2005年11月23日 (16:44)
D.H.ロレンスのコスモス論と不連続的差異論:脱構造性と構造性の「差異」としての自我
ロレンスの『エトルリアの故地』で説かれている宇宙論と不連続的差異論を結びつけられないかと思っている。問題は、宇宙を一つの「霊魂」と考えている点である。不連続的差異論は、無数の不連続的差異が境界を隔てて存するイデア界を根元に見ているので、一元論的考え方を否定するのである。一つの「霊魂」は、イデア・メディア境界と考えることができるだろう。しかし、イデア界をなんらかに意味合いで、そのように考えることは意味があるかもしれない。
ロレンスの言う二元性・対極性の宇宙とは、いわば陰陽論であるが、それは、垂直・水平性をもつ差異の「宇宙」と等価になるように思える。ロレンスが説く分裂と統一を行う宇宙とは、やはり、イデア・メディア境界のカオスモスに似ていると思う。
問題は、自然形成の構造を緻密化することである。多様な宇宙・自然の発生の構造の精緻化である。ロレンスはあらゆる存在には、核があると言っている。これも「霊魂」であろう。そして、ロレンスは、霊魂も破壊されてエネルギーに還元されると言っている。これは、物理学的な考え方に近い。根元をエネルギーと見るのである。これは、不連続的差異論では、メディア界の考え方に相当しよう。エネルギーは±でゼロになるだろう。ここで整理すると、イデア・メディア境界は、境界とゼロ度が交差する領域であり、メディア界がゼロ度の領域である。そして、現象界は、+エネルギーによる現象と−エネルギーの現象が連続する領域だろう。つまり、生成消滅する領域である。
イデア界:差異1/差異2/・・・/差異n
イデア・メディア境界:差異1/φ差異2/φ・・・/φ差異n
メディア界:差異1φ差異2φ・・・φ差異n
現象界:
A −差異1+−差異2+−・・・+−差異n+
B +差異1−+差異2−+・・・−+差異n−
−
差異1
+
−
差異2
+
−
・
C ・
・
+
−
差異n
+
+
差異1
−
+
差異2
−
+
・
D ・
・
−
+
差異n
−
以上四種類の差異連続・同一性が生起するのではないか。上二つは、差異水平力の連続化であり、下二つは垂直力の連続化である。だから、両者をまとめることができるだろう。
±
Σ ±差異k±
±
問題は、+と−のエネルギーないし極性の意味である。ゼロ度から、±が生成するだろう。では、なぜ、生成するのか。それは、差異がもともと志向性があるからである。志向性が根元的な力、虚力であると考えられる。この志向性(原志向性と読んだ方が明快だろう)が、ゼロ度連結で、連続化すると言える。つまり、実数化されると言えるのではないだろうか。虚数から実数へ。この時にゼロ度連結の+エネルギーが形成され、同時にそれを解消する−エネルギーが発生するのではないか。つまり、連続化とは、エントロピーを発生させるということではないか。生成消滅性である。これは、現象界の4つの連続的差異現象にあてはまる。そして、それは、メディア界へと解消するように見えるだろう。ゼロ度の世界である。これが、いわば、「空」である。しかし、これは、見せかけの「空」、ゼロ度の世界である。
とまれ、問題にしたいのは、ロレンスが説く烈しく対立しつつ調和する世界のこととである。この対立、対極・両極・相補性はどう説明できるだろうか。ライオンと鹿の対極性はどう説明できるだろうか。火と水の対立・相補性はどう説明できるだろうか。作業仮説的に、垂直力と水平力の対立・相補性ではないだろうか。差異の原志向性である垂直/水平力の根元的対立相補性が、つまり、イデア界の差異の原志向性である垂直/水平力が、ゼロ化によって、連続化される。そのとき、垂直的連続化と水平的連続化が発生する。そして、これが基本的対立構造(構造主義)を構築しているだろう。そして、この連続化は、現象界での対立となり、同時に、メディア界においては、「空」、ゼロ度として、一体化している。これが相補性となるだろう。ロレンスが説いているエトルリア文明の古代宇宙論、コスモス論は、このように説明できるだろう。即ち、「空」、ゼロ度のメディア界と連続・同一化の現象界の結合としての宇宙論である。