えられるのである。この差異鏡面認識を担っているのは何か。
 同一性認識はMedia Pointの実軸ゼロ点に拠点があると考えられるが、差異認識はMedia Pointの虚軸ゼロ点に拠点があるのではないだろうか。
 否、そうではない。同一性認識は、+iが1/4回転して形成されるのである。-1である【(+i)*(+i)⇒-1であろう】。だから、やはり、MPの実軸ゼロ点が拠点でいいのだろう。
 では、差異認識はと言えば、-iの認識であるから、MPの虚軸ゼロ点に拠点があると言えよう。では、具体的にそれは何処にあるのかである。MPの実軸ゼロ点は、頭脳(脳細胞・脳神経)でいいと思うが、それに対して、MP虚軸ゼロ点は、直感では、内的身体(精神身体)にあると思えるのである。
 物質身体は同一性認識による外的身体であるから、そこには、差異認識の拠点はないのである。また、単に心に、差異認識の拠点があるのでもないだろう。
 以前、+iが原光で、-iは原闇であると言ったが、それから見ると、差異認識は(原)闇認識であると言えよう。つまり、可視光的視覚認識ではないと言えよう。そう、パラドクシカルな言い方であるが、闇の不可視光(「闇の光」)があるのではないだろうか。
 「闇の光」を見るのが、内的身体ではないだろうか。つまり、内的視覚というものがあるのではないだろうか。
 そして、直感では、この内的視覚の器官が、内臓であると思えるのである。内臓とは、単に物質器官ではなく、精神器官でもあるだろう。つまり、精神身体器官としての内臓である。
 東洋身体論では、精神身体器官としての内臓を捉えていると考えられる。日本文化の「肚」とは、そのようなものである。また、通俗的であるが、心臓=心ということで、やはり、精神身体器官としての心臓である。
 だから、まとめると、同一性認識の器官が脳細胞・脳神経であるのに対して、差異認識の器官が内臓であり、それは、精神身体器官である。(平明に言えば、ストレスで胃痛が起るのは胃が精神身体器官であるからであると言えよう。)
 ということで、-iの差異認識とは、「闇の光」の視覚であり、内的視覚であると作業仮説的に考えられる。結局、-iの拠点であるMPの虚軸ゼロ点とは、内的身体・内臓に存するのである。だから、現象的には、上下が反対になっているのである。本来、「天」である虚軸ゼロ点が、下部にあり、本来、「地」である実軸ゼロ点が上部にあるのである。
 ということで、差異エネルギーが賦活されているトランス・モダン・エイジとは、内的身体=内臓精神身体を陶冶する必要があるのである。そう、差異エネルギーとは「闇の光」のエネルギーであり、いわば、不可視光である。しかしながら、私見では、この「闇の光」とは、超越光に関係するのである。端的に、超越光自体かどうかが問題である。
 そう、「闇の光」=原闇は、当然、新しい原光を伴っていると考えられるのである。これまでの光は、旧い光であり、衰退したものである。
 しかし、差異エネルギー=原闇(源闇)が活性化されると必然的に、新たな同一性エネルギー=原光(源光)を伴うと考えられるのである。
 だから、「闇の光」は、超越光と関係するのである。もっとも、超越光自体ではないが。
 私がこれまで、超越光が見えると述べたが、それは、差異エネルギー(源闇)を介して、新しい差異共振エネルギー=超越光を見ているからではないだろうか。内的身体=内臓の内的視覚を介して、超越光を見ていると言えよう。ヴィジョンの光とも言えよう。
 思うに、ルドルフ・シュタイナーが20世紀前期から人々は「キリスト」の光を見ることになると予言したが、思うに、東洋文化に深く影響されたシュタイナーであるから、「キリスト」とは、端的に、超越光とすればいいのである。それは、日本・東洋文化的には、アマテラスであり、大日如来であり、阿弥陀如来等々である。
 比喩的にいわば、闇を介して、新たな光が到来するのである。ただし、闇とは、源闇=内的身体=精神身体、即ち、-iである。
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