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2009年04月15日 (11:25)

「東明」を始祖にする建国神話・始祖伝説:母権的英雄神話?

東明や朱蒙の建国神話は興味深い。ギリシア神話に似ている。ゼウスが金の雨になってダナエーと交わったという神話がある。
 思うに、ここにあるのは、基底の母権神話と父権神話の混交である。あるいは、母権神話への父権神話の侵入である。日の光、金の雨は当然、父権的なものである。そして、豚は女神神話の聖獣と考えられる。馬は、両方に関係しよう。
 また、そこから生まれた王(英雄)の、東明・朱蒙は、母権と父権との融合を感じさせないことはない。私が先に、日本文化に関して、母権制と父権制の融合の可能性を示唆したことに通じよう。
 また、東明とは夜明け・黎明・曙光・払暁であり、朱蒙とは、夕日・夕焼け・落陽・日の入りではないだろうか。つまり、太陽神である。ギリシアでは、アポロンである。
 やはり、母権と父権の融合としての太陽神が考えられるだろう。いわば、文武両道である。平和主義者であり、武人である。
 では、問題は、母権的父権、父権的母権とは何だろうか。それは、実は、自己認識方程式で表現されているのではないだろうか。(+i)*(-i)⇒+1これが、それではないだろうか。これは、先に母権的な本性とした。しかし、⇒+1は差異共振性をもつ光であり、超越光且つ光、超越光・即非・光と考えられる。そう、いわば、ディオニュソス的アポロで、ニーチェが『悲劇の誕生』で示唆していたものと言えよう。
 では、さらに考えると、龍退治の英雄は何だろうか。一見、それは、父権的英雄である。それは、母殺しである。その点では、確かに、父権的英雄である。
 しかしながら、龍退治をしない英雄、龍的な英雄がいるはずである。それが、母権的英雄ではないか。どうも、東明・朱蒙は、そのようなものではないのか。そして、それが、日本の神話と関係するのではないのか。
 日本に渡ったのは、父権的民族というよりは、母権的民族ではなかったか。
 さらに問題は、父権的な神道の発生因である。平田篤胤の国学(神道)には、キリスト教が入っているという説がある。どうやら、明治の父権的神道は、キリスト教譲りかもしれない。
 本来の母権的神道が、その陰にあったのではなかったか。当然、後で再考したい。

東明聖王
『ウィキペディア』
東明聖王
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image:Goguryeo-monarchs(1-6).PNG
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各種表記
ハングル : 동명성왕
漢字 : 東明聖王
平仮名 :
(日本語読み仮名) {{{hiragana}}}
片仮名 :
(現地語読み仮名) トンミョンソンワン
ラテン文字転写 : {{{latin}}}
英語 : Dongmyeong-seongwang

東明聖王(とうめいせいおう、(紀元前58年 - 紀元前19年 )は、高句麗 の初代国王(在位:紀元前37年 - 紀元前19年 )であり、東明王とも呼ばれる。姓は高、諱 は朱蒙(しゅもう、주몽、チュモン)または鄒牟(すうむ、추모、チュム)、衆解(しゅうかい、중해、シュンヘ)とされる。天帝の子を自称する解慕漱 (かいぼそう、해모수、へモス)の子、または扶余 の金蛙王 (きんあおう、금와왕、クムワワン)の庶子とされる。扶余の7人の王子と対立し、卒本(遼寧省 本渓市 桓仁 )に亡命して高句麗を建国し、初代の王となった。
建国神話 [編集 ]

「東明」を始祖にする建国神話・始祖伝説は、扶余・高句麗・百済 に共通して見られるが、歴史的にみれば扶余建国神話の東明と高句麗始祖の朱蒙とは別の人物だと見当がつく。しかしながら東明伝説も朱蒙伝説も筋書が構造的に共通するところが多く、その特徴は檀君 神話と同じく、王の政治的権威の源泉を天に帰属させながら、農業生産を左右する水の神霊の権威を同時に主張することである。ここでは高句麗の建国神話を『三国史記 』に基づいて記述する。扶余の建国神話については後述。百済の始祖神話については、「温祚王#建国神話 」を参照。

天の神の子 [編集 ]