そう考えると、これまで、イデア・メディア境界をカオスモスとしてきたが、メディア界自体をカオスモスないし絶対矛盾的自己同一と考えた方が適切・的確であると考えられる。とまれ、差異・ゼロ度のメディア界からの現象発生であるが、それは、上述の差異連結からわかるように、垂直連結と水平連結が結合して、らせん的な形状・形態となるのではないだろうか。DNAの二重らせん形態とは、一種典型であろうし、渦巻星雲、つるまき植物、巻貝、竜巻、台風等々のらせん形態もそうだろう。黄金分割やフィボナッチ数列は、このメディア・現象境界の構造であろう。つまり、原らせん構造は、メディア界にあるのであり、それが、メディア・現象境界を通して、現象化するということだろう。また、時空四次元の発生であるが、それも、これで説明できるのではないだろうか。つまり、差異・ゼロ度の原らせん的構造が、時空四次元現象となるのではないだろうか。つまり、宇宙時空間とは、らせん形態をしているということである。そして、ここでは、ただ触れるだけだが、現代物理学の4つの力も、この4つの差異・連続化に関係しているのであり、当然、4つの力は、差異・ゼロ度のメディア界の数学で説明できるはずである。強い力、弱い力、重力、電磁気力は、融合して、メディア界の差異・ゼロ度になるはずである。(このように考えても、重力と電磁気力は双一的ないし相補的ではないだろうか。光が重力によって曲がるのは、ここから見れば、当然である。)
さて、時空四次元のうち、時間を形成する差異連続とは何だろうか。時間も一つの空間ではないだろうか。あるいは、逆に空間が時間なのか。思うに、時間によって空間が移動するのだから、やはり、空間軸ではないか。とりあえず、時間も空間としよう。そうすると、時間は、電磁気力が形成するのではないだろうか。光である。(これは直観である。)
次に、ロレンスが説く「霊魂」、「魂」とはどう説明できるだろうか。すべての存在にそれがあると言う。物質的には、DNAのようなものである。遺伝子である。あるいは、現象体の発生をどう説明するのか。あるいは、生命とはどう説明するのか。現象体は、メディア界の構造によって(、正確に言えば、メディア・現象境界の構造だろう)、発生するだろう。つまり、差異連続の順列の種類によって多種多様な現象体が発現すると考えられる。「霊魂」、「魂」とは、メディア界の差異・ゼロ度であるということになるだろう。
では、生命と非生命体はどう説明できるのか。あるいは、知的生命体と非知的生命体は。たとえば、鉱物と植物の相違は何か。直観で言うと、基本構造的には、相違はないのではないか。共に、差異・ゼロ度の原構造をもっているのではないか。人間また他の動物の違いもそうなるだろう。また、確かに、新しい存在が生まれてもいいだろう。ポスト人間が。天使は、現象体ではなくて、メディア界の構造だろう。
しかしながら、私はこれまで、人間の特性として、イデア界の過剰性を説いてきた。つまり、メディア界的構造性を脱構築するものとしてイデア界的不連続性をもっていると考えてきたのである。これはどう説明するのだろうか。
人間の場合、あるいは、生命の場合も含めていいかもしれないが、メディア界の差異・ゼロ度構造に対して、イデア界の不連続的差異的脱構造性が存していると考えられる。つまり、イデア界の脱構造性とメディア界の構造性との「差異」があるのである。(カントのアンチノミーはこの表現の一種であろう。)脱構造性は創造性とも言えるだろう。そして、構造性は同一性である。便宜的に、脱構造性を差異性、構造性を同一性としてもいい。(プラトンのイデアは、両者を指していたと言えよう。)
