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2009年04月01日 (13:48)

試論:⇒+1の差異共振個象と+iの同一性=物質現象との違いの明確化:個象イデア〔MP虚軸ゼロ点=(+i)*(-i)〕⇒個象(MP実軸ゼロ点⇒+1)⇒同一性=物質仮象+1

先に『自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1の+iの自乗がI(「わたし」)になることについて:差異共振現象(即非現象)=超越光の平面に投影された+iの2乗としての「わたし」=自我という仮象』という考察(思考実験)を行なったが、まだ、微妙な点が不明晰な部分があると考えられるので、検討を続けたい。
 最初に差異共振現象があると言った。それは、端的に、自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1に記述されている。そして、そこにおいて、主体は⇒+1という差異共振個象を知覚している。例えば、窓外眼前の木立は、⇒+1という差異共振個象と考えられる。もし、それを+1とすると、それは、個象ではなく、物質現象となり、物質科学の対象となる。私が今視覚認識している杉の木を含む木立は、物質対象ではなく、差異共振現象の個象と考えられる。
 さて、この個象⇒+1と同一性=物質現象+1とのヴィジョンの違いを明晰にしたいのである。先に+iの2乗が差異共振現象=超越光の平面(スクリーンと言ってもいいだろう)に投影されて、その平面を覆うように同一性ヴィジョンが発生すると言ったが、では、差異共振個象(木立)はそこではどういう位置にあるのだろうか。当然ながら、差異共振個象は差異共振現象=超越光の平面(=スクリーン=即非空間)にあるはずである。直感で言えば、+iと-iの共振ヴィジョンにおいて生起する、言わば、原個象が先立って発生して、それを、差異・他者-iへと投影するときに、差異共振個象が発生するのではないのか。
 というか、Media Point において、あるいは、Media Point 平面(Media Point Plane)において、差異共振原個象が発生して、それが、-iへと投影されるときに、差異共振個象⇒+1が発生するということではないのか。(因みに、この差異共振原個象がプラトンのエイドスではないだろうか。あるいは、同一性的な「イデア」である。)
 そうすると、差異共振原個象(以下、原個象)はMedia Point に存するが、差異共振個象(以下、個象)はどこに位置付けられるだろうか。先に、+iの2乗=同一性ヴィジョンは差異共振現象=超越光に覆うように投影されると述べたことから言えば、原個象と個象は差異共振現象=超越光の平面・次元に存すると言わなくはならない。ここで思考実験して、原個象をMedia Point の虚軸ゼロ点に、個象をMedia Point の実軸のゼロ点に位置付けたらどうだろうか。
 そうすると、二つのゼロ点を覆うように投影するものが、+iの2乗=同一性ヴィジョンであるということになる。この同一性=物質のヴィジョンが個象を差異共振現象から切断して、独立の仮象・虚構・仮想を与えるということになる。
 そうすると、実軸のゼロ点が微妙な点となるだろう。それは、差異共振個象でありながら、同一性個体=物質の仮象のための映像を提供するものとなっていると考えられる。
 ここで考察を明快明晰にするために、原個象を個象イデア(おそらく、エイドスである)とでも仮に呼びたい。個象イデア⇒個象⇒同一性=物質仮象という図式が考えられる。ここでMedia Pointの視点を入れると、

個象イデア(虚軸ゼロ点)⇒個象(実軸ゼロ点⇒+1)⇒同一性=物質仮象(+1)

となる。
 微妙な点は、個象の実軸ゼロ点⇒+1の事象・心象である。あるいは、同一性
物質仮象の位置付けである。これまでの検討から言えば、前者は差異共振現象=超越光の平面と後者の境界に存することになる。もっとも、それは、実軸ゼロ点⇒+1という表記に含まれている。
 しかしながら、上記の図式で問題なのは、個象である。実軸ゼロ点をその起点としていいのかということである。何故なら、差異共振現象において、個象が存するからである。問題は、実軸ゼロ点が独立に存するのか、ということである。実軸ゼロ点とは、あくまで、Media Point における点であり、虚軸ゼロ点とは不分離・不可分の点と考えられる。端的に、即非の関係にあると考えられる。とは言え、両者は未分化ということではない点に注意しなくてはならない。
 だから、上記の図式は、

個象イデア(MP虚軸ゼロ点)⇒個象(MP実軸ゼロ点⇒+1)⇒同一性=物質仮象(+1)

とする必要がある。
 ここで付け加えて言うと、ニヒリズム(ハイデガーや三島由紀夫)の穴であるが、それは、個象⇒同一性の⇒の先端に当たるであろう。それは、Media Point ではありえないのである。

