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2009年04月25日 (18:17)

日本文化の源流:一神教的父権文化と多神教的母権文化の日本二重文化:平成女神・母権文化復活へ

先に述べことの整理である。
http://ameblo.jp/renshi/entry-10248545782.html

今はまったく勘働きで、思いつきを述べていく。先にも述べたが、東明聖王の建国伝説(神話:思うに、神話という言葉よりは伝説ないしは伝承と言う方が適切である)は、神話学者のジョセフ・キャンベルや『母権制』のバッハオーフェンの視点から言うと、明らかに、女神・母権文化を意味している。
 端的に、東明は母権的英雄であり、その点では、ケルト神話に似ていると言えよう。母権的英雄とは、大女神、大母神が背景に存している英雄であり、ギリシア神話のような父権的英雄は異なると考えられる。もっとも、ギリシア神話の英雄にも女神がついてはいるが、より父権的志向を意味していると考えられる。
 つまり、東明は、ケルト民族と同様に、女神・母権文化を体現しているということになる。それが、日本へ入ったとき、日本の土着的母権文化(卑弥呼の母権文化)と融合するのは、見やすいことである。卑弥呼の母権文化がシャーマニズム文化ならば、東明の女神・母権文化は、いわば、古代オリエント的文化である。あるいは、古代エジプト的文化である。即ち、イシスとオシリス神話的である。死んで蘇る神の神話である。死と復活の神話である。
 当然、シャーマニズムと死と復活神話は結びつきやすい。結局、女神が支配する霊魂の神話である。
 もし、そうならば、記紀にある父権神話をどう見るのかである。
 つまり、天孫降臨神話をどうみるのか、ということになる。明らかに、男尊女卑がある。それは、聖書に近いと言えよう。そうすると、女神・母権神話以外に、父権神話がやはり入っていたということになる。
 ここで考えられるのは、先にも触れたが、異質な文化、つまり、二種類の民族・文化の侵入である。一つは、東明的母権民族であり、一つは、ユダヤ的父権民族である。後者の父権意識が、記紀の男尊女卑をもたらしたのではないだろうか。しかるに、実質においては、土着的文化(卑弥呼的シャーマニズム文化)と東明的母権文化の融合に拠る母権文化がかなり濃厚にあったはずである。つまり、古代日本において、母権文化と父権文化の強烈な衝突があったのであり、その痕跡が記紀ではないだろうか。先に述べたように、ギリシア神話と似ているのである。ただし、ユダヤ的なものが入っていると、それは、ギリシア神話よりも、超越性が強化されよう。
 先に触れたが、日本書紀の日神と素戔嗚尊の争いは二つの文化の衝突を意味していて、表面的には、男尊女卑なのである。
 そうすると、古代日本においては、一神教的父権文化と多神教(以下、多神教という用語にシャーマニズム、アニミズムを含めて使用している)的母権文化が強烈に混淆したということが考えられよう。
 この考えは、先の日本二重文化論よりも展開している。先は単に、母権文化と父権文化の二重文化性を述べたに過ぎなかったが、今や、多神教的母権文化と一神教的父権文化の二重性となったからである。
 そう見ると、明治維新の社会変革が何であったかよくわかるだろう。つまり、日本二重文化の一神教的父権文化が中心となり、多神教的母権文化をともないながら、新生した史的大変革である。しかし、前者が国家神道となり、後者を否定していった歴史が近代日本ではなかったか。そして、狂気の戦争へと突入して、破滅したのである。
 そして、戦後は神道が否定されて、日本文化は魂を喪失した。しかしながら、日本二重文化の多神教的母権文化の活性化が今日考えられるのである。
 今日、日本二重文化の一神教的父権文化が支配的となり、平成ファシズム的になっているのである。今日の日本の危機を乗り越えるには、日本二重文化のいわば、基盤である女神・母権文化に回帰する必要があるのではないだろうか。今はここで留める。

参考:
東明聖王
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
東明聖王
ファイル:Goguryeo-monarchs(1-6).PNG
各種表記
ハングル : 동명성왕
漢字 : 東明聖王
片仮名 :
(現地語読み仮名) トンミョンソンワン
英語 : Dongmyeong-seongwang
表 ・話 ・編 ・歴