もし、構造が必然性ならば、脱構造性は偶然である。(スピノザ哲学は、やはり、基本的には、メディア界的哲学である。)そして、意識や認識、自我を考えると、それは、イデア界(脱構造性)/メディア界(構造性)の「差異」によって生起しているだろう。コギト・エルゴ・スムとは、やはり、この「差異」を指しているだろう。デカルトはカントやフッサールの先駆である。これを具体的に解明するなら、特異性や不連続的差異とその共存性が、連続・同一性の構造に介入することであろう。【ここで、ジュリア・クリステヴァのル・セミオティック(原記号作用)とル・サンボリック(象徴作用)との対立を想起するが。】この「差異」が人間存在の本質と言っていいだろう。(しかし、近代主義は、この差異を排出・隠蔽してきた。そして、近代主義自体が、いわば「精神病」になったのである。つまり、脱構造性を否定するので、それが反動衝動・狂気となって主体に逆襲するのである。現代社会の精神病理は近代主義の病理であろう。)
思うに、もし、イデア界、脱構造性の介入がなかったら、意識、自我、認識は生まれなかったのではないだろうか。ただ、動物のように自動作用しかなかったのではないか。(勿論、ここで、進化を考えているのではない。進化論については、後で検討しよう。)とまれ、イデア界、脱構造性の介入によって、生体は、主体となり、現象界その他を対象化するようになったと言えよう。これは、不連続的差異の不連続性によって原志向性が、純粋志向性になっていると言えるのではないだろうか。なぜなら、通常の差異・ゼロ化による連続化では、志向性が連続化して、自己対象化ができないからである。つまり、連続・同一性化された志向性とは、自己対象化がないから、意識、自我、知的認識は生じないだろう。動物である。動植物である。対象と一体となった個体である。だから、イデア界の不連続的差異の脱構造性の介入によって「差異」が発生して、意識、自我、認識が生まれる基盤となると言えるだろう。(ここで、精神病について言うと、この「差異」において、脱構造性を否定する方向に構造性が作用するのだろう。そして、その反動衝動が狂気である。また、これは、一種分裂性である。自我分裂である。脱構造性と構造性の分裂である。しかし、両者の接点があるので、病理的な自我が発現しているのである。本来の自我は失われているのであるが。今日の自己愛性人格障害とは、ここに病因があるのではないだろうか。「差異」を否定して、連続・同一性の自我に癒着しているのではないか。)
ということで、物質身体的には、類人猿と人間は違いがほとんどなく、ヒトゲノムは、他の動物のゲノムとの違いはわずかであろう。結局、質的差異を以上のように認めなくてはならないだろう。人間において、過剰なイデア界、脱構造性、不連続性が存在するのである。ならば、人間の「霊魂」、「魂」とは何だろうか。それは、イデア界の「霊魂」、「魂」ということだろう。動物の「霊魂」、「魂」は、メディア界の構造であろう。もっとも、この二分化を絶対化してはいけないだろう。おそらく、相対的なものではないだろうか。イデア/メディア的「霊魂」ということである。脱構造/構造性、不連続性/連続性である。すると、これは、イデア・メディア境界の問題となるだろう。このゼロ度において、「霊魂」が発生するだろう。ここは微妙な問題があるだろう。 二つの変換が考えられるのである。一つは、イデア/メディア変換であり、一つは、メディア・現象変換である。後者は、構造による生成消滅を意味しよう。+エネルギーと− エネルギーの相補的ゼロ度性である。前者は、不連続/連続変換でもある。これは、境界/ゼロ度変換でもある。そして、ゼロ度は境界へと回帰するということになるだろう。つまり、ゼロ度、「空」、メディア界が、イデア界に回帰するのである。虚界に回帰するのである。ロレンスが、魂も破壊されてエネルギーになると言っていたが、魂をメディア界的構造とするなら、このエネルギーは、イデア界的なものではないか。もっとも、もうエネルギーとは呼べなくなるだろうが。何が、言いたいのかというと、人間の場合、いわば、二重構成となっているということである。一つは、構造性であり、一つは脱構造性である。そして、両者の「差異」において自我が生じる。つまり、二つの要素の中間としての自我である。つまり、いわば、二つの「霊魂」、「魂」を人間はもっていることになろう。イデア界の「霊魂」とメディア界の「霊魂」であり、後者はゼロ度、「空」ないし「無」に回帰する。しかるに、前者は、イデア界に回帰する。つまり、不連続的差異とその境界に回帰するのではないか。つまり、イデア界の「霊魂」とは、不連続的差異とその境界のことではないか。これをロレンスは根源的エネルギーと呼んだのではないか。しかし、これは、メディア界から見た把捉である。もっとも、デュナミス・エネルギー、ポテンシャル・エネルギーとすればいいだろう。ならば、人間(、本当は、動植鉱物を含めていいのだが)は、死んだ時、その「霊魂」はイデア界に回帰すると言っていいだろう。それは、イデア界自体かもしれないが。それとも、一つの不連続的差異なのだろうか。とりあえず、今は前者を取っておこう。
