2005年11月25日 (19:19)
一神教(ユダヤ・キリスト教)、近代的自我合理主義、連続・同一性主義の構造分析:ポスト西洋文明論
何故人間は、自己中心主義、利己主義、傲慢・尊大・暴力的になるのだろうか。ソクラテスは無知の知と言った。アポロンの神託は、汝自身を知れであった。しかし、これは、難問である。超難問である。どうして、自己を知ることができるのか。ハムレットは、ミメーシス論を説いた。鏡に映して見るということである。しかし、鏡像に人間は、ナルシシズムを覚えるのではないか。
本論に入ろう。例えば、何故官僚は、利己主義なのか。自己保身なのか。民主主義を実践しないのか。これは、当然、人間の欲望が原因である。「色」である。「色」は「空」であるが、「空」とは理解できない。何故なら、「色」とは、意識が「色」ということである。欲望と連続体であるということである。
近代という時代は、確かに、自我や個人の解放を志向した。これは、評価すべきでことである。しかし、西欧近代は、決定的に、致命的に、欠陥、欠落、欠如をもっているのである。それは、特異性、不連続性、根源性を喪失しているのである。差異はあるが、連続的差異にしか過ぎないのである。微分・積分の世界である。ライプニッツ、ベルクソン、ハイデガー、ドゥルーズ(の一面)の哲学は、近代主義の深化に過ぎない。(私見では、ハイデガーは、とりわけ、悪質である。なぜなら、ニーチェとフッサールがブレークスルーしたポスト近代の理論的前線を、閉ざしてしまったからである。)この近代主義の途轍も無い欠陥が人類を絶滅の危機に陥らせているのである。これは、西洋文明、キリスト教的西洋文明が生んだものである。キリスト教を突破しないでは、この袋小路から脱出できないだろう。デカルト哲学にこの問題が収斂していると言えるだろう。しかし、この点については、これまで何度も述べてきたので、ここでは述べない。
近代主義は、自我、個体を中心に展開したのであるが、フッサールが批判するように、主客二元論なのである。これは、不連続的差異論から見ると、連続化の帰結である。あるいは、キリスト教の帰結と言えよう。(思うに、キリスト教とプラトン主義は正反対である。どうして、類似的なものと考えられて来たのか。しかし、ある意味では、類似的である。結局、西欧近代は、完全に、勘違いしている。近代日本は、この勘違いを、踏襲しているのである。)
近代主義とは、連続化の帰結なのであり、根源は、イデア界である。そして、これは、普遍性である。つまり、普遍性が、近代的自我に特殊化されているのである。個別化と言ってもいいだろう。だから、ヘーゲル哲学は、この理論化である。普遍性が、連続・同一性化されたのである。結局、これが、自己中心主義、利己主義、尊大・傲慢・暴力主義である。普遍性とは、本来、不連続性、脱構性、特異性である。この真理が、近代主義において、倒錯されたのである。
ということで、本課題への解答を得たであろう。つまり、一神教、近代的自我合理主義、連続・同一性主義とは、根源の普遍性が連続・同一性化したものであり、普遍性を独断化しているのである。つまり、真理の歪曲化があると言えよう。真理とは、本来、不連続的なものであるのに、それを、否認しているのである。つまり、不連続的真理を連続的誤謬に換えているのである。これが、傲慢・尊大・暴力なのである。官僚の知とは、そのように染色されるのである。「色」は、「色」のままである。
では、どうすればいいのか。ポスト近代主義教育が必要である。近代主義的連続主義をすべて廃棄しなくてはならない。不連続的差異論の教育が必要である。文部科学省中心主義は否定されなくてならない。また、経済もそのようになる必要がある。脱連続的経済である。不連続的経済である。これは、また、不連続的政治を意味する。これは、真の民主主義である。ポスト・モダン民主主義である。そう、ポスト・モダン資本主義である。大前研一氏の経営理論は、これに入るだろう。思うに、今日、人類が新黄金時代への進展するのを阻害しているのは、近代主義=連続主義である。ポスト西洋文明、超世界文明である。
本論に入ろう。例えば、何故官僚は、利己主義なのか。自己保身なのか。民主主義を実践しないのか。これは、当然、人間の欲望が原因である。「色」である。「色」は「空」であるが、「空」とは理解できない。何故なら、「色」とは、意識が「色」ということである。欲望と連続体であるということである。
近代という時代は、確かに、自我や個人の解放を志向した。これは、評価すべきでことである。しかし、西欧近代は、決定的に、致命的に、欠陥、欠落、欠如をもっているのである。それは、特異性、不連続性、根源性を喪失しているのである。差異はあるが、連続的差異にしか過ぎないのである。微分・積分の世界である。ライプニッツ、ベルクソン、ハイデガー、ドゥルーズ(の一面)の哲学は、近代主義の深化に過ぎない。(私見では、ハイデガーは、とりわけ、悪質である。なぜなら、ニーチェとフッサールがブレークスルーしたポスト近代の理論的前線を、閉ざしてしまったからである。)この近代主義の途轍も無い欠陥が人類を絶滅の危機に陥らせているのである。これは、西洋文明、キリスト教的西洋文明が生んだものである。キリスト教を突破しないでは、この袋小路から脱出できないだろう。デカルト哲学にこの問題が収斂していると言えるだろう。しかし、この点については、これまで何度も述べてきたので、ここでは述べない。
近代主義は、自我、個体を中心に展開したのであるが、フッサールが批判するように、主客二元論なのである。これは、不連続的差異論から見ると、連続化の帰結である。あるいは、キリスト教の帰結と言えよう。(思うに、キリスト教とプラトン主義は正反対である。どうして、類似的なものと考えられて来たのか。しかし、ある意味では、類似的である。結局、西欧近代は、完全に、勘違いしている。近代日本は、この勘違いを、踏襲しているのである。)
近代主義とは、連続化の帰結なのであり、根源は、イデア界である。そして、これは、普遍性である。つまり、普遍性が、近代的自我に特殊化されているのである。個別化と言ってもいいだろう。だから、ヘーゲル哲学は、この理論化である。普遍性が、連続・同一性化されたのである。結局、これが、自己中心主義、利己主義、尊大・傲慢・暴力主義である。普遍性とは、本来、不連続性、脱構性、特異性である。この真理が、近代主義において、倒錯されたのである。
ということで、本課題への解答を得たであろう。つまり、一神教、近代的自我合理主義、連続・同一性主義とは、根源の普遍性が連続・同一性化したものであり、普遍性を独断化しているのである。つまり、真理の歪曲化があると言えよう。真理とは、本来、不連続的なものであるのに、それを、否認しているのである。つまり、不連続的真理を連続的誤謬に換えているのである。これが、傲慢・尊大・暴力なのである。官僚の知とは、そのように染色されるのである。「色」は、「色」のままである。
では、どうすればいいのか。ポスト近代主義教育が必要である。近代主義的連続主義をすべて廃棄しなくてはならない。不連続的差異論の教育が必要である。文部科学省中心主義は否定されなくてならない。また、経済もそのようになる必要がある。脱連続的経済である。不連続的経済である。これは、また、不連続的政治を意味する。これは、真の民主主義である。ポスト・モダン民主主義である。そう、ポスト・モダン資本主義である。大前研一氏の経営理論は、これに入るだろう。思うに、今日、人類が新黄金時代への進展するのを阻害しているのは、近代主義=連続主義である。ポスト西洋文明、超世界文明である。

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