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2009年08月02日 (15:25)

暗黙知と融即/動的客観的結合: ハンガリー人のポラニー兄弟にはアジアの血=知が感じられる

以下、toxandoria氏が参考情報であげているカール・ポラニーの暗黙知や、マイケル・ポラニーの「dynamo-objective coupling」の源泉であるレヴィ=ブリュールの融即(participation)の理論であるが、実は、これは、私の理論遍歴において遭遇し、注目したものである。暗黙知とは、私見では、実は、無意識というか直感や感性で測深して、イデーを仮説する方法であり、融即は、Media Pointの前近代的、未分化的表現と考えられるのである。コスモスという思想は、そこから発生すると考えられるし、また、差異共振性の発想とも近い。ただし、未分化なので、連続性を含んでいるのである。
 とまれ、ポラニー兄弟はハンガリー人ということで、アジア的血があるので、源泉的には、このような東洋的な発想ができたと考えられるのである。
 レヴィ=ブリュールも思うに、ケルトの血が入っている可能性がある【追記:ユダヤ人であるが、ユダヤ人の思想はMedia Pointが源泉にあるが、それを否定的に同一性の方向に展開する場合(マルクスやフロイト)と、肯定的に、即ち、差異共振的に展開する場合(シャガール、ロスコ)があると思う。前者は思想家に、後者は芸術家に多いようだ。いわば、ヤハウェ型とエローヒーム型ということになろう。追記:これはあてにならない区分である。スピノザやレヴィナスは後者型である。】
 とまれ、toxandoria氏の思考様相もPS理論的になったと考えられる。

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2009-08-02 竹中式バカの作り方に扇動され偽装マニフェストとTVパフォーマンスに

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2005年 に当初のEU憲法条約がフランス、オランダ の国民投票によって否決されてから、官僚的・圧力的ガバナンス への批判を打ち消すため、EUは「市民社会 ディスコース 」(市民社会との対話を深化させる工夫)へ取り組んでおり、その要素となるキーワード が「共同体との連帯」と「アソシエーションによる調整・調和」に絞られています(出典:田中俊郎他編『EUのガバナンスと政策形成』(慶応大学 出版会))。そこで連想されるのがハンガリーの偉大な学者二人の知見、カール・ポラニーの「暗黙知 」 とマイケル ・ポラニーの「動的・選択的客観統合」です。それは、この二つの知見とEUの「市民社会ディスコース」の要素には深い繋がりがあると考えられるからです。そして、そこにはチェコ的な意味での経路依存的な合理主義が共鳴しています。

ところで、歴史的・伝統的に美しい都市景観や自然環境などをネオリベ 傾斜型の市場原理主義による「カネ」以外の尺度で評価すべきだという観点から、カール・ポラニー(Karl Polany/1886-1964/ハンガリー出身の経済人類学 者)の「社会の中に埋め込まれた経済」という視点が見直されつつあります。また、カールの弟・マイケル・ポラニー(Michael Polanyi/1891-1976/物理学者 ・社会哲学者)が提唱した「暗黙知」(tacit-knowledge)の意義も再検討されています。

そもそもマイケル・ポラニーの「暗黙知」は経験で得られる「相対知」の広がりと見做されてきましたが、近年はやや異なるアプローチが行われています。その新しい着眼とは、「相対知」の集成としての結果(知識、成果)よりも、人間がその「相対知」を獲得するまでの「知の発見のプロセス 、別に言えば、そのプロセス領域内でのスナップ ・ショット(一場面ごと)の作用メカニズム 」を十分に固着的に観察すべきだということです。

この考察のルーツは、マイケル・ポラニーに影響を与えたフランスの社会哲学者レヴィ・ブリュール(Lucien Levy-Bruhl/1857-1939/前論理的思考様式存在の立証を試みつつ、異文化研究に新機軸を開いた)にあります。レヴィ・ブリュールは、未開部族の観察から、実は個人の感情・情動・動機などが外界の出来事と、しばしば共感的に同一視されるという作用に注目し、これを「参加」(participation)と呼びました。が、マイケル・ポラニーは、この作用を「dynamo-objective coupling」(動的・選択的客観統合=一種のプロセス重視型の状態原理)と名づけました(参照 → http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0151.html )。