東明聖王(とうめいせいおう、(紀元前58年 - 紀元前19年 )は、高句麗 の初代国王(在位:紀元前37年 - 紀元前19年 )であり、東明王とも呼ばれる。姓は高、諱 は朱蒙(しゅもう、주몽、チュモン)または鄒牟(すうむ、추모、チュム)、衆解(しゅうかい、중해、シュンヘ)とされる。天帝の子を自称する解慕漱 (かいぼそう、해모수、へモス)の子、または扶余 の金蛙王 (きんあおう、금와왕、クムワワン)の庶子とされる。扶余の7人の王子と対立し、卒本(遼寧省 本渓市 桓仁 )に亡命して高句麗を建国し、初代の王となった。
建国神話 [編集 ]

「東明」を始祖にする建国神話・始祖伝説は、扶余・高句麗・百済 に共通して見られるが、歴史的にみれば扶余建国神話の東明と高句麗始祖の朱蒙とは別の人物だと見当がつく。しかしながら東明伝説も朱蒙伝説も筋書が構造的に共通するところが多く、その特徴は檀君 神話と同じく、王の政治的権威の源泉を天に帰属させながら、農業生産を左右する水の神霊の権威を同時に主張することである。ここでは高句麗の建国神話を『三国史記 』に基づいて記述する。扶余の建国神話については後述。百済の始祖神話については、「温祚王#建国神話 」を参照。

天の神の子 [編集 ]

朱蒙は河伯 (ハベク、水神)の娘である柳花(りゅうか、ユファ)を、天帝の子を自称する解慕漱(ヘモス)が孕ませて出来た子と言う。扶余 の金蛙王が柳花を屋敷の中に閉じ込めていると、日の光が柳花を照らし、柳花が身を引いて逃げても日の光がこれを追って照らし、このようにして柳花は身ごもり、やがて大きな卵を産んだ(古代朝鮮では卵は神聖なものとされており、この話は朱蒙を神格化するためのものであると考えられる)。金蛙王はそれを気味が悪いとし、豚小屋などに捨てさせるが、豚がおびえて近かづかなかった。金蛙王はあらゆるところに捨てようとしたが、鳥が卵を抱いて守った。終いには自らで壊そうとしたが硬くて壊せなかった。数日後卵が割れ、男の子が生まれた。それが朱蒙である。

金蛙王の7人の王子たちとの対立 [編集 ]

朱蒙の名の由来は東扶余の言葉で弓 の達人と言う意味である。朱蒙は名のとおり、弓の達人であった為に7人の王子に睨まれた。

朱蒙が20歳になったとき烏伊・摩利・陝父(オイ・マリ・ヒョッポ)の家臣ができた。ある日その3人と一緒に狩に出かけた朱蒙は金蛙王(クムワ)の7人の王子と出会ってしまった。王子たちは1匹の鹿 しか捕まえられなかったが、朱蒙は6匹の鹿を捕まえた。王子たちは落ち込んだが、もう一度狩りをすることになった。王子たちは朱蒙たちの獲物を奪い、朱蒙たちを木に縛って王宮に帰ってしまった。朱蒙は木を引っこ抜き、縄を切って3人の家来たちを助け、王宮に帰った。これを知った、7人の王子たちは父である金蛙王に讒言し、朱蒙を馬小屋の番人にしてしまった。

母親である柳花は朱蒙を脱出させようと考え、良い馬を選ばせる事を決心した。そして朱蒙はある馬屋に行って幾多の馬に鞭を振り回し、その中で一番高く飛び上がった馬の舌に針をさしておいた。その馬はまともに食べることができなくなり、痩せて格好悪くなってしまった。金蛙王がその馬を朱蒙に与えた後、朱蒙は馬の舌からやっと針を抜き出し、三日間にわたってその馬に餌を食べさせた。

亡命と建国 [編集 ]

