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2009年03月10日 (16:51)

自己認識方程式の諸要素の説明:+i, -i, +1, -1, *, ⇒(Media Point)

PS理論の中核である自己認識方程式、即ち、(+i)*(-i)⇒+1はKaisetsu氏が定式化したものであり、他に、オイラーの公式を活用したものがあるが、
http://theory.platonicsynergy.org/?eid=553149
これがいちばんシンプルであり、わかりやすい。
 さて、これまで、この数式を用いて、PS理論を説明し、また、活用してきたが、先に+iと-i 等について考察したが、
http://ameblo.jp/renshi/entry-10220541749.html
まだ、整合性がない部分があるので、ここで整理したい。
 
+i とは、原同一性自己志向性認識である。それは原言語認識性でもある。

-i とは、原差異・原他者である。

+1 とは、原同一性自己と原差異が共振して、同一性現象であるが、これを物質と区別して、「もの」と呼ぶ。説明すると、(+i)*(-i)という差異共振状態から、エネルギーが放出されて、+1が形成される。これは、端的に言えば、眼前に見える、赤レンガのタイルを張った建物の知覚である。赤レンガの建物は、まだ物質ではなく、知覚においては、「もの」である。
 
-1 とは、原同一性自己志向性の傾斜によって生起する原他者・原差異を抑圧した、同一性自己主義とそれが知覚する対象である。即ち、これは対象的には、物質である。

* は、共振・共鳴を意味する。

⇒は、Media Pointと見ていいだろう。超越的根源から現象性へと転換する変換点である。ここは、不連続な変換点であり、超越性と現象性はまた即非性をもつのである。

 特に、+1と-1の解明が今回、新しいので、さらに説明しよう。
 私は自然現象とはこれまで、本来、差異共振現象であると述べてきた。それが、自己認識方程式に端的に明示されている。左辺がいわば、プロト差異共振様相であり、右辺が結果の差異共振現象である。
 たとえば、「わたし」+iと「赤レンガの建物」-iがあるとしよう。両者は、知覚発生的には、初期においては、共振・共鳴するのである。そして、その知覚の結果、「わたし」は眼前に「赤レンガの建物」を見るのである。見る「わたし」と見られる「赤レンガの建物」は、両者+1である。そして、後者は「もの」であり、物質ではない。ここがポイントである。
 ここの差異共振現象においては、即非関係が成立しているのである。「わたし」は「赤レンガの建物」であり、且つ、「わたし」は「赤レンガの建物」ではないのである。あるいは、「わたし」と「赤レンガの建物」は不可分であるということになる。これが、根源的な現象知覚様態である。これは、初期母権的知覚様態とも呼べよう。
 しかるに、父権的な同一性自己傾斜が入ると、差異共振性や+1が解体するのである。つまり、+iが-iよりも優位にあるために、+iは-iを否定してしまい、抑圧・排除・隠蔽するのである。これは、(+i)*[-(-i)]⇒-1、ないしは、(+i)^2=-1で説明できるのではないだろうか。
 ここで留意すべきは、父権的傾斜が入る以前は、男子においても、差異共振性が本来存していることである。それは、双子の神話で確認できるのではないだろうか。
 そして、差異共振性(母権原理)の後で、男子には、父権的傾斜、即ち、同一性自己傾斜(言語認識傾斜:数量傾斜)が入ると考えられる。この父権傾斜は、源泉の差異共振性(母権原理)に対して、劣等感と同時に優越感を抱くのではないだろうか。(これまで、単純に劣等感だけを指摘したが、同時に、劣等感と優越感を抱くのではないだろうか。これは、検討課題である。)
 とまれ、父権的傾斜によって、原他者・原差異の-iは否定されて、差異共振性が抑圧されて、対象の「もの」は、同一性主義化されると言えよう。つまり、物質化されるのである。たとえば、「もの」である水が、H20と記述されるのである。これは、端的に物質である。
 そして、当然ながら、同一性主義化(同一性自己主義化)は、近代合理主義・近代的自我が極北である。
 これで、同一性と差異の問題がかなり明晰になったであろう。これまで、私は同一性=物質として、それを、+1としてきたが、そうすると、同一性自己主義の-1と区別がつかなくなる不整合が生じていたのであるが、この問題がクリアされたのである。
 思うに、この+1と-1との区別が明確明晰になったことにより、PS理論だけでなく、哲学の問題がクリアになったと考えられるのである。フッサールが還元する対象にした自然的態度とは、-1の同一性自己主義=言語認識的自己でああり、自然を物質と見る心的態度であると言えよう。
 また、ベルクソン哲学の記憶や持続(純粋持続)とは、フッサールと似て、⇒+1にすればいいと考えられる。ベルクソンのいう物質であるが、それは、正に、-1とすれば、ベルクソン哲学はその二元論性から脱却して、極性論となるだろう。というか、PS理論からベルクソン哲学が実に明快明晰に説明できると考えられるのである。ただし、ベルクソンは、差異共振性までは達していなかったと考えられる。ただし、特異性はそれなりに把握していたと考えられる。
 確かに、ベルクソンはフッサールに似ているが、しかし、フッサールの方が、無意識においては、差異共振性にまで到達していたと思われるのである。そう、後期フッサールの生活世界の概念であるが、それは、正に、「もの」の世界であり、差異共振自然現象の世界と言えよう。(「もの」とは精神身体と言い換えられよう。)
 ついでに言えば、差異共振自然現象とは、母権原理の世界でもあるということである。それは、宗教・神話的には、多神教であり、女神宗教である。そして、日本の宗教の基層がこれであり、この発想が日本人の無意識に潜在していると言えよう。もっとも、今日、都会では近代的自我化しているが。
 そう、芸術・芸能の世界も結局、ここに存すると言えよう。日本文化は、母権原理の差異共振自然現象の世界に根差して、芸術・芸能を形成してきたと言えよう。生活が差異共振生活であったのであり、その中から、芸術・芸能、祭礼・習俗等が生まれたのである。当然、社会は差異共振共同体となるのである。思うに、網野善彦氏が説いたアジール的な共同体(『無縁・公界・楽ー日本中世の平和と自由』)も、根源的には、原日本の差異共振共同体が起源と私には思われるのである。また、田中優子氏が説いた江戸の連(『江戸のネットワーク』)も同様であり、また、詩歌俳句で言うと、連歌、連句、連詩も、この差異共振共同体から生まれた文芸と考えられるのである。
 そう、今日、トランス・モダン時代に入り、日本人は近代において忘却してきた、あるいは、忘却させられてきた伝統的差異共振文化に目覚めつつあると言えよう。
 そう、モダンを経過した今日、正に、トランス・モダン・ジャパンが誕生しつつあるのであり、また、経済的にも、差異共振経済へと転換する必然性があると言えよう。ヤポネシア・ルネサンスである。
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