2005年11月25日 (13:24)

生命とは何か:D.H.ロレンスの生命哲学と不連続的差異論

ロレンスは、哲学小説の中で、顕微鏡の下の生命を見た女性主人公(アーシュラ)に次のように語らせている。
「何の目的のためにこの無数の物理的化学的作用が、顕微鏡下に影のように蠢くこの一点に集まっているのだろうか。そして作用を集中させ、今見ているこの生命体を創み出している意志とは何なのか。・・・
 それは本来の自己自身になろうと目論んでいるのだ。しかし、その自己とは何か。・・・突然彼女は、強烈に輝く無量光の中へと没入していった。・・・それは、自己の完成(コンサメイション)であり、無限になることであった。自己は今や、無限と一体化した。自己自身であることは、最高の輝ける、無限の勝利であったのだ。」
「『虹』における原生命」杉山泰、『ロレンス研究ーー『虹』』所収 p.24

「・・・葉っぱやあらゆるところにある微光を放つ原形質を描いたように、・・・」
同書p.50

ロレンスが説く「自己の完成」、「微光を放つ原形質」を参考にして、不連続的差異論の生命哲学を考えたい。今、作業仮説的に、生命体とは、脱構造性と構造性との結合体であるとしよう。つまり、不連続的差異論のイデア・メディア境界のあり方が、生命体の本体である。ロレンスが言う「原形質」とは、脱構造性のことではないだろうか。また、「自己の完成」、「無限になること」も、脱構造性を意味しているのではないだろうか。構造は拘束・規制・規定するものである。それは、形態であり、形相である。自然は、ある必然から構造を形成し、現象化するのだ。しかし、この必然的構造は、不自由を意味しよう。だから、構造に対して、脱構造性が自由への活動を意味するだろう。つまり、生命体とは正に、西田哲学の絶対矛盾的自己同一なのだ。脱構造性⇔構造性の対極・両極的相補性があるだろう。(思うに、ヘーゲル弁証法は、この矛盾対極相補性を、精神一元論にフレーム化したものではないか。)この矛盾が生命そのものだろう。そして、根源は、脱構造性ないし脱構造「体」にあるだろう。これが、ロレンスの「原形質」や「霊魂」(これは、アニマanimaがぴったりするだろう)に当たるものと言えよう。また、遺伝子や種子や胚芽や卵等に相当しよう。より正確に言うならば、イデア・メディア境界が脱構造⇔構造矛盾対極相補性であり、ここが、「原形質」、「霊魂」、遺伝子、種子、胚芽、卵に当たるのではないか。(メディア・現象境界が、構造⇔現象の連続・同一性を意味しよう。言わば、超越論的形式・構造・連続性である。それに対して、イデア・メディア境界は、超越論的志向性であろう。)イデア・メディア境界、IM境界が、生命ないし生命体の核であるということになろう。これは、実は、非生命体にもあてはまるだろう。鉱物にも核があるだろう。(cf. 山川草木鳥獣虫魚悉皆成仏)
 この矛盾相補性が、生命・非生命の存在体の力学であり、本質であると言えよう。キルケゴールの有限/無限のパラドックスは正しいと言えよう。これが、本質である。つまり、存在体は、構造・有限志向性と脱構造・無限志向性のパラドックスをもっているということである。これは、また、カントの純粋理性批判につながるだろう。(そう、キルケゴールも不連続的差異論の先駆者の一人に数えるべきだろう。)
 生命で考えると、有限・構造的現象体は消滅して、子孫を残す。これはどういうことなのか。つまり、現象体はエネルギーの消耗ということで、消滅する。しかし、根源の核は、根源を反復するということになるが、この反復の力学は何か。そう、結局、現象体は、展開するが、それは、根源の核のプロセスである。つまり、根源の核の変態・変化・過程そのものである。だから、遺伝子、種子、卵を「生産」するのである。初めから、現象体には、核が内在しているのであるから、帰結的に、核を現象化すると言えよう。この反復はいわば、シャッフル作用だろう。骰子一擲である。アトランダム作用である。いわば、万華鏡の世界である。
 さて、ロレンスの「自己完成」、無限化とはどういうことだろうか。それは、存在体をイデア界化することではないだろうか。脱構造性をより進展させることが、「自己完成」、無限化であろう。そして、これは、宗教の本来の意味であろう。色即是空、空即是色。親鸞の往相・還相。阿弥陀如来。禅。万教帰一。万物が、イデア界的現象界を志向していると言えるのではないだろうか。地上楽園。万物はそれぞれの「速度」で、イデア界を志向しているのではないだろうか。万物は、生命であれ、非生命であれ、イデア・メディア境界的「霊魂」、「原形質」、「遺伝子」、「種子」、「卵子」、「胚芽」をもっているのだ。
 さて、ここで、経済、資本主義、民主主義を考えるとどうだろう。万民民主主義である。普遍民主主義である。個それぞれの「速度」、「色」で存在している。しかし、脱構造性への志向性を閉ざしたものは、悪である。つまり、構造性だけの存在は悪である。近代主義がそれである。これが、人類を絶滅の危機に陥れているのだ。絶対的ポスト近代主義である。資本主義も、ポスト近代的資本主義にならなくてはならない。新自由主義は、その一歩ではあるだろう。ただし、脱構造的資本主義になることが、本来である。思うに、ドゥルーズ&ガタリは、連続性と不連続性を区別しなかったので、構造性と脱構造性を明確に識別できなかった。だから、彼らの資本主義論は、中途半端なのである。構造と脱構造、近代とポスト近代の混同があるのである。不連続的差異論に立脚することで、資本主義は脱近代化するのである。それは、脱構造的資本主義である。ポスト近代的資本主義である。

p.s. 少し蛇足的であるが、宗教の光とは、脱構造性が放つ光、イデア界の光である。これは、超光、原光である。ロレンスが無量光と言っているのは、正に、阿弥陀如来、アミターヴァ(無量光)に関係しよう。後で、この超光・原光と現象界の光の関係を考察したい。

p.p.s. また、後で、異性化の問題を考えよう。何故、雌雄の別が生じて、それが、牽引したり、反発させたりするのか。これは、正に、差異の問題である。不連続的差異の志向性の問題であろう。以前に、男性は、女性にイデア界を見て、女性は、男性に現象界を見ると述べたことがある。予見を言えば、女性とは、複雑で、イデア界的でありながら、連続主義を志向しているのである。つまり、不連続的差異でありながら、連続主義志向である。現象界志向である。それに対して、男性は、連続主義であり、不連続的差異を志向するのである。ちょうど、女男は正反対である。これは、生命体の脱構造性⇔構造性の「絶対矛盾的自己同一」が二元的に分化・分離したものではないか。

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  • Author:sophio・scorpio
  • 2004年(平成16年)9月23日、ブログ上で、ODAウォッチャーズ氏(ブログ『海舌』)と遭遇して、新しい理論、不連続的差異論が誕生しました。まったく思いもよらぬ出来事でしたが、この結果、独創的な理論が生まれたと自負しています。とても簡潔な理論ですが、文系、理系の分化を乗り越えた統一的理論で、多くの分野・領域に適用可能だと考えられます。
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