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2009年05月10日 (13:16)

「矛盾」の問題:極性的対立(反対)と不整合的対立:絶対矛盾的自己同一と絶対差異対立的自己非同一

先に、オバマ政権は二つの「絶対矛盾」があると言った。一つは、差異共振路線における「絶対矛盾」であり、一つは、差異共振主義と同一性主義の「絶対矛盾」である。
 前者は、民主主義と自由主義との「絶対矛盾」であり、これは極性的対立(反対)なのであり、後者は正に、相容れない対立である。
 思うに、「矛盾」は同一性=物質世界における相互否定の対立を意味すると限定した方がいいのではないか。
 差異共振・即非とは、精神・超越性における相互否定的対立である。
 同一性と差異は峻別されるべきであり、それぞれにおいて対立は異なる論理となるのである。同一性の論理(アリストテレス論理)と即非の論理である。前者の対立を「矛盾」とすることになるのである。
 では、西田哲学の「絶対矛盾的自己同一」の「絶対矛盾」は何か。西田幾多郎は個物と個物の相互限定として、「絶対矛盾」を考えている。それは、一見、同一性=物質の世界のことに見える。
 思うに、西田は同一性と差異を混同している可能性がある。しかしながら、例えば、「私」と「山」は差異共振するのである。その場合、両者は同一性だろうか。否、その場合、両者は共に差異である。
 西田の思想を差異主義とするならば、個物と個物の相互限定は即非的となる。そうならば、同一性と差異との混同はない。
 では、「絶対矛盾」の「矛盾」とは、差異共振・即非論理となる。そうすると、上述の定義からすると、それは間違いである。だから、「絶対矛盾」ではなく、差異共振・即非である。あるいは、「絶対差異対立」である。そう、「矛盾」は差異対立とするといいのである。
 以上の視点から西田哲学を見なすと、明快になるのではないだろうか。絶対差異対立的自己同一理論である。つまり、即非の論理やPS理論に通じると言えよう。
 簡単に、絶対対立的自己同一ないしは絶対差異的自己同一性とすればいいだろう。
 しかし、自己同一という発想も問題である。それは、自己同一ではない。自己非同一である。だから、絶対差異対立的自己非同一である。西田哲学の脱構築である。

追記:反対の一致という観念も問題があるだろう。PS理論から言えば、一致しないのである。反対は共振・共鳴するのであり、即非の論理をもつのである。
 また、ヘーゲル弁証法も当然問題である。対立の統一はありえないからである。西洋哲学は、やはり、デリダが説くようにロゴス中心主義、即ち、同一性主義なのである。

参考:
絶対矛盾的自己同一
西田幾多郎
     一

 現実の世界とは物と物との相働く世界でなければならない。現実の形は物と物との相互関係と考えられる、相働くことによって出来た結果と考えられる。しかし物が働くということは、物が自己自身を否定することでなければならない、物というものがなくなって行くことでなければならない。物と物とが相働くことによって一つの世界を形成するということは、逆に物が一つの世界の部分と考えられることでなければならない。例えば、物が空間において相働くということは、物が空間的ということでなければならない。その極、物理的空間という如きものを考えれば、物力は空間的なるものの変化とも考えられる。しかし物が何処(どこ)までも全体的一の部分として考えられるということは、働く物というものがなくなることであり、世界が静止的となることであり、現実というものがなくなることである。現実の世界は何処までも多の一でなければならない、個物と個物との相互限定の世界でなければならない。故に私は現実の世界は絶対矛盾的自己同一というのである。
 かかる世界は作られたものから作るものへと動き行く世界でなければならない。それは従来の物理学においてのように、不変的原子の相互作用によって成立する、即ち多の一として考えられる世界ではない。爾(しか)考えるならば、世界は同じ世界の繰返しに過ぎない。またそれを合目的的世界として全体的一の発展と考えることもできない。もし然らば、個物と個物とが相働くということはない。それは多の一としても、一の多としても考えられない世界でなければならない。何処までも与えられたものは作られたものとして、即ち弁証法的に与えられたものとして、自己否定的に作られたものから作るものへと動いて行く世界でなければならない。基体としてその底に全体的一というものを考えることもできない、また個物的多というものを考えることもできない。現象即実在として真に自己自身によって動き行く創造的世界は、右の如き世界でなければならない。現実にあるものは何処までも決定せられたものとして有でありながら、それはまた何処までも作られたものとして、変じ行くものであり、亡び行くものである、有即無ということができる。故にこれを絶対無の世界といい、また無限なる動の世界として限定するものなき限定の世界ともいったのである。
 右の如き矛盾的自己同一の世界は、いつも現在が現在自身を限定すると考えられる世界でなければならない。それは因果論的に過去から決定せられる世界ではない、即ち多の一ではない、また目的論的に未来から決定せられる世界でもない、即ち一の多でもない。元来、時は単に過去から考えられるものでもなければ、また未来から考えられるものでもない。現在を単に瞬間的として連続的直線の一点と考えるならば、現在というものはなく、従ってまた時というものはない。過去は現在において過ぎ去ったものでありながら未(いま)だ過ぎ去らないものであり、未来は未だ来らざるものであるが現在において既に現れているものであり、現在の矛盾的自己同一として過去と未来とが対立し、時というものが成立するのである。而(しか)してそれが矛盾的自己同一なるが故に、時は過去から未来へ、作られたものから作るものへと、無限に動いて行くのである。
 瞬間は直線的時の一点と考えねばならない。しかし、プラトンが既に瞬間は時の外にあると考えた如く、時は非連続の連続として成立するのである。時は多と一との矛盾的自己同一として成立するということができる。具体的現在というのは、無数なる瞬間の同時存在ということであり、多の一ということでなければならない。それは時の空間でなければならない。そこには時の瞬間が否定せられると考えられる。しかし多を否定する一は、それ自身が矛盾でなければならない。瞬間が否定せられるということは、時というものがなくなることであり、現在というものがなくなることである。然らばといって、時の瞬間が個々非連続的に成立するものかといえば、それでは時というものの成立しようはなく、瞬間というものもなくなるのである。時は現在において瞬間の同時存在ということから成立せなければならない。これを多の一、一の多として、現在の矛盾的自己同一から時が成立するというのである。現在が現在自身を限定することから、時が成立するともいう所以(ゆえん)である。時の瞬間において永遠に触れるというのは、瞬間が瞬間として真の瞬間となればなるほど、それは絶対矛盾的自己同一の個物的多として絶対の矛盾的自己同一たる永遠の現在の瞬間となるというにほかならない。時が永遠の今の自己限定として成立するというのも、かかる考を逆にいったものに過ぎない。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000182/files/1755.html
青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)


