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2009年03月22日 (20:32)

同一性自己意識の問題について:主体+iの傾斜と言語同一性自己-1:絶対的差異世界の地平

Kaisetsu氏が、同一性概念不要論を、ドラスティックに提起されたが、私としてはもう少し、同一性(主義)の意味について考察を深めたい。
 問題は、蒸し返すが、何故、同一性自己主義が発生する必要があったのかである。これは、当然、父権文明の意義を問うものである。
 これまでの説明は、+iの傾斜が原因である。強い+i、Strong -iを考えたのである。しかし、+iはあくまで、主体差異、主体的絶対的差異である。
 だから、問題は、この主体的絶対的差異が、同一性を志向することの意味を問うことである。何故、主体的絶対的差異である+iは同一性を志向するのか。
 問題は、強い+iが相対的に弱い-iに遭遇することにあるだろう。しかしながら、それ以前に、+iと-iは共振していたはずである。それとも、そうではないのか。
 問題は、原初は、+iと-iの均衡は取れていたが、その後、+iの傾斜が起ったということなのか、それとも、初めから、+iの傾斜があったのか。
 これは、女性と男性では違うのではないだろうか。女性は、本来、均衡が取れているのであり、+i傾斜は、父権社会で、不自然にもたらされると考えられる。
 そうすると、男性(雄性)の場合が問題である。男性は最初は均衡が取れていて、その後、+i傾斜が生起するのか。
 どうも、男性・雄性の場合、最初から、+i傾斜があると思うのである。ただし、人類史・文化史を考えると、+i傾斜は女性・雌性の均衡によって抑えられていたのではないだろうか。
 とまれ、思考実験を続けると、もし、もともと男性に、+i傾斜がある場合、男性にとり、差異共振性とは、どういうものなのであろうか。言い換えると、女性・雌性とはどういうものになるのだろうか。
 強い+iと相対的に弱い-iが男性の心性にあるとすると、それは、共振を形成しないのか。形成しないだろう。やはり、強い+iが相対的に弱い-i(以後、弱い-i)が否定・抑圧すると考えられるのである。
 つまり、男性の心性は、根本的に、圧力・強制的であると思えるのである。それは、他者-iを否定・抑圧するのである。つまり、主体差異+iを他者-iに押しつけるのである。即ち、(+i)→(-i)であり、→は否定である。そして、(+i)*[-(-i)]となり、(+i)*(+i)⇒-1となると考えられる。
 そして、この-1が同一性自己意識・同一性自己主義である。しかしながら、精緻に見れば、やはり、⇒-1であり、ある精神過程の結果である。つまり、他者否定という過程の結果としての同一性自己主義である。他者否定というプロセスがそこにははたらくのである。
 ということは、やはり、根源・基礎的に、男性の心性においても、原差異共振性があると考えられる。
 だから、先の考察の問題に戻るが、この原差異共振性に対して、+i傾斜の意識はどう感じるのかである。
 ある意味で、強い+iであるから、主体優位・主体優越を感じているはずである。しかし、同時に、差異共振性に劣等感を感じるはずである。何故なら、強い+iは、差異共振性を把握できないからである。つまり、異質な-iを把捉できないのである。
 おそらく、主体優位というよりは、主体威力感であろう。この主体威力感が他者に劣等感を覚えて、他者否定によって、虚栄的に、他者に優越感を形成するということではないだろうか。
 では、-1である同一性自己意識は言語同一性自己意識であると先に述べたが、言語とは何なのであろうか。
 思うに、本来、言語というか発話・発語とは、差異共振現象知覚から発生すると思われる。つまり、感動感嘆驚嘆の発話・発語である。山と一体である(正しくは、即非知覚する)主体は、「yama!」と発語するのである。つまり、差異共振知覚(即非知覚)の表現が発語・発話であるということになる。
 つまり、それは、正に、自己認識方程式で記述されている通りである。(+i)*(-i)⇒+1が差異共振知覚言語表現であり、+1が発話された言語と言えよう。もっとも、正確には、⇒+1である。