朱蒙は河伯 (ハベク、水神)の娘である柳花(りゅうか、ユファ)を、天帝の子を自称する解慕漱(ヘモス)が孕ませて出来た子と言う。扶余 の金蛙王が柳花を屋敷の中に閉じ込めていると、日の光が柳花を照らし、柳花が身を引いて逃げても日の光がこれを追って照らし、このようにして柳花は身ごもり、やがて大きな卵を産んだ(古代朝鮮では卵は神聖なものとされており、この話は朱蒙を神格化するためのものであると考えられる)。金蛙王はそれを気味が悪いとし、豚小屋などに捨てさせるが、豚がおびえて近かづかなかった。金蛙王はあらゆるところに捨てようとしたが、鳥が卵を抱いて守った。終いには自らで壊そうとしたが硬くて壊せなかった。数日後卵が割れ、男の子が生まれた。それが朱蒙である。

金蛙王の7人の王子たちとの対立 [編集 ]

朱蒙の名の由来は東扶余の言葉で弓 の達人と言う意味である。朱蒙は名のとおり、弓の達人であった為に7人の王子に睨まれた。

朱蒙が20歳になったとき烏伊・摩利・陝父(オイ・マリ・ヒョッポ)の家臣ができた。ある日その3人と一緒に狩に出かけた朱蒙は金蛙王(クムワ)の7人の王子と出会ってしまった。王子たちは1匹の鹿 しか捕まえられなかったが、朱蒙は6匹の鹿を捕まえた。王子たちは落ち込んだが、もう一度狩りをすることになった。王子たちは朱蒙たちの獲物を奪い、朱蒙たちを木に縛って王宮に帰ってしまった。朱蒙は木を引っこ抜き、縄を切って3人の家来たちを助け、王宮に帰った。これを知った、7人の王子たちは父である金蛙王に讒言し、朱蒙を馬小屋の番人にしてしまった。

母親である柳花は朱蒙を脱出させようと考え、良い馬を選ばせる事を決心した。そして朱蒙はある馬屋に行って幾多の馬に鞭を振り回し、その中で一番高く飛び上がった馬の舌に針をさしておいた。その馬はまともに食べることができなくなり、痩せて格好悪くなってしまった。金蛙王がその馬を朱蒙に与えた後、朱蒙は馬の舌からやっと針を抜き出し、三日間にわたってその馬に餌を食べさせた。

亡命と建国 [編集 ]

朱蒙は烏伊・摩離・陝父らとともに旅に出た。淹水(鴨緑江の東北)まで来たときに橋がなく、追っ手に追いつかれるのを恐れて、川に向かって「私は天帝の子で河伯(水神)の外孫である。今日、逃走してきたが追っ手が迫ろうとしている。どうすればいいだろうか」と言った。そうすると、魚や鼈(スッポン)が浮かんできて橋を作り、朱蒙たちは渡ることができた。朱蒙たちが渡り終わると魚たちの橋は解かれ、追っ手は河を渡れなかった。さらに進んで卒本に至って都邑を決め、漢 の孝元帝 の建昭 2年(西暦紀元前37年 )、新羅 祖の赫居世 21年の甲申歳(紀元前37年)に国を建て高句麗 とした。即位直後より辺方を侵略した靺鞨族を討伐して高句麗の民とし、沸流国松譲王の降参を受け、太白山(白頭山 )東南の荇人国を征伐し、紀元前28年には北沃沮を滅亡させた。

王位の継承 [編集 ]

紀元前19年5月、王子の類利(るいり、ユリ、後の瑠璃明王 )がその母(礼氏)とともに扶余から逃れてきた。朱蒙はこのことを喜び、類利を太子として後に王位を受け継がせた。同年9月に朱蒙は40歳で亡くなり、龍山に葬られて諡 号を東明聖王とされた。

建国の年 [編集 ]

『三国史記 』高句麗本紀に広開土王 は東明聖王の12世孫とするが、好太王碑(広開土王碑 )では好太王は鄒牟王の17世孫とする。このことから高句麗の建国となった甲申歳を紀元前277年にする説もある。また、『三国史記』は新羅 王室に連なる慶州金氏 の金富軾 が編纂したものであり、新羅中心主義的な記述とするために高句麗の建国年を新羅の建国よりも後にした、との見方もされている。

扶余の建国伝説との比較 [編集 ]

