2005年11月20日 (02:44)
イデア・メディア境界とイデア界的身体/意識について:イデア知覚とメディア知覚
先の諸考察を整理する必要があるが、ポイントは、イデア界の力を把握した思考をどう捉えるかである。自我、現象自我とは、イデア界→メディア界→現象界の帰結としてあり、これは、歴史的には、近代主義である。(宗教的には、キリスト教の誕生がそうだろう。イデア界が現象界になるのであるから。)しかし、この連続・同一性の志向性は、反転して、イデア界←メディア界←現象界という差異への志向性となる。これが、ポスト・モダニズムである。脱近代主義である。哲学的には、ニーチェとフッサールが巨大な震源である。これは、物理学では、相対性理論、量子力学とパラレルである。文学・芸術では、「モダニズム」がパラレルである。
明確にしなくてはいけないことは、メディア界の意味である。これは、連続・構造界であり、現象界の原型・形相の世界であることである。現象界にとっての直前の超越論的世界である。カントの超越論的形式は、メディア界の一つであると言えよう。先に、身体をメディア界と考えたが、それは正しいだろうか。つまり、身体とは超越論的世界や原型・形相・構造の世界になるのだろうか。メディア界は差異・ゼロ度連結界である。この差異・ゼロ度連結において、ゼロ度的側面において思考・知性が、差異的側面において身体が発現するだろうが、両者は相補性を形成すると考えられる。つまり、
身体ー差異/ゼロ度ー思考
である。だから、メディア界は身心体と呼んでもいいだろう。とまれ、身体をメディア界とするのは、不正確である。身心体をメディア界とするのが正しい。では、身心体において、超越論界があることになる。身心性の四つの知覚、感覚・感情・直観・知性と、超越論性がどう結びつくのだろうか。これは、カント的に考えて、超越論的感覚・感情・直観・知性があるとすればいいだろう。つまり、超越論的身心体性である。これが、原型・形相・構造となる。一種の超越論的主観性である。メディア界的超越論的主観性である。
問題は、この超越論性を知覚できるのかということである。ここでも直観で述べよう。身心体において感じる過剰な知覚は何だろうか。感覚のフレームを超えるような過剰な、何か超越的な知覚とは何だろうか。これは、思うに、一種の超越論的主観性だと思う。ならば、身心体において、超越論性を知覚できるのである。つまり、差異/ゼロ度というメディア界である身心体を知覚できるのである。超越論的知覚を得ているのである。
そして、さらに問題は、このメディア界的知覚は、イデア界的知覚に達するのではないかということである。メディア界はイデア界に接している。だから、理論的に、メディア界的超越論的知覚は、イデア界に触れることができるのである。これは、すぐれた哲学者、芸術家、宗教家等において存していることだろう。
では、この接触したイデア界はどのような知覚をもたらすのか。それは、一言で言えば、カオスモスの知覚である。あるいは、西田哲学の絶対矛盾的自己同一である。これは、力の知覚でもある。ニーチェのディオニュソスとはこの知覚であろう。簡単に言えば、一即多である。実際はもっとはるかに複雑だろうが。とまれ、不連続的差異と不連続的差異とが共立しつつ、連結する状態である。ここには、イデア界の力とメディア界の力とが混交しているだろう。問題は、このイデア界の力がどういう機能をもつのかである。これは、正に、脱構築であろう。メディア界の構造を解体するだろう。正確に言えば、脱構造化であろう。つまり、連結・連続化した差異の構造を、イデア界の力は解体させるのである。つまり、不連続化させるのである。この頂点にニーチェ哲学がある。問題は、このイデア界の力とメディア界の力とをドゥルーズのように混同しやすいことである。不連続性の力と連続性の力とが混同されやすいのである。これをどう識別するのか。これはとても難しいと思う。なぜならば、連続化と同時に、不連続性に触れるからである。ここで、特異性を考えるといいだろう。不連続性とは特異性である。この特異性がメルクマールとなるだろう。イデア界の力とは特異性を形成する。例えば、コギトとは、特異性であるから、イデア界の力である。また、自然との一体感というのは、それを感じる自己は特異性であるが、一体感は連続性であるから、メディア界の力が入っていると言えるだろう。ということで、特異性が区別する契機になるだろう。