ならば、さらに問題は、これまで、何度も検討してきたが、記憶の問題、プラトンの想起説の問題である。「霊魂」は現象界の記憶をもつのかである。脱構造性と構造性との「差異」があるのだから、両者には、なんらかの交通があるはずである。どうやって交信するのか。それは、思うに、先に述べた想像力・創造力・虚力が顕現する身心体(メディア界)において交通すると思う。メディア界が媒体となり、イデア界と現象界が交通するのだ。すると、現象界の知覚・経験は、メディア界に内蔵されるだろう。そして、それは、そこに存する想像力・創造力・虚力に反映するだろう。これで、現象界がイデア界に記録されることになるだろう。虚力的記憶である。(これが、大乗仏教の阿頼耶識ではないか。)これが、イデア界という記憶装置に蓄積されるのだろう。イデア界は、個体的記憶をもつことになるだろう。イデア界とはいわば、一者が多数・無数である。この一者が、無数の個体的記憶をもつのだろう。この一者がブラフマン、梵である。しかし、真実在は、境界で隔てられた無数の不連続的差異である。思うに、ロレンスが一つの「霊魂」としての宇宙を述べていたが、それは、この意味で取ることができるだろう。一つの「霊魂」としての宇宙とは、無数の不連続的差異の一者である。もっとも、一者とは、存在の一義性と言うべきかもしれないが。
最後の付け加えると、一神教の一神・超越神とは、このイデア界をいわば連続化していると言えよう。無数の不連続的差異としての一神・超越神を捉えるべきである。それも、内在性・超越論性においてである。
p.s. 「気」とは、これまでは、メディア界の力と考えたが、それは、イデア界の虚力と考えるべきだと思う。自然が発する「気」=生命力とは、イデア界の力だろう。
イデア界の「霊魂」であろう。
ロレンスの言う二元性・対極性の宇宙とは、いわば陰陽論であるが、それは、垂直・水平性をもつ差異の「宇宙」と等価になるように思える。ロレンスが説く分裂と統一を行う宇宙とは、やはり、イデア・メディア境界のカオスモスに似ていると思う。
問題は、自然形成の構造を緻密化することである。多様な宇宙・自然の発生の構造の精緻化である。ロレンスはあらゆる存在には、核があると言っている。これも「霊魂」であろう。そして、ロレンスは、霊魂も破壊されてエネルギーに還元されると言っている。これは、物理学的な考え方に近い。根元をエネルギーと見るのである。これは、不連続的差異論では、メディア界の考え方に相当しよう。エネルギーは±でゼロになるだろう。ここで整理すると、イデア・メディア境界は、境界とゼロ度が交差する領域であり、メディア界がゼロ度の領域である。そして、現象界は、+エネルギーによる現象と−エネルギーの現象が連続する領域だろう。つまり、生成消滅する領域である。
イデア界:差異1/差異2/・・・/差異n
イデア・メディア境界:差異1/φ差異2/φ・・・/φ差異n
メディア界:差異1φ差異2φ・・・φ差異n
現象界:
A −差異1+−差異2+−・・・+−差異n+
B +差異1−+差異2−+・・・−+差異n−
−
差異1
+
−
差異2
+
−
・
C ・
・
+
−
差異n
+
+
差異1
−
+
差異2
−
+
・
D ・
・
−
+
差異n
−
以上四種類の差異連続・同一性が生起するのではないか。上二つは、差異水平力の連続化であり、下二つは垂直力の連続化である。だから、両者をまとめることができるだろう。
±
Σ ±差異k±
±