『後漢書 』夫余伝に見られる建国神話は、以下の通り。

昔、北方に索離国という国があり、王の婢が言われなく身籠ったため、王はこの婢を殺そうとした。婢は「天空に神聖なる気が立ちこめ、私に降り注いだために身籠ったのです」と答えた。王はこの婢を軟禁し、後に男子が生まれた。王はこの子を豚に食べさせようとして豚小屋の前に置いたが、案に相違して豚は息を吹きかけてその子を守ろうとし、死ぬことがなかった。王は今度は馬小屋に持っていったが、馬も同じようにその子を守ろうとした。王はこれは神意を表すものと思い、その母を許してその男子を東明と名づけた。東明は成長して弓術に優れたので、王は東明の勇猛振りを恐れて、これを殺そうと考えた。そこで東明は南方へ逃走し、掩水に至った。川に向かって東明が弓を射ると、魚や鼈が浮かんできて橋を作り、東明はこれに乗って渡り逃れることができた。そして夫余の地に至って王となった。

「扶余の始祖としての東明」の伝説は、古くは『論衡 』吉験篇に見られる。また、『三国志 』夫余伝が『魏略 』からの孫引きとして伝えており、これらの史書の中の高句麗伝では、始祖伝説は見られない。『魏書 』に至って扶余伝はなくなり、代わりに高句麗伝のなかで高句麗の始祖伝説が伝えられるようになった。その伝説の骨子は、元来の東明伝説(扶余の建国神話)に、河伯(水神)の外孫であること、卵生であること、という要素が加わって、高句麗が扶余から出たこと、名を朱蒙とするというものである。また、東明伝説において東明が弓術に優れていたとするのと呼応するように、「朱蒙」という語は「善射」を意味する、とも書かれる。後に高麗 の時代になって、『三国史記 』(1145年 撰上)では、高句麗の始祖を「諱 が朱蒙、諡 が東明聖王」とするようになり、高麗の詩人である李奎報 (1168年-1241年)の叙事詩「東明王篇」(1194年 )においても、高句麗の始祖を東明王と同一視するようになった。さらには『三国遺事 』の時代になって民族的統合の象徴として檀君 に系譜化され、「東明王である朱蒙は檀君の子である」とされるようになったと考えられている。

従来より、扶余の東明伝説と高句麗の朱蒙伝説との共通構造から、両者の民族的同一性が唱えられてきた。しかしこれらの始祖伝説は単純に同一とはみなせず、高句麗の始祖伝説には南方系の卵生型説話の要素を含んでいることや、広開土王碑 文や『魏書』高句麗伝には「東明」の表現が見られないことなどから、東明伝説の構成を元に高句麗独自の概念を踏まえた始祖伝説が形成され、後には『三国史記 』には東明聖王と朱蒙とが同一視されたもの、と考えられている。

陵墓 [編集 ]

東明聖王の陵墓は平壌市 の東方25Kmの地点に推定陵墓が存在し、東明王陵と称されている。元来は集安 にあったものを、平壌遷都とともに遷されている。1993年 5月14日 に金日成 の指示により整備が行われ、敷地面積約220ha、王陵区域、定陵寺区域、陪墳区域が整備された。陵墓は1辺32m、高さ11.5mであり、周囲には中門、祭祀堂、石像などが設けられている。玄室内部には29種の壁画が描かれている。


・・・・・


先代:
-



高句麗王
初代:前37年 -前19年



次代:
瑠璃明王

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%98%8E%E8%81%96%E7%8E%8B

温祚王
『ウィキペディア』
温祚王
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Image:Baekje-monarchs(1-5).PNG
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各種表記
ハングル : 온조왕
漢字 : 温祚王
平仮名 :
(日本語読み仮名) おんそおう
片仮名 :
(現地語読み仮名) オンジョワン
ラテン文字転写 : Onjo-wang
{{{alphabet-type}}}: {{{alphabet}}}

温祚王(おんそおう、生年未詳 - 後28年 )は百済 の初代の王(在位: 前18年 - 後28年 )。源流を扶余 に求める神話を持ち、氏 は扶余、または余とする。
建国神話 [編集 ]

百済の始祖については、少なくとも3種の異なる系譜が伝えられているが、いずれも扶余 につながるものとなっている。また、後に日本に渡来した百済系の人たちの間では、その始祖を都慕王(ともおう、朱蒙)としていたとも伝わる。

『三国史記 』百済本紀 [編集 ]