 では、言語同一性自己としての-1とは何なのだろうか。本来の、原初の発話・発語は⇒+1であるの対して、-1の言語同一性意識とは何だろうか。
 これは、他者を否定した言語自己意識である。つまり、差異共振発話・発語である⇒+1から、+1という抽象化された言語をもつ同一性自己意識と考えられる。
 つまり、-1の形成によって、⇒+1の⇒と+1を分離させて、+1を独立させるのである。そして、-1の同一性自己意識は、この抽象化(同一性抽象化)された言語を手段として用いるのであり、この抽象言語(例えば、文字言語)を用いる同一性自己意識が言語同一性自己意識というものであり、近代合理主義的自我がそういうものなのである。
 これで所期の目的は達したが、では、端的に、+1と-1の同一性は何なのか、である。先に、虚構・仮想であると言った。結局、強い+i、+i傾斜によって生じた仮象・幻像・マーヤーと言えよう。男性的な、乃至は、父権的な傾斜によって発生した「不自然な」仮象であると言えよう。正確に言えば、偏向・歪んだ視点であると言える。真実である他者-iを歪曲している不正な視点(追記:他者-iだけでなく、主体差異+iをも歪めているものである。自己幻惑、自己錯乱でもある。)なのである。言い換えると、悪魔・悪霊・狂魔的視点なのである。
 人智学のルドルフ・シュタイナーの悪魔論では、アーリマンとルシファーが存するが、先に指摘したように、それぞれ、+1と-1であると考えられるが、悪魔たちとは、結局、男性・父権原理の偏向・歪曲・不正な傾斜によってもたらされる心的力学であると言えるだろう。即ち、+iの傾斜によって、ルシファーである-1とアーリマンである+1が形成されると言えよう。
 では、この+iの傾斜、強い+i、Strong +iとは何なのだろうか。いったいどうやって発生したのだろうか。
 先に、突然変異と考えた。それ以前は、太極力学に拠ると考えた。なにか、気候変動と関係するものが原因としてはたらいていないだろうか。
 人類史的には、父権遊牧民族の生起と移動が起因である。私は突然変異が原因であると述べたが、やはり、太極の変化で説明できそうである。(追記:思うに、太極の変容と気候変動とが関係していると思う。温暖な気候から、寒冷な気候へと変化したことが父権化への条件・背景にあるのではないだろうか。後で検討したい。)
 宇宙精神力学(コスモス力学:占星術は、ここから派生したのであり、混乱し迷妄蒙昧になってしまった)において、「力」が陽極へと極限的に作用した(宇宙自然太極Media Pointにおいて、陽へと全傾斜して、陰がすべて隠れてしまった、一種、特殊な、宇宙イデア事象が起きたのである:少し懐疑するのは、シュタイナーがヤハウェとは月に位置する太陽霊としたことからである。いったい、月とは何か。この点は検討課題である。)と考えられ、そのため、+i傾斜が起り、父権遊牧民族が発生して、移動し、世界を支配するようになったのである。国家の誕生が典型であろう(文字言語、計算も父権文化である)。父権文明・同一性文明の誕生である。そして、後に、一神教に帰結したと言えよう。
 さて、最後に、以上の考察の視点から、Kaisetsu氏の絶対的差異世界論と同一性概念不要論について考えてみると、父権文明とは、絶対的差異という真実から見ると、虚偽錯誤誤謬の文明である。虚構・仮想・仮象・幻像・マーヤー・迷妄の同一性=物質=国家文明(ヘーゲルの国家理性は、この帰結)である。それは、自然の生んだ、いわば、鬼っ子である。自然の極限化である。
 しかしながら、今日、同一性=物質主義の文化が解体したのであり、真実である絶対的差異とその共振・即非現象を把握することができたのである。だから、端的に、正しく、同一性概念は不要であると言えるのである。ただ、絶対的差異とその共振・即非現象を把捉することが知性の行為なのである。
 だから、哲学で悟性と呼ばれたものは解体されるのである。そして、理性も同様である。今や、絶対的差異知性と共振(即非)知性が必要なだけである。