参考2:

反対の一致coincidentia oppositorum
ニコラウス・クザーヌス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: ナビゲーション , 検索
ニコラウス・クザーヌス

ニコラウス・クザーヌス(Nicolaus Cusanus、1401年 - 1464年 8月11日 )は、ドイツ の哲学者 ・数学者 ・枢機卿 。

ドイツのモーゼル河畔のクースに生まれる。 ハイデルベルク大学で学び、パドヴァ大学で教会法の博士号を取得。さらにケルン大学で偽ディオニシウス・アレオパギタ らの思想に触れる。その後1430年 司祭 に叙階され、バーゼル公会議 (フィレンツェ公会議 )では指導的な立場で活躍、高名を得る。東西教会の和解のためにも奔走し、教皇使節としてコンスタンティノープル を訪問。1448年 に枢機卿、1450年 ブリクセン大司教。1464年 トーディにて死去。彼の生涯は教会政治家としての実践と、思想家としての理論が融合した類い希なものであった。
思想 [編集 ]

クザーヌスは「知ある無知」や「反対の一致」などという独創的な思想を唱えた。クザーヌスによれば神の本質は、あらゆる対立の統一=反対者の一致である。無限の中では極大と極小(神と被造物)が一致する。すべての被造物は神の映しであり、それぞれの独自な個性を持ちながらも、相互に調和している。中でも人間は自覚的に神を映し出す優れた存在であり、認識の最終段階においては神との合一が可能であるという。

彼の思索は中世の混沌のなかから近代的思考を準備したと高く評価されている。 また、カール・ヤスパース や西田幾多郎 など後生にも多大な影響を与えたと言われている。日本では、生誕600年を期に注目が高まり、研究が進んでいる。

主要著作 [編集 ]

* De concordantia catholica
o 普遍的和合について(カトリック的和合について)
* De docta ignorantia
o 学識ある無知について
* De filiatione dei
o 神の子であることについて
* De dato patris luminum
o 光の父の贈りもの
* De visione dei
o 神を見ることについて
* Trialogus de possest
o 可能現実存在
* Directio speculantis, seu De non aliud
o 観察者の指針,すなわち非他なるものについて
* Complementum theologicum
o 神学綱要
* De venatione sapientiae
o 智慧の狩猟について

日本語訳一覧 [編集 ]

* 『知ある無知』(De docta ignorantia,1440年 )岩崎・大出訳、創文社
* 『隠れたる神についての対話』(De dep abscondito,1445年 )
* 『神の探求について』(De quaerendo Deum,1445年 )
* 『神の子であることについて』(De filiatione Dei,1445年 )大出・坂本訳、創文社
* 『可能現実存在』(De possest,1460年)大出・八巻訳、国文社  1987年
* 『非他なるもの』(De non aliud,1462年)松山康国訳:『ドイツ神秘主義叢書7』創文社 1992年
* 『創造についての対話』(De Genesi,1446年)
* 『知恵に関する無学者考』(Idiota de sapientia,1450年)
* 『信仰の平和』(De pace fidei,1453年)
* 『テオリアの最高段階について』(De apice theoriae,1463年):上智大学 中世思想研究所監修/『中世思想原典集成17 中世末期の神秘思想』平凡社  1992年掲載
* 『光の父の贈りもの』(De dato patris luminum,1445年)/大出・高岡訳、国文社 1993年
* 『神の子であることについて』『神を見ることについて』(De visione Dei,1453年)
* 『観想の極地について』坂本尭訳/『知恵の狩猟について』(De venatione sapientiae,1463年)酒井・岩田訳:『キリスト教神秘主義著作集10 クザーヌス』教文館  2000年掲載
* 『神の子であることについて』『神を見ることについて』(De visione Dei,1453年)/『観想の極地について』坂本尭訳/『知恵の狩猟について』(De venatione sapientiae,1463年)坂本・岩田訳:『キリスト教神秘主義著作集10 クザーヌス』教文館 2000年掲載
* 『神を観ることについて』八巻和彦訳、岩波文庫  2001年(ほかに、説教と書簡を一つずつ掲載)
* 『神学綱要』(Compendium,1463年 )大出・野沢訳、国文社 2002年

関連項目 [編集 ]
ウィキメディア・コモンズ
ウィキメディア・コモンズ には、ニコラウス・クザーヌス に関連するマルチメディアがあります。
"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%82%B3%E3%83%A9%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%82%B6%E3%83%BC%E3%83%8C%E3%82%B9 " より作成
カテゴリ : ドイツの哲学者 | ドイツの数学者 | キリスト教神学者 | キリスト教神秘思想家 | 枢機卿 | 15世紀の数学者 | 数学に関する記事 | 1401年生 | 1464年没
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