では、イデア界の力、特異性はどのような力学をもつのだろうか。いわば、脱構造的「構造」を形成するのではないか。つまり、共立である。不連続的差異の共立構造を形成するのだろう。これは、メディア界的な連続構造とは異質のものである。ドゥルーズ&ガタリが離接(分離的接合)と呼んだものに近いだろう。あるいは、ガタリの用語だと思うが、機械状アジャンスマン(アレンジメント)に似ているだろう。これは、近代の連合、連帯、アソシエーション、コミューン、団結等々とは全く異なるもの、次元の異なるものである。共立、共存、共生であろう。これは、フッサール現象学の志向性の世界である。不連続的差異の他者の不連続的差異への志向性がある世界である。そして、ここは、コナトゥス(自己保存力)が機能している世界である。しかし、また、不連続的差異の境界的調和が作用している「調和」の世界でもあるだろう。おそらく、原調和の世界である。イデア・メディア境界において、ゼロ度の調和があるだろう。
そうなると、イデア界の力、即ち、虚力は、(独特の)創造性をもつだろう。不連続的創造性である。これまでにないものを生み出すと言えるだろう。発見や発明。つまり、イデア界の虚力は、新しいメディアを創出するだろう。あるいは、ポスト・メディアである。つまり、不連続的差異・特異性の共立である脱メディアの創出である。
最後に、イデア界の虚力と想像力についてである。想像力とは何かである。イメージ力とは何か。あるいは、実在感とは何か。夢は実在感がある。何故か。実在感の基礎がはたらいているからだろう。実在感の原基は、イデア界なのかメディア界なのか。これは、夢はメディア界的であり、実在感もほぼメディア界に拠るだろう。そして、想像力は、やはり、メディア界的なものだろう。しかし、夢、実在感、想像力は、メディア界のみを根拠にしているのか。イデア界の力がないのだろうか。今は、指摘だけするが、イデア界の力がやはり作用しているのではないだろうか。例えば、小説を読んで深く作品世界に参入しているとき、それは、メディア界的であると同時に、読者が創り出している虚構世界だから、イデア界的創造力がはたらいているのではないか。虚構は、単にメディア界的構造では形成できないのではないだろうか。メディア界は、構造という固定した世界であるからと考えられるからである。想像力には、やはり、イデア界の創造力が必要のように思える。後で、検討を深めたい。
明確にしなくてはいけないことは、メディア界の意味である。これは、連続・構造界であり、現象界の原型・形相の世界であることである。現象界にとっての直前の超越論的世界である。カントの超越論的形式は、メディア界の一つであると言えよう。先に、身体をメディア界と考えたが、それは正しいだろうか。つまり、身体とは超越論的世界や原型・形相・構造の世界になるのだろうか。メディア界は差異・ゼロ度連結界である。この差異・ゼロ度連結において、ゼロ度的側面において思考・知性が、差異的側面において身体が発現するだろうが、両者は相補性を形成すると考えられる。つまり、
身体ー差異/ゼロ度ー思考
である。だから、メディア界は身心体と呼んでもいいだろう。とまれ、身体をメディア界とするのは、不正確である。身心体をメディア界とするのが正しい。では、身心体において、超越論界があることになる。身心性の四つの知覚、感覚・感情・直観・知性と、超越論性がどう結びつくのだろうか。これは、カント的に考えて、超越論的感覚・感情・直観・知性があるとすればいいだろう。つまり、超越論的身心体性である。これが、原型・形相・構造となる。一種の超越論的主観性である。メディア界的超越論的主観性である。
問題は、この超越論性を知覚できるのかということである。ここでも直観で述べよう。身心体において感じる過剰な知覚は何だろうか。感覚のフレームを超えるような過剰な、何か超越的な知覚とは何だろうか。これは、思うに、一種の超越論的主観性だと思う。ならば、身心体において、超越論性を知覚できるのである。つまり、差異/ゼロ度というメディア界である身心体を知覚できるのである。超越論的知覚を得ているのである。