朱蒙は烏伊・摩離・陝父らとともに旅に出た。淹水(鴨緑江の東北)まで来たときに橋がなく、追っ手に追いつかれるのを恐れて、川に向かって「私は天帝の子で河伯(水神)の外孫である。今日、逃走してきたが追っ手が迫ろうとしている。どうすればいいだろうか」と言った。そうすると、魚や鼈(スッポン)が浮かんできて橋を作り、朱蒙たちは渡ることができた。朱蒙たちが渡り終わると魚たちの橋は解かれ、追っ手は河を渡れなかった。さらに進んで卒本に至って都邑を決め、漢 の孝元帝 の建昭 2年(西暦紀元前37年 )、新羅 祖の赫居世 21年の甲申歳(紀元前37年)に国を建て高句麗 とした。即位直後より辺方を侵略した靺鞨族を討伐して高句麗の民とし、沸流国松譲王の降参を受け、太白山(白頭山 )東南の荇人国を征伐し、紀元前28年には北沃沮を滅亡させた。

王位の継承 [編集 ]

紀元前19年5月、王子の類利(るいり、ユリ、後の瑠璃明王 )がその母(礼氏)とともに扶余から逃れてきた。朱蒙はこのことを喜び、類利を太子として後に王位を受け継がせた。同年9月に朱蒙は40歳で亡くなり、龍山に葬られて諡 号を東明聖王とされた。

建国の年 [編集 ]

『三国史記 』高句麗本紀に広開土王 は東明聖王の12世孫とするが、好太王碑(広開土王碑 )では好太王は鄒牟王の17世孫とする。このことから高句麗の建国となった甲申歳を紀元前277年にする説もある。また、『三国史記』は新羅 王室に連なる慶州金氏 の金富軾 が編纂したものであり、新羅中心主義的な記述とするために高句麗の建国年を新羅の建国よりも後にした、との見方もされている。

扶余の建国伝説との比較 [編集 ]

『後漢書 』夫余伝に見られる建国神話は、以下の通り。

昔、北方に索離国という国があり、王の婢が言われなく身籠ったため、王はこの婢を殺そうとした。婢は「天空に神聖なる気が立ちこめ、私に降り注いだために身籠ったのです」と答えた。王はこの婢を軟禁し、後に男子が生まれた。王はこの子を豚に食べさせようとして豚小屋の前に置いたが、案に相違して豚は息を吹きかけてその子を守ろうとし、死ぬことがなかった。王は今度は馬小屋に持っていったが、馬も同じようにその子を守ろうとした。王はこれは神意を表すものと思い、その母を許してその男子を東明と名づけた。東明は成長して弓術に優れたので、王は東明の勇猛振りを恐れて、これを殺そうと考えた。そこで東明は南方へ逃走し、掩水に至った。川に向かって東明が弓を射ると、魚や鼈が浮かんできて橋を作り、東明はこれに乗って渡り逃れることができた。そして夫余の地に至って王となった。

「扶余の始祖としての東明」の伝説は、古くは『論衡 』吉験篇に見られる。また、『三国志 』夫余伝が『魏略 』からの孫引きとして伝えており、これらの史書の中の高句麗伝では、始祖伝説は見られない。『魏書 』に至って扶余伝はなくなり、代わりに高句麗伝のなかで高句麗の始祖伝説が伝えられるようになった。その伝説の骨子は、元来の東明伝説(扶余の建国神話)に、河伯(水神)の外孫であること、卵生であること、という要素が加わって、高句麗が扶余から出たこと、名を朱蒙とするというものである。また、東明伝説において東明が弓術に優れていたとするのと呼応するように、「朱蒙」という語は「善射」を意味する、とも書かれる。後に高麗 の時代になって、『三国史記 』(1145年 撰上)では、高句麗の始祖を「諱 が朱蒙、諡 が東明聖王」とするようになり、高麗の詩人である李奎報 (1168年-1241年)の叙事詩「東明王篇」(1194年 )においても、高句麗の始祖を東明王と同一視するようになった。さらには『三国遺事 』の時代になって民族的統合の象徴として檀君 に系譜化され、「東明王である朱蒙は檀君の子である」とされるようになったと考えられている。

従来より、扶余の東明伝説と高句麗の朱蒙伝説との共通構造から、両者の民族的同一性が唱えられてきた。しかしこれらの始祖伝説は単純に同一とはみなせず、高句麗の始祖伝説には南方系の卵生型説話の要素を含んでいることや、広開土王碑 文や『魏書』高句麗伝には「東明」の表現が見られないことなどから、東明伝説の構成を元に高句麗独自の概念を踏まえた始祖伝説が形成され、後には『三国史記 』には東明聖王と朱蒙とが同一視されたもの、と考えられている。

