2005年11月18日 (22:27)

差異共存志向性とは何か:イデア界の虚力的脱構造性とメディア界の構造性

先に、4つの力・知覚に関して言及したが、では、それまで述べていたイデア界の差異共存志向性はどういうものとなるのだろうか。差異共存志向性とは、イデア界の力である。だから、先の4つの力・知覚の考え方は、補足説明が必要だろう。イデア・メディア境界において、イデア界の虚力が作用する。この虚力が連続化して4つの力となるのであるが、しかし、連続化されない虚力あるのである。これが、差異共存志向性ではないか。4つの力・知覚が、連続・同一性の自我を形成するなら、差異共存志向性の虚力は、脱自我、ポスト自我を形成するだろう。だから、4つの力・知覚+一つの虚力・虚知覚だろう。この虚力・虚知覚が、虚次元知覚であり、イデア界知覚である。この虚力・虚知覚・イデア界知覚を近代主義は排出・隠蔽しているのである。これは、自然科学的に見たらどうなるのだろうか。虚力を自然科学ではどう捉えているだろうか。これは、高次元や虚時間等で、考えられているの事象ではないだろうか。因みに、空海は、五大に響き在りと言った。地水火風空である。だから、空が虚力・虚知覚ではないか。この空は、メディア界の空ではなくて、イデア界の空である。また、思うに、「気」とは、この虚力ではないのか。
 思うに、現象界において虚力的創造化することが、差異共創共存主義ではないか。虚力が新たな差異連結を創造するのである。ところで、プラトンのコーラとは、この虚力的形成力を指しているのではないだろうか。これまで、メディア界的形成力がコーラと思っていたが、どんなものも受け入れる容れ物とは、虚力的創造力でしかないだろう。なぜなら、メディア界的形成力とは、構造・原型・形相であるからだ。それは、連続的差異の多様体・位相体である。これは、生成変化するが、連続体の型があるだろう。だから、あらゆる形態をもつというわけにはならないだろう。構造主義としてのメディア界であろう。黄金分割とかフィボナッチ数列とかである。あるいは、有機体の連続性である。脱構造化するには、イデア界の虚力が必要である。そして、コーラとは、融通無碍なものであるのだから、虚力であると見た方がいいだろう。つまり、コーラとは、イデア・メディア境界を超えて、イデア界的虚力であると思う。やはり、プラトンは、決定的にイデア界を捉えていたこととなるだろう。プラトンのイデアは、メディア界的構造とイデア界的脱構造の両方を指しているのである。最初のポスト構造主義者であるし、また、イデア界を明快に指していた点では、デリダやドゥルーズを超えていたと言えるだろう。

p.s. イデア界の虚力の知覚を理性にすれば、カント哲学が解明されるのではないか。純粋理性批判とは、イデア界的知性とメディア界的知性の混同である。これによって、アンチノミーが生じていると考えられるのである。イデア界的知性を不連続的知性、メディア界的知性を連続的知性と区別すれば整合化されるだろう。アンチノミーはないのである。とりあえず、前者をイデア知性、後者をメディア知性と呼べるだろう。近代主義の知性とは現象知性であろう。

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  • Author:sophio・scorpio
  • 2004年(平成16年)9月23日、ブログ上で、ODAウォッチャーズ氏(ブログ『海舌』)と遭遇して、新しい理論、不連続的差異論が誕生しました。まったく思いもよらぬ出来事でしたが、この結果、独創的な理論が生まれたと自負しています。とても簡潔な理論ですが、文系、理系の分化を乗り越えた統一的理論で、多くの分野・領域に適用可能だと考えられます。
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