問題は、+と−のエネルギーないし極性の意味である。ゼロ度から、±が生成するだろう。では、なぜ、生成するのか。それは、差異がもともと志向性があるからである。志向性が根元的な力、虚力であると考えられる。この志向性(原志向性と読んだ方が明快だろう)が、ゼロ度連結で、連続化すると言える。つまり、実数化されると言えるのではないだろうか。虚数から実数へ。この時にゼロ度連結の+エネルギーが形成され、同時にそれを解消する−エネルギーが発生するのではないか。つまり、連続化とは、エントロピーを発生させるということではないか。生成消滅性である。これは、現象界の4つの連続的差異現象にあてはまる。そして、それは、メディア界へと解消するように見えるだろう。ゼロ度の世界である。これが、いわば、「空」である。しかし、これは、見せかけの「空」、ゼロ度の世界である。
とまれ、問題にしたいのは、ロレンスが説く烈しく対立しつつ調和する世界のこととである。この対立、対極・両極・相補性はどう説明できるだろうか。ライオンと鹿の対極性はどう説明できるだろうか。火と水の対立・相補性はどう説明できるだろうか。作業仮説的に、垂直力と水平力の対立・相補性ではないだろうか。差異の原志向性である垂直/水平力の根元的対立相補性が、つまり、イデア界の差異の原志向性である垂直/水平力が、ゼロ化によって、連続化される。そのとき、垂直的連続化と水平的連続化が発生する。そして、これが基本的対立構造(構造主義)を構築しているだろう。そして、この連続化は、現象界での対立となり、同時に、メディア界においては、「空」、ゼロ度として、一体化している。これが相補性となるだろう。ロレンスが説いているエトルリア文明の古代宇宙論、コスモス論は、このように説明できるだろう。即ち、「空」、ゼロ度のメディア界と連続・同一化の現象界の結合としての宇宙論である。そう考えると、これまで、イデア・メディア境界をカオスモスとしてきたが、メディア界自体をカオスモスないし絶対矛盾的自己同一と考えた方が適切・的確であると考えられる。とまれ、差異・ゼロ度のメディア界からの現象発生であるが、それは、上述の差異連結からわかるように、垂直連結と水平連結が結合して、らせん的な形状・形態となるのではないだろうか。DNAの二重らせん形態とは、一種典型であろうし、渦巻星雲、つるまき植物、巻貝、竜巻、台風等々のらせん形態もそうだろう。黄金分割やフィボナッチ数列は、このメディア・現象境界の構造であろう。つまり、原らせん構造は、メディア界にあるのであり、それが、メディア・現象境界を通して、現象化するということだろう。また、時空四次元の発生であるが、それも、これで説明できるのではないだろうか。つまり、差異・ゼロ度の原らせん的構造が、時空四次元現象となるのではないだろうか。つまり、宇宙時空間とは、らせん形態をしているということである。そして、ここでは、ただ触れるだけだが、現代物理学の4つの力も、この4つの差異・連続化に関係しているのであり、当然、4つの力は、差異・ゼロ度のメディア界の数学で説明できるはずである。強い力、弱い力、重力、電磁気力は、融合して、メディア界の差異・ゼロ度になるはずである。(このように考えても、重力と電磁気力は双一的ないし相補的ではないだろうか。光が重力によって曲がるのは、ここから見れば、当然である。)
さて、時空四次元のうち、時間を形成する差異連続とは何だろうか。時間も一つの空間ではないだろうか。あるいは、逆に空間が時間なのか。思うに、時間によって空間が移動するのだから、やはり、空間軸ではないか。とりあえず、時間も空間としよう。そうすると、時間は、電磁気力が形成するのではないだろうか。光である。(これは直観である。)
次に、ロレンスが説く「霊魂」、「魂」とはどう説明できるだろうか。すべての存在にそれがあると言う。物質的には、DNAのようなものである。遺伝子である。あるいは、現象体の発生をどう説明するのか。あるいは、生命とはどう説明するのか。現象体は、メディア界の構造によって(、正確に言えば、メディア・現象境界の構造だろう)、発生するだろう。つまり、差異連続の順列の種類によって多種多様な現象体が発現すると考えられる。「霊魂」、「魂」とは、メディア界の差異・ゼロ度であるということになるだろう。