この熾烈で、繊細かつフラジャイル で、しかも二律背反的な「dynamo-objective coupling」の中にこそ「未知の真理」を発見する「創発」の作用が隠れており、そこで究極のリスクを回避し、難渋しつつ学び取るものこそが「暗黙知」です。しかも、これは、表層的に見れば不可解に思えるかも知れませんが、かくの如く繊細で壊れやすく、スナップ・ショット的な意味で苛烈で闘争的な認識作用の瞬間的鬩ぎあいの中でこそ、新しい真理の発見や社会・文化的リアリズム の知見が凝集・析出してくるのです。その意味で、マイケル・ポラニーの「暗黙知」は、自然科学 だけでなく人文・社会科学 、ジャーナリズム 等の領域へも重要な示唆を与えています。http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20090802

toxandoria

toxandoria
『toxandoria の日記、アートと社会』

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参照:
2006年02月04日 (23:27)
マイケル・ポランニーの暗黙知と不連続的差異論:toxandria氏の考察に基づいて
先に、toxandria氏のマイケル・ポランニーの暗黙知や「dynamo-objective coupling」の概念が、不連続的差異論と共通するものがあるのではないかと述べたが、ここで、それについて少し考えてみたい。
 私は、かつて、マイケル・ポランニーの『暗黙知の次元』やレヴィ・ブリュールの『原始神話学』を読んだことがあるので、本件について、ほとんど自明に近い直観をもつのである。一言で言えば、暗黙知や「dynamo-objective coupling」は、不連続的差異論におけるメディア界領域を対象としているということである。つまり、メディア界的思考は、暗黙知的であるし、また、「dynamo-objective coupling」的であるということである。
 この点を少し説明すると、暗黙知とは、現象界において隠れている「知」を想定して、それを作業仮説として、発見や創発を為すわけであるが、この探求過程において、主体は、メディア界を認識の「フィールド」にしているわけであり、そこから形成される概念が、暗黙知である。これは、思うに、スピノザの『エチカ』における能動的観念から共通概念へと上位化する認識作用と通じるように思える。
 そして、「dynamo- objective coupling」であるが、これはまさに、メディア界を探求している主体の認識状態である。つまり、主客相補性の状態である。主体は、客体と連結しつつ、分離している(ドゥルーズ&ガタリの「離接」にほぼ相当する)状態の「認識」をするのである。これは、近代的な主客分離二元論ではなくて、主客相補的二元論であり、物理学ならば量子力学に相当する領域であり、デリダの脱構築哲学に相当する領域とも言えるだろう。これは、前近代的世界観であり、また、一つのポストモダン的世界観である。そして、フッサールの説く「生活世界」の一つに相当すると考えられるのである。現象学的還元をして生起する「生活世界」である。
 しかしながら、この認識方法の問題点は、大澤真幸/ODA ウォッチャーズ両氏の「三幅対」論に表明されているだろう。つまり、前近代とポストモダンが、相互依存して、後者が反動化することである。 toxandria氏も述べているように、知のイデオロギー化・体制化も生じるのである。確かに、新しい知を創造するための必要な方法ではあるが、裏面の反動性を明確に意識する必要がある。これは、決定的なポイントである。すでに、反動的ポストモダンと能動的ポストモダンということで指摘しているように、いわば、「暗黙知」と「dynamo-objective coupling」の不連続化が必要なのである。これによって、「暗黙知」はイデア界の包摂理念となり、イデオロギー化・体制化されることはなく、不連続的差異の知性・理性となり、民主的共立のための知・真理となるだろう。
 ここで補足すると、スピノザ哲学は、メディア界的共通概念からイデア界的理念へと志向しているのであり、不連続的差異論のあり方と重なる面があるのであるが、何度も繰り返すことになるが、スピノザ哲学の究極の「存在の一義性」の理念(神=実体)が、連続的なのか、不連続的なのか、不明確である点である。不連続的差異論から見ると、スピノザ哲学は、イデア/メディア境界を根底にしているのであり、正確には、イデア界に達していないのである。ドゥルーズがスピノザ哲学を最高度に評価した理由もここからわかるだろう。ドゥルーズ哲学自体が、きわめて、スピノザ的な連続性と不連続性の両義性を帯びているからである。

参照1:
「 toxandria氏の以下の論考は、不連続的差異論に通じるものがあるように直観される。」
http://ameblo.jp/renshi/entry-10008530019.html