温祚の父は鄒牟または朱蒙 (高句麗 の始祖)といい、北扶余から逃れて卒本扶余(遼寧省 本渓 市桓仁県)に着いた。扶余王には男児が無く娘が3人いたが、朱蒙の人となりを見て非凡の人であるとして二番目の娘を嫁がせた。その後、扶余王が亡くなったので朱蒙が王位について、二人の子をなした。長子を沸流(ふつりゅう、ビリュ)、次子を温祚といった。朱蒙がかつて扶余にいたときの子(後の高句麗の第2代瑠璃明王 )が朱蒙の下に来て太子となったため、沸流・温祚はこの太子に受け容れられないことを恐れて、烏干・馬黎らの10人の家臣と大勢の人々とともに南方に逃れた。漢山(京畿道 広州市 )まできて負兒嶽に上り、居留地として相応しいかどうかをみることとした。沸流は海浜に住みたいと言い出し、10人の家臣はこの地が都とするに相応しいと諌めたが聞かず、引き連れた人々を分けて、弥鄒忽(びすうこつ、ミチュホル、仁川広域市 )まで行ってそこに国を建て、温祚は漢山の地で慰礼城 (いれいじょう、ウィレソン、京畿道 河南市 )に都を置き、国を起こした。これが前漢 の鴻嘉 3年(前18年 )のことであり、初め10人の家臣に援けられたので国号を「十済」としたが、のちに沸流の下に従った人たちも慰礼城に帰属し、百姓を受け容れたので国号を「百済」と改めた。系譜が扶余に連なるので、氏の名を扶余とした。

* この記事の中にも分注 として、朱蒙が卒本扶余に至った際に越 郡の娘を得て二子をもうけたとする異説を載せている。

『三国史記』百済本紀の分注の別伝 [編集 ]

ある本では百済の始祖について次のように伝える。百済の始祖は沸流王であり、父は優台(ゆうだい、ウデ)といって北扶余王解扶婁(かいふる、ヘ・ブル)の庶孫である。母の名は召西奴(しょうせいぬ、ソソヌ)といって、卒本扶余の延陁勃(えんしぼつ、ヨンチボル)の娘であり、はじめ優台のもとに嫁いで沸流・温祚の二人をなした。優台が死んでから召西奴は卒本で独り暮らしをしていたが、朱蒙が高句麗国を建てたのち、召西奴を引き寄せて王妃とした。国づくりの初期において王妃の功があったので朱蒙は王妃を愛で、沸流ら二人を我が子のように待遇した。しかし、朱蒙が扶余にいた時に礼氏(禮氏)との間に儲けた子の孺留(後の高句麗2代目の瑠璃明王 )が来ると孺留を太子とし、朱蒙の死後は孺留が王位を継いだ。そこで沸流は温祚とともに別に国を建てることを図り、家臣を率いて高句麗を逃れて浿水(鴨緑江 ? 臨津江 ?)・帯水(漢江 )を越え、弥鄒忽に至ってそこに住んだ。

* この記事は、前掲の百済本紀の始祖伝説本文に続けて分注 で記される。

『隋書 』百済伝 [編集 ]

百済の祖先は高麗国(高句麗 )から出た。(以下、扶余の建国神話である東明伝説を要約したと見られる記事が続く。東明伝説については「東明聖王#扶余の建国伝説との比較 」を参照。)東明の後に仇台(きゅうだい、クデ)という慈悲深い人が現れた。初めは国を帯方郡の故地に建てたが、後漢の遼東太守の公孫度が娘を嫁がせ、東夷の強国となった。百家とともに海を渡ったのに因んで「百済」と号した(初以百家濟海,因號百濟)。

* 『三国史記』百済本紀の分注では、上掲の「沸流を始祖とする伝説」に続けて「『北史 』や『隋書』に、東明の後に仇台あり・・・東夷の強国となった」と記され、かつ、「未知孰是」(ある本の伝えるのと、『北史』『隋書』の伝えるのとどちらが正しいのか分からない)ということばで分注を締めくくっている。
* 『隋書』(656年 )よりわずかに早く編纂された『周書 』(636年 )には、「百済の祖先は恐らく馬韓 の属国であり、扶余の別種である。仇台(きゅうだい、クデ)というものがあって、帯方郡 の地に国を興した」とある。また、風俗を記して「毎年四回、始祖である仇台の廟を祭る」ともしており、この祖先祭祀記事は『隋書』百済伝にも受け継がれている。井上訳注本では、『三国志』夫余伝の「漢末に公孫度 が勢力を増したとき、扶余王の慰仇台(いきゅうだい、ウィクデ)が遼東郡に服属した。公孫度が高句麗・鮮卑を牽制するために一族の娘を扶余王の妻とした」と言う記事を、『隋書』が誤って百済の記事に混同させたものとする。(→井上訳注1983)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A9%E7%A5%9A%E7%8E%8B#.E5.BB.BA.E5.9B.BD.E7.A5.9E.E8.A9.B1
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