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2009年03月13日 (22:47)

記憶とは何か:Media Point における差異共振記憶と同一性記憶:PS理論に拠る創造的記憶論:ベルクソンの『物質と記憶』に触発されて

記憶の保存される場所は何処なのか。唯物科学ならば、それは、脳と言うだろうが、新イデア論であるPS理論はそういうわけにはいかない。
 具体直截に考えてみよう。例えば、今、「わたし」は車窓の景色を眺めているとしよう。その景色は、山間を流れる川である。いったい、それは、どこに記憶されるのだろうか。現象とは、根源的には、差異共振現象、即ち、⇒+1である。差異共振現象として「山間の川」があり、それは、それで同一性現象+1である。とまれ、知覚としては、差異共振知覚/同一性知覚が生じていて、それが記憶されると考えられる。
 差異共振/同一性知覚(⇒+1)は、当然、Media Point が源泉である。これは、同一性像を投影するのであるが、この投影像が、同時に、知覚記憶するものではないだろうか。否、精緻に見ないといけない。投影像を見ている「本体」ないしは意識があると考えられる。これは、デカルトの「考えることを疑うことができない」と判断するコギトである。これは、先に述べたように、差異、特異性、他者である。つまり、同一性知覚に対する差異知覚である。
 この差異知覚が記憶する主体であると考えられる。すると、それは、当然、Media Point であるが、Media Point における内的他者・内的差異である-iであると考えられる。そして、これは、同時に、差異共振性そのもの、即ち、(+i)*(-i)である。言い換えると、Media Point の虚軸ゼロ点で記憶していることになる。もしこれが正しければ、これは画期的発見である。
 そう決める前に、実軸ゼロ点と記憶との関係を確認する必要がある。実軸ゼロ点とは、同一性志向性・同一性自己志向性の原点である。構造主義の構造が虚構される点である。これは、同一性像が投影される原点である。ここに記憶はないのか。そう、ここは、同一性自己意識の原点であり、同一性知覚の原点である。だから、投影された同一性像をここで知覚していると考えられる。すると、記憶はここにもあるのである。これも正しければ、これも画期的な発見である。
 上の二点が正しいとすれば、記憶とは、Media Point の二つのゼロ点で行われていることになる。即ち、同一性知覚と差異知覚の二つの知覚で記憶が起きているのである。前者の記憶、同一性記憶とは、物質記憶、事物記憶と言えようし、ほぼ、言語記憶と言えよう。それに対して、後者の記憶、差異記憶とは、差異共振記憶、いわば、芸術・詩・共感的記憶と言えよう。言い換えると、散文的記憶と詩的記憶である。
 結局、両者の記憶があり、それが、Media Point に蓄積されていると言えよう。(こう考えると、オカルティストの説くアカシック・レコードは単に夢想・妄想ではない可能性が強くなってきた。なぜなら、Media Point とは、イデア構造体であるからである。)
 そう作業仮説して、ベルクソンの記憶論と関連させると、ベルクソンの説く記憶とは、主に、同一性記憶であると考えられる。なぜなら、行動・運動と密接に関係をもっているからである。ただし、持続、純粋持続という場合、そこには、Media Point のエネルギーが入っていると考えられよう。そう、ベルクソンが知覚と物質との「連続性」を説くとき、それは、差異共振性を意味していると考えられる。(ベルクソンのいう「連続性」は、PS理論における連続性とは、かなり異なると言えよう。また、ベルクソンのいう「非連続性」も同様である。少し説明すると、ベルクソンの「連続性」とは、知覚とその延長としての物質との一種の連携性を意味するのであり、また、「非連続性」とは、同一性個体のこと、つまり、+1のことである。)
 つまり、ベルクソンは差異共振性と同一性記憶とを混淆させているのである。つまり、PS理論的には、本来、不連続である両者を連続化させているのである。以前、ベルクソン哲学の連続性を批判したことがあるが、それは、正に、この点で証明される。
 関連させて言うと、ベルクソン哲学を「継承」しているドゥルーズ「哲学」について言及すると、それは、確かに、ベルクソン哲学の連続性に影響されているが、ベルクソン哲学にある持続に感じられる特異性と同一性との一種の区別がドゥルーズ「哲学」ではまったく消失してしまっていると考えられるのである。
 つまり、ベルクソン哲学は確かに、持続概念において、差異共振性と同一性を混淆させているが、それを単純に統一しているのではなく、両者の微妙な違い・ニュアンスを示唆しつつ、連続化させているのである。それに対して、ドゥルーズの場合は、その違い・ニュアンスをまったく喪失しているのである。
 さて、本題にもどると、ベルクソンの記憶論からPS理論の記憶論が展開できることになった。それは、創造的記憶論である。差異共振記憶こそ、創造の源泉である。これによって、創造が為されるのである。思うに、夢とは、この記憶を追究しているのでないだろうか。そして、天才たちは、この創造的記憶から天才的な作品を産み出しているのではないだろうか。
 では、それに対して、同一性記憶とはどう作用するのだろうか。これはたいへん重要なポイントである。もし、同一性記憶が不確定になると、差異共振記憶は曖昧になるのではないだろうか。言い換えると、同一性記憶が差異共振記憶に侵入・侵害されて、妄想、幻想、幻覚等が発生するのではないだろうか。いわば、精神病(うつ病やパラノイアや統合失調症等)の発生が考えられるのである。だから、創造的記憶とは、結局、同一性記憶と相俟って、真に、つまり、積極的に創造的になるものと言えよう。
 とは言え、逆に、同一性記憶を強調し過ぎると、当然ながら、創造的記憶が抑圧されて、創造性が枯渇するようになるだろう。日本の受験教育とはそのようなものである。
 そうすると、PS理論的創造的記憶論とは、創造的教育論にもなると言えよう。トランス・モダン・エデュケーションの基盤は、そこに見い出せるだろう。超越性と物質性との共振する教育が為されなくてはならないのである。理系と文系が融合するトランス・モダン教育である。
 とまれ、ベルクソン哲学は、先にも述べたように、トランス・モダン哲学の先駆の一つとして、位置づけることができるのである。
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