では、生命と非生命体はどう説明できるのか。あるいは、知的生命体と非知的生命体は。たとえば、鉱物と植物の相違は何か。直観で言うと、基本構造的には、相違はないのではないか。共に、差異・ゼロ度の原構造をもっているのではないか。人間また他の動物の違いもそうなるだろう。また、確かに、新しい存在が生まれてもいいだろう。ポスト人間が。天使は、現象体ではなくて、メディア界の構造だろう。
しかしながら、私はこれまで、人間の特性として、イデア界の過剰性を説いてきた。つまり、メディア界的構造性を脱構築するものとしてイデア界的不連続性をもっていると考えてきたのである。これはどう説明するのだろうか。
人間の場合、あるいは、生命の場合も含めていいかもしれないが、メディア界の差異・ゼロ度構造に対して、イデア界の不連続的差異的脱構造性が存していると考えられる。つまり、イデア界の脱構造性とメディア界の構造性との「差異」があるのである。(カントのアンチノミーはこの表現の一種であろう。)脱構造性は創造性とも言えるだろう。そして、構造性は同一性である。便宜的に、脱構造性を差異性、構造性を同一性としてもいい。(プラトンのイデアは、両者を指していたと言えよう。)
もし、構造が必然性ならば、脱構造性は偶然である。(スピノザ哲学は、やはり、基本的には、メディア界的哲学である。)そして、意識や認識、自我を考えると、それは、イデア界(脱構造性)/メディア界(構造性)の「差異」によって生起しているだろう。コギト・エルゴ・スムとは、やはり、この「差異」を指しているだろう。デカルトはカントやフッサールの先駆である。これを具体的に解明するなら、特異性や不連続的差異とその共存性が、連続・同一性の構造に介入することであろう。【ここで、ジュリア・クリステヴァのル・セミオティック(原記号作用)とル・サンボリック(象徴作用)との対立を想起するが。】この「差異」が人間存在の本質と言っていいだろう。(しかし、近代主義は、この差異を排出・隠蔽してきた。そして、近代主義自体が、いわば「精神病」になったのである。つまり、脱構造性を否定するので、それが反動衝動・狂気となって主体に逆襲するのである。現代社会の精神病理は近代主義の病理であろう。)
思うに、もし、イデア界、脱構造性の介入がなかったら、意識、自我、認識は生まれなかったのではないだろうか。ただ、動物のように自動作用しかなかったのではないか。(勿論、ここで、進化を考えているのではない。進化論については、後で検討しよう。)とまれ、イデア界、脱構造性の介入によって、生体は、主体となり、現象界その他を対象化するようになったと言えよう。これは、不連続的差異の不連続性によって原志向性が、純粋志向性になっていると言えるのではないだろうか。なぜなら、通常の差異・ゼロ化による連続化では、志向性が連続化して、自己対象化ができないからである。つまり、連続・同一性化された志向性とは、自己対象化がないから、意識、自我、知的認識は生じないだろう。動物である。動植物である。対象と一体となった個体である。だから、イデア界の不連続的差異の脱構造性の介入によって「差異」が発生して、意識、自我、認識が生まれる基盤となると言えるだろう。(ここで、精神病について言うと、この「差異」において、脱構造性を否定する方向に構造性が作用するのだろう。そして、その反動衝動が狂気である。また、これは、一種分裂性である。自我分裂である。脱構造性と構造性の分裂である。しかし、両者の接点があるので、病理的な自我が発現しているのである。本来の自我は失われているのであるが。今日の自己愛性人格障害とは、ここに病因があるのではないだろうか。「差異」を否定して、連続・同一性の自我に癒着しているのではないか。)