参照:
天空神
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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天空神 (てんくうしん) 、父なる天 (ちちなるてん) は地母神 と対になって、多神教 神話に繰り返し現われるテーマである。最近の復興異教主義neopagan 運動でも取り上げられる。

概念 [編集 ]

天空神は地母神 と対になる概念で、いくつかの創世神話 に現われる。多くのものはヨーロッパ または古代中近東 由来である。ローマ神話のユピテル は語源的に「天(ないし)神の父」を意味する。

マオリ 神話では、ランギ Ranginuiが父なる天であった。この神話では父なる天と母なる大地 パパトゥアヌク Papatuanukuが愛の抱擁をし、タネマフタ ら、神の子供達を授かる。父なる天は太陽と同一視される太陽神 ともまた関連する。

テュルク・モンゴル諸族では、「天」を意味するテングリ という神格が広くアジア全体に知れ渡っていた。

この概念は必ずしも一般的とは限らず、全く異なったタイプの神話を持った他の文明がある。たとえばエジプト神話 は天なる母と大地の死んでまた復活する神 を特徴としている。日本の神道 には原初の太陽の女神 (→アマテラス )がいる。

中国 では、アブラハムの宗教 の神が空の父、天の父と呼ばれることがある。

概念の歴史 [編集 ]

遊牧民族征服説 [編集 ]

19世紀末、比較神話学 上の仮説として、フリードリヒ・エンゲルス とヨハン・ヤーコブ・バッハオーフェン が遊牧民族征服説を唱えた。この仮説は「ジェームズ・フレイザー 」の『金枝篇 』における文献的研究によって更に促進された。父なる天への信仰は遊牧民 に特徴的で、母なる大地への信仰は農耕民 に特徴的であると信じられた。

この学説によれば、遊牧民が武力をもって農耕社会を征服し、女神たちを男性の神に置き換えた。この過程で、女性の地位と母権制度 は軽んぜられ、父権制 がもたらされたというのである。性別による地位が逆転したことが宗教上の変化をもたらしたと想像された。この学説はインド・ヨーロッパ語族 の発見と結び付けられ、軍事的な征服過程がこれらの言語の拡散の背景にあったと空想されたのである。父なる天はインド・ヨーロッパ文化の理想とみられた。この時点では「アーリア人」と「インド・ヨーロッパ人」は同義語 だった。

実証主義的反論 [編集 ]

この説を覆したのが考古学 と人類学 の研究だった。多くの研究者がこの説では初期のヨーロッパでの宗教生活を説明できないとした。考古学的な記録から見て、インド・ヨーロッパ語は軍事力だけでヨーロッパとアジアに拡がって行ったものではないと考えられた。非インド・ヨーロッパ文明にも男性優位の神殿があり、それは占領や征服の結果ではなかった。女神信仰と女性の社会的地位の間に設定された歴史的な関係も、直接的には証明できなかった。そればかりでなく、農耕民だから女神を、遊牧民だから男神を崇拝するという証拠もそれほど多くはなかった。インド・ヨーロッパ人が、先住民より家父長的で男性優位な信仰を行っていたことを信ずるいかなる理由もなかったし、他の多神教 以上に、女神を追い払い男神をその代わりに据えようとしたとも考えられなかった。

確かに、*dyeus-ph2têrという原インド・ヨーロッパ語名で再構成された男性の父なる天が、ギリシア神話 にゼウス の名で、ローマ神話 ではユピテル として現われたことは事実であり、北欧神話 ではテュール 、ヴェーダ の伝えるインド神話ではディヤウス ・ピターとして現われたのも事実である。これらは同源の神名であり、原インド・ヨーロッパ信仰の共通する材料から引き継がれたものである。しかし、実際には、これが最も広く引き継がれたインド・ヨーロッパ語族の神名というわけではない。原インド・ヨーロッパ語で*aus-os-と再構成される暁の女神は、さらに広範囲に、後世に伝わっている。ギリシア神話ではエオス 、ローマではアウロラ 、ゲルマン神話ではエーオステレ (Ēostre)、バルト神話でAustra、スラブ 神話ではゾーリャ (Zorya )、ヒンドゥー教 では ウシャス (Uṣas)である(いずれも曙の女神)。これらの神格はすべて、ゼウス同様、語源を共通にする。このように、インド・ヨーロッパ文化が、他の文化に比べ、特に女神をおとしめる傾向や宗教上男性優位に向かう傾向を持っていた訳ではない。