陵墓 [編集 ]

東明聖王の陵墓は平壌市 の東方25Kmの地点に推定陵墓が存在し、東明王陵と称されている。元来は集安 にあったものを、平壌遷都とともに遷されている。1993年 5月14日 に金日成 の指示により整備が行われ、敷地面積約220ha、王陵区域、定陵寺区域、陪墳区域が整備された。陵墓は1辺32m、高さ11.5mであり、周囲には中門、祭祀堂、石像などが設けられている。玄室内部には29種の壁画が描かれている。

東明聖王が登場する作品 [編集 ]

* 朱蒙 (テレビドラマ) (2006年、演:ソン・イルグク )

参考文献 [編集 ]

* 『三国史記 』第2巻 金富軾 撰 井上秀雄 訳注、平凡社〈東洋文庫425〉、1983 ISBN 4-582-80425-X
* 『朝鮮史』 武田幸男 編、山川出版社<新版世界各国史2>、2000 ISBN 4-634-41320-5


先代:
-



高句麗王
初代:前37年 -前19年



次代:
瑠璃明王

"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%98%8E%E8%81%96%E7%8E%8B " より作成
カテゴリ : 高句麗王

金蛙王
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

金蛙王(きんあおう、금와왕、クムワワン)は高句麗建国神話に現れる伝説上の人物であり、扶余 王解夫婁(かいふる、ヘ・プル)の子、東明王(東明聖王、朱蒙 )の父とされる。東明王の誕生については東明聖王 を参照のこと。
誕生 [編集 ]

解夫婁王は老いて子が無く嗣子を求めていた。ある日鯤淵(こんえん、地名)の池で、王の乗っていた馬が岩を見て立ち止まり涙を流した。王は不思議に思い、その岩を動かしてみると金色の蛙の姿をした子供がいた。王は天が私に嗣子を与えてくれたと思い、名を金蛙と名付け太子とした。

その後、宰相の阿蘭弗が「天の神が私に降臨して、『吾が子孫がいずれ国を作るだろう。この地から離れなさい。東海に迦葉原(かはばる、かしょうげん)という地がある。そこは五穀が良く実る。ここに都を遷すと良いだろう。』と言いました。」と解夫婁に進言し、王は都を迦葉原の地に遷都し国名を東扶余 とした。

このようにして扶余の都から元の王である解夫婁がなくなった後、天帝の子を自称する解慕漱(かいぼそう、へ・モス)がどこからか現れて、都を開いて扶余王となった。解慕漱がなくなった後、金蛙は扶余王となった。

名前 [編集 ]

金色のカエル の姿をした子供とは人間にとって不気味に思えるかもしれない。だが、古代中国ではカエルを神聖なものとして扱うことが多く、その文化の影響を受けた朝鮮半島でも神聖なものとして扱ったと思われる。

演じた俳優 [編集 ]

* チョン・グァンリョル (テレビドラマ『朱蒙 ~チュモン~ 』で金蛙を演じた)

参考文献及び外部リンク [編集 ]

* 三國史記 高句麗本紀
* 『三国史記 』第2巻 金富軾 撰 井上秀雄 訳注、平凡社〈東洋文庫425〉、1983 ISBN 4-582-80425-X

"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E8%9B%99%E7%8E%8B " より作成
カテゴリ : 朝鮮史の人物

卑弥呼
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
卑弥呼(ひみこ、175年 頃? - 248年 頃)は、日本の弥生時代 後期における倭国 の女王 (倭王)とされる人物。邪馬台国 を治めた。封号 は親魏倭王 。後継には親族 の台与 が女王に即位したとされる。本来の表記は「卑(上部の「ノ」が無い)彌呼」である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%91%E5%BC%A5%E5%91%BC

倭迹迹日百襲媛命
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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天皇略系図(初代 - 第10代) SVGで表示(対応ブラウザのみ)

倭迹迹日百襲媛命(やまとととひももそひめのみこと、生没年不詳)は、孝霊天皇 の皇女。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%AD%E8%BF%B9%E8%BF%B9%E6%97%A5%E7%99%BE%E8%A5%B2%E5%AA%9B%E5%91%BD

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