ということで、物質身体的には、類人猿と人間は違いがほとんどなく、ヒトゲノムは、他の動物のゲノムとの違いはわずかであろう。結局、質的差異を以上のように認めなくてはならないだろう。人間において、過剰なイデア界、脱構造性、不連続性が存在するのである。ならば、人間の「霊魂」、「魂」とは何だろうか。それは、イデア界の「霊魂」、「魂」ということだろう。動物の「霊魂」、「魂」は、メディア界の構造であろう。もっとも、この二分化を絶対化してはいけないだろう。おそらく、相対的なものではないだろうか。イデア/メディア的「霊魂」ということである。脱構造/構造性、不連続性/連続性である。すると、これは、イデア・メディア境界の問題となるだろう。このゼロ度において、「霊魂」が発生するだろう。ここは微妙な問題があるだろう。 二つの変換が考えられるのである。一つは、イデア/メディア変換であり、一つは、メディア・現象変換である。後者は、構造による生成消滅を意味しよう。+エネルギーと− エネルギーの相補的ゼロ度性である。前者は、不連続/連続変換でもある。これは、境界/ゼロ度変換でもある。そして、ゼロ度は境界へと回帰するということになるだろう。つまり、ゼロ度、「空」、メディア界が、イデア界に回帰するのである。虚界に回帰するのである。ロレンスが、魂も破壊されてエネルギーになると言っていたが、魂をメディア界的構造とするなら、このエネルギーは、イデア界的なものではないか。もっとも、もうエネルギーとは呼べなくなるだろうが。何が、言いたいのかというと、人間の場合、いわば、二重構成となっているということである。一つは、構造性であり、一つは脱構造性である。そして、両者の「差異」において自我が生じる。つまり、二つの要素の中間としての自我である。つまり、いわば、二つの「霊魂」、「魂」を人間はもっていることになろう。イデア界の「霊魂」とメディア界の「霊魂」であり、後者はゼロ度、「空」ないし「無」に回帰する。しかるに、前者は、イデア界に回帰する。つまり、不連続的差異とその境界に回帰するのではないか。つまり、イデア界の「霊魂」とは、不連続的差異とその境界のことではないか。これをロレンスは根源的エネルギーと呼んだのではないか。しかし、これは、メディア界から見た把捉である。もっとも、デュナミス・エネルギー、ポテンシャル・エネルギーとすればいいだろう。ならば、人間(、本当は、動植鉱物を含めていいのだが)は、死んだ時、その「霊魂」はイデア界に回帰すると言っていいだろう。それは、イデア界自体かもしれないが。それとも、一つの不連続的差異なのだろうか。とりあえず、今は前者を取っておこう。
ならば、さらに問題は、これまで、何度も検討してきたが、記憶の問題、プラトンの想起説の問題である。「霊魂」は現象界の記憶をもつのかである。脱構造性と構造性との「差異」があるのだから、両者には、なんらかの交通があるはずである。どうやって交信するのか。それは、思うに、先に述べた想像力・創造力・虚力が顕現する身心体(メディア界)において交通すると思う。メディア界が媒体となり、イデア界と現象界が交通するのだ。すると、現象界の知覚・経験は、メディア界に内蔵されるだろう。そして、それは、そこに存する想像力・創造力・虚力に反映するだろう。これで、現象界がイデア界に記録されることになるだろう。虚力的記憶である。(これが、大乗仏教の阿頼耶識ではないか。)これが、イデア界という記憶装置に蓄積されるのだろう。イデア界は、個体的記憶をもつことになるだろう。イデア界とはいわば、一者が多数・無数である。この一者が、無数の個体的記憶をもつのだろう。この一者がブラフマン、梵である。しかし、真実在は、境界で隔てられた無数の不連続的差異である。思うに、ロレンスが一つの「霊魂」としての宇宙を述べていたが、それは、この意味で取ることができるだろう。一つの「霊魂」としての宇宙とは、無数の不連続的差異の一者である。もっとも、一者とは、存在の一義性と言うべきかもしれないが。
最後の付け加えると、一神教の一神・超越神とは、このイデア界をいわば連続化していると言えよう。無数の不連続的差異としての一神・超越神を捉えるべきである。それも、内在性・超越論性においてである。
p.s. 「気」とは、これまでは、メディア界の力と考えたが、それは、イデア界の虚力と考えるべきだと思う。自然が発する「気」=生命力とは、イデア界の力だろう。
イデア界の「霊魂」であろう。

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