「日本のマスメディアに欠ける、「政治体制の妥当性評価」の視点」
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20060129/p1
『toxandriaの日記』
__________________________________

参照2:『松岡正剛の千夜千冊』「マイケル・ポランニー
『暗黙知の次元』」
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1042.html

『暗黙知の次元』google
http://www.google.co.jp/search?num=30&hs=cm0&hl=ja&client=firefox-a&rls=org.mozilla%3Aja-JP%3Aofficial&q=%E6%9A%97%E9%BB%99%E7%9F%A5%E3%81%AE%E6%AC%A1%E5%85%83&btnG=Google+%E6%A4%9C%E7%B4%A2&lr=lang_ja
『原始神話学』google
http://www.google.co.jp/search?num=30&hs=VTL&hl=ja&client=firefox-a&rls=org.mozilla%3Aja-JP%3Aofficial&q=%E5%8E%9F%E5%A7%8B%E7%A5%9E%E8%A9%B1%E5%AD%A6&btnG=Google+%E6%A4%9C%E7%B4%A2&lr=lang_ja

「相対性の復権と相対主義の陥穽ーーフッサール間主観性の現象学の問題圏にて」浜渦 辰二  著(静岡大学人文学部)http://www.hss.shizuoka.ac.jp/shakai/ningen/hamauzu/soutai.html
http://sophio.blog19.fc2.com/blog-entry-163.html
プラトニック・シナジー理論(旧不連続的差異論)のページ
参考:
融即律

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2008/06/16 09:36 UTC 版)

融即律(ゆうそくりつ、principe de participation)とは、自分達のことを器物・生物・現象と同一化してしまうという未開人特有の心性の原理をいい、フランスの民俗学者レヴィ=ブリュル (Lucien Levy-Bruhl)がその著書『未開社会の思惟』において、未開人の心性が現代人と本質的に異なることを示すために導入した概念である。

概要

融即律の下で未開人の心に捉えられた器物・生物・現象は「(現代人に)理解しがたい仕方により、それ自身であると同時にまたそれ自身以外のものでもあり得る。また同じく理解しがたい仕方によって、それらのものは自ら在るところに在ることを止めることなく、他に感ぜしめる神秘的な力、効果、性質、作用を発し或いはそれを受ける」[1] という。神秘的融即(participation mystique)と呼ばれることもある。たとえば、自分達が金剛いんこであると云っている北部ブラジルの未開部族の場合、金剛いんこは自身に与えた名前ではなく、金剛いんことの類縁関係を意味しているのでもなく、本質的に自分たちは金剛いんこと同一であると考えているという。

このレヴィ=ブリュルの理論は、その後、文化人類学 の調査研究によって否定されるに至り、レヴィ=ブリュル自身により撤回された。後年クロード・レヴィ=ストロース は『野生の思考』において、未開人の思考と現代人の思考は本質的に異なるものではないと論じ、論理的思考に情緒内容が伴うことがあるのは未開人にも現代人にも等しくみられる心性であって、融即は未開人に特有の心性というにあたらないし、わざわざ融即と呼ぶ必要もないとしている。

未開人の心性を現代人の心性と区別するものとしての融即律は、こうして文化人類学の中ではすでに否定された概念であるが、集合的無意識 の概念を提唱したスイスの心理学者カール・グスタフ・ユング は、現代人の心理において主体と客体が無意識に同一状態となる同一性の現象がみられ、これは「主体と客体が区別されていない原初の心的状態の・つまり原始の無意識状態の・生き残りに他ならない」[2] のであって、未開人の心性の特徴である「神秘的融即」は現代人の無意識の中に受け継がれている、と論じた。ユングは「レヴィ=ブリュルが愚かな人々の攻撃に屈して「神秘的融即」の概念を撤回してしまったのは残念である」[3] と述べて生涯この概念を捨て去ることはしなかった。

近年、文化人類学 でも、タンバイアのように、融即律を因果律 とならぶ人間の世界認識の方法として再評価する動きがある。

参考文献

スタンレー・J・タンバイア『呪術・宗教・科学ー人類学における「普遍」と「相対」』思文閣出版(1996)



1. ^ 『未開社会の思惟』山田吉彦訳、岩波文庫、上・95ページ
2. ^ 『タイプ論』林道義 訳、みすず書房、471ページ
3. ^ General Aspect of Dream Psycology, 1948, footnote 12.

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