そして、さらに問題は、このメディア界的知覚は、イデア界的知覚に達するのではないかということである。メディア界はイデア界に接している。だから、理論的に、メディア界的超越論的知覚は、イデア界に触れることができるのである。これは、すぐれた哲学者、芸術家、宗教家等において存していることだろう。
では、この接触したイデア界はどのような知覚をもたらすのか。それは、一言で言えば、カオスモスの知覚である。あるいは、西田哲学の絶対矛盾的自己同一である。これは、力の知覚でもある。ニーチェのディオニュソスとはこの知覚であろう。簡単に言えば、一即多である。実際はもっとはるかに複雑だろうが。とまれ、不連続的差異と不連続的差異とが共立しつつ、連結する状態である。ここには、イデア界の力とメディア界の力とが混交しているだろう。問題は、このイデア界の力がどういう機能をもつのかである。これは、正に、脱構築であろう。メディア界の構造を解体するだろう。正確に言えば、脱構造化であろう。つまり、連結・連続化した差異の構造を、イデア界の力は解体させるのである。つまり、不連続化させるのである。この頂点にニーチェ哲学がある。問題は、このイデア界の力とメディア界の力とをドゥルーズのように混同しやすいことである。不連続性の力と連続性の力とが混同されやすいのである。これをどう識別するのか。これはとても難しいと思う。なぜならば、連続化と同時に、不連続性に触れるからである。ここで、特異性を考えるといいだろう。不連続性とは特異性である。この特異性がメルクマールとなるだろう。イデア界の力とは特異性を形成する。例えば、コギトとは、特異性であるから、イデア界の力である。また、自然との一体感というのは、それを感じる自己は特異性であるが、一体感は連続性であるから、メディア界の力が入っていると言えるだろう。ということで、特異性が区別する契機になるだろう。
では、イデア界の力、特異性はどのような力学をもつのだろうか。いわば、脱構造的「構造」を形成するのではないか。つまり、共立である。不連続的差異の共立構造を形成するのだろう。これは、メディア界的な連続構造とは異質のものである。ドゥルーズ&ガタリが離接(分離的接合)と呼んだものに近いだろう。あるいは、ガタリの用語だと思うが、機械状アジャンスマン(アレンジメント)に似ているだろう。これは、近代の連合、連帯、アソシエーション、コミューン、団結等々とは全く異なるもの、次元の異なるものである。共立、共存、共生であろう。これは、フッサール現象学の志向性の世界である。不連続的差異の他者の不連続的差異への志向性がある世界である。そして、ここは、コナトゥス(自己保存力)が機能している世界である。しかし、また、不連続的差異の境界的調和が作用している「調和」の世界でもあるだろう。おそらく、原調和の世界である。イデア・メディア境界において、ゼロ度の調和があるだろう。
そうなると、イデア界の力、即ち、虚力は、(独特の)創造性をもつだろう。不連続的創造性である。これまでにないものを生み出すと言えるだろう。発見や発明。つまり、イデア界の虚力は、新しいメディアを創出するだろう。あるいは、ポスト・メディアである。つまり、不連続的差異・特異性の共立である脱メディアの創出である。
最後に、イデア界の虚力と想像力についてである。想像力とは何かである。イメージ力とは何か。あるいは、実在感とは何か。夢は実在感がある。何故か。実在感の基礎がはたらいているからだろう。実在感の原基は、イデア界なのかメディア界なのか。これは、夢はメディア界的であり、実在感もほぼメディア界に拠るだろう。そして、想像力は、やはり、メディア界的なものだろう。しかし、夢、実在感、想像力は、メディア界のみを根拠にしているのか。イデア界の力がないのだろうか。今は、指摘だけするが、イデア界の力がやはり作用しているのではないだろうか。例えば、小説を読んで深く作品世界に参入しているとき、それは、メディア界的であると同時に、読者が創り出している虚構世界だから、イデア界的創造力がはたらいているのではないか。虚構は、単にメディア界的構造では形成できないのではないだろうか。メディア界は、構造という固定した世界であるからと考えられるからである。想像力には、やはり、イデア界の創造力が必要のように思える。後で、検討を深めたい。

コメントの投稿