追記:「Media Point において、あるいは、Media Point 平面(Media Point Plane)において、差異共振原個象が発生して、それが、-iへと投影されるときに、差異共振個象⇒+1が発生するということではないのか。」と上述したが、原個象が-iへと投影されて、個象が発生するという考えは、間違っているのではないかと思えたので、再検討したい。
 どうも、この場合、「投影」という発想が違うのではないかと思えるのである。丁寧に考えれば、差異共振現象があるが、それは、+iと-iとの対差異共鳴である。それは、超越光であるが、ここにおいて、個象が生起するのである。だから、問題は、原個象と個象との関係はどうなのか、である。明らかに、超越光である差異共振像があるのであるが、それが原個象なのか個象なのか、である。それは、単純に考えると、個象でいいように思うが、そうなると、原個象は必要なくなるだろう。
 しかし、丁寧に考えると、超越光としての差異共振像とは、Media Point の虚軸ゼロ点が発生していると言うべきである。少なくとも、最初はそうである。虚軸ゼロ点における差異共振像は、しかしながら、端的に、内的ヴィジョンであり、外的ヴィジョンの個象にはなっていないのである。そう、この内性と外性の区別は根本的である。即ち、具体例をあげたように、個象とは眼前の現象を指しているのだから、当然、外的なのであり、外的ヴィジョンである。
 整理しよう。原個象とは、超越光である差異共振像の内的ヴィジョンであり、Media Point の虚軸ゼロ点において形成されるものである。それに対して、個象とは、原個象が外化されたものである。その外化という点では、なんらかの投影が考えられるのである。では、なんらかの投影とは何か。
 眼前の杉の木の幹には節がたくさんついている。明らかに、外部に存している。この外部知覚の力学は何か。投影という概念を使うとき、同一性の投影と区別されなくてはならない。ここでは、いわば、個象の投影が問題なのである。眼前の杉の木を物体と見るのが、同一性の投影である。では、個象投影と同一性投影とはどう異なるのか、ということになる。
 思うに、個象投影とは虚軸ゼロ点の原個象の、実軸ゼロ点を介する、+1への投影である。だから、外的志向性という視点を考えてもいいだろう。それは、外的ヴィジョン志向性でもある。この外的ヴィジョン志向性が、個象を発現するのである。外的ヴィジョン志向性をフッサールに倣ってノエシスと、そして、外的ヴィジョンをノエマと呼ぶことができるかもしれない。ただし、ノエマはこの場合、あくまで、個象であり、同一性=物質ではない。
 では、同一性投影はどうなるのか。それは、当然、個象の外的ヴィジョン志向性の上に成り立っている。端的に言えば、外的ヴィジョン志向性と外的ヴィジョンを切り離して、後者を独立させることが同一性投影である。
 丁寧に見ると、超越光=差異共振像はMedia Point から外的ヴィジョン志向性をもちその先端に外的ヴィジョンを形成する。これが自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1に意味されていることである。⇒を外的ヴィジョン志向性と+1を外的ヴィジョンと呼べる。しかし、そう分離するのは、単に分析の便宜のためであり、本来、差異共振現象においては、分離できない。
 そして、分離する「力」は既述通り、+iの2乗の「力」である。これが、差異共振性を否定して、-1を生み出して、外的ヴィジョンを独立化して、同一性=物質(仮象)を生み出すと考えられるのである。言い換えると、原個象=内的ヴィジョンと個象=外的ヴィジョンを切断し、分離させると言えよう。さらに換言すると、これは、虚軸ゼロ点と実軸ゼロ点の即非性の切断分離と言えよう。【これが、主客二元論や観念論や実在論(唯物論)の発生、即ち、近代西洋哲学の発生を意味しよう。】
 先に述べたように、この-1が+1をいわば奪取するのである。先に、差異共振現象を覆うように同一性=物質像(仮象)が生起すると述べたが、この力学は、差異共振現象を同一性=物質像によって切り取る(抽象する)という作用であると考えられる。喩えて言えば、シャイロックがアントニオの身体から肉1ポンドを切り取るような事態である。生きた身体が差異共振現象であり、切り取られる肉1ポンドが同一性=物質像に相応すると言える。ここには、明らかに、同一性=物質の暴力があるのである。(先にも述べたが、シュタイナー的に言えば、-1が悪魔ルシファーであり、+1が悪魔アーリマンであろう。)
 投影について整理すると、差異共振的外的投影とは、共振力による母権共生的投影像であるが、同一性投影とは差異共振性を否定する同一性=物質像の父権暴力的投影であると言える。言い換えると、前者は根源的投影であり、後者は同一性像の強制的刻印である。前者はプラトンのコーラであり、後者はプラトンの同一性「イデア」やアリストテレスの形相に相当しよう。
 思うに、前者を果たして、投影と呼んでいいのか少し疑問である。投影というよりは端的にヴィジョンである。ヴィジョン照明と言うべきかもしれない。
 
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