説の影響 [編集 ]

地母神、天空神、父権的な侵略者説というお話は一世を風靡し、様々な想像力を発揮させるもととなった。文学 上重要な話であるし、有力な詩人や小説家によっても参考にされている。例えばT・S・エリオット 、D・H・ローレンス 、ジェイムズ・ジョイス 、甚だしい例ではロバート・グレーヴス が挙げられる。

父なる天、母なる大地、信者がこのどちら側につくかによって、現実的な影響がでてくる。前者をとってアーリア人が軍事力をふりかざすと、ナチ の人種的イデオロギー が生まれる。だからナチはこれを採用したのである。後者に共感し、失われた母系社会の女神信仰的ユートピア を求める動きが後に現われた。このようなユートピアは、繰り返される重要な文学的テーマとして確立しており、人類学教室からは脱落した後も長く文学科では生き残った。マリー・ルノー (en:Mary Renault )、メアリ・ステュワート (en:Mary Stewart )、最近ではマーセデス・ラッキー 、マリオン・ジマー・ブラッドリー ら、歴史文学 の作者やファンタジー の作者にその影響があることからも推測できよう。

「父なる天」は頻繁にフェミニスト・スピリチュアリティの中で扱われており、このような信条にも助けられて、あまりにも単純化され過ぎ、人類学、考古学、比較神話学の領域ではあり得そうもないと考えられている、母なる大地対父なる天の図式が生き長らえているのである。

関連項目 [編集 ]

* 農耕民族
* 遊牧民族
* アーリア人
* インド・ヨーロッパ語族
* 国家社会主義ドイツ労働者党
* ホロコースト
* フェミニズム
* 家父長制
* 母系社会
* 比較神話学
* 考古学
* 人類学
* 騎馬民族征服王朝説 日本の王権も遊牧民族による征服の結果だという仮説があった。
* フェミニスト・スピリチュアリティは英語版 参照。ある種のフェミニストが抱いている宗教的信条で、男神よりも愛情深い女神を尊ぶ態度とされている。復興異教主義、ネオ・ペイガニスムNeopaganismとも関係している。

"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%A9%BA%E7%A5%9E " より作成
カテゴリ : 神 | 神話 | 天空神

参考:
エロヒム人間とヤハウェ人間
(93/04/03)

 僕はそんなに聖書関係に詳しくないので、一般にカインとアベルの物語として語られていることそのものについては説明しかねますので、あくまでもシュタイナー的な観点からいうと、あの引用で説明されている「神」と「ヤハウェ」というのは、違います。前者は、エロヒムの集合体としての「神」であり、後者は、創造の第7日目に「エロヒムは休んだ」ということで意味されているエロヒムからヤハウェ・エロヒムへと進化した存在としての「主なる神」です。

 で、「カイン」ということでいわれているのは、いまだ両性具有的であった「エロヒム人間」のことで、それが高次存在の供犠の断念という形をとることによって、高次存在から離反する可能性、悪をおこなう可能性、と同時に自由の可能性も得ることになります。それに対して、「アベル」ということでいわれているのは、単性的人間へと「進化」した「ヤハウェ人間」のことで、「天的存在の継承者」ということになります。で、その「カイン」と「アベル」ということで象徴される人間存在の2つのあり方がさまざまに絡み合っていくことになるというわけです。

http://homepage.mac.com/kazenotopos/topos2/sinpigaku/sinpigakuetc2.html#%83G%83%8D%83q%83%80%90l%8A%D4%82%C6%83%84%83n%83E%83F%90l%8A%D4
神秘学関連諸テーマ2
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