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2009年08月25日 (00:45)

⇒+1と⇒-1の問題:同一性と差異共振性について:顕光界と玄光界の二つの世界:現象界はマーヤーである。

Media Point において、⇒+1は、主体+iと他者-iの連続的同一性化であり、⇒-1とは、主体+iと他者-iの差異共立を意味すると考えられる。
 前者において、+1=同一性=光が主体と他者の間に入り、両者を同一性にすると思われる。
 後者の場合、仮説であるが、玄(これまでの闇に換える)という差異共振化が生じるのではないだろうか。これまで述べてきた「一体性(一体感)」であるが、それはここにおいて生起するのではないか。即ち、主体+iと他者-iはそれぞれ絶対的差異であり、そうであるからこそ、共振し、一体化するということではないだろうか。
 前者の場合、即ち、同一性化の場合は、主体と他者とのそれぞれ同一性化するので、共振(即非)化が生起しないと考えられる。
 ここで具象的に考えよう。「わたし」が海を見ているとしよう。⇒+1の視覚(同一性的視覚)においては、「わたし」は「わたし」であり、海は海であるという同一性現象が生起する。これは、日常的視覚である(端的には、近代主義的視覚である)。
 しかし、⇒-1の視覚においては、「わたし」は海であり、かつ、海ではないという即非・共振視覚が生起すると考えられる。とは言え、クリティカルに重要な点は、⇒+1においては、「わたし」と海がそれぞれ、同一性化しているのであり、⇒-1においては、「わたし」と海とはそれぞれ、差異(絶対的差異)のままで、即非・共振している点であると考えられるのである。
 一見、両者において、「わたし」と海とは同じものと思われるが、それはまったくそうではないのである。つまり、前者においては、同一性化された「わたし」と「海」があり、後者においては、絶対的差異としての「わたし」と海が共立しているのである。この点はいくら強調しても強調し過ぎることはない。
 では、後者において、光や視覚とは何であろうか。ここで、作業仮説ないしは思考実験であるが、二つの光や視覚が生起するとしよう。前者の光と視覚であるが、それは、Media Point における実軸のゼロ点で発生し、後者の光と視覚はMedia Point における虚軸のゼロ点で発生すると考えたい。そして、前者の光を顕光、後者の光を玄光と呼ぼう。そして、両者はMedia Point においては、当然、不連続的に関係しているのである。
 では、端的に、この二つの不連続な光とはどのように事象的に相互に関係しているのかが、重大な問題である。これまで、私は、光と超光の二重性を述べてきた。つまり、通常の視覚に、差異共振視覚が重なることを述べた。正確に言えば、本来、差異共振現象が生起するが、それを通常、(同一性的)現象としていると述べたのである。
 この問題は実に微妙な問題であるので、精緻・厳密に考察しなくてはならない。結局、二つの不連続な異質な「光」が生起すると見るのが正確なのである。そして、Media Point において、両者は一見交差しているように見えるが、そうではなく、両者は絶対的に交わらず、平行関係にあると考えられるのである。
 では、この、Media Point における不連続な平行関係とは何であろうか。思うに、これは絶対的な位階ではないだろうか。精神と物質との絶対的な位階関係ではないだろうか。言い換えると、精神が主であり、物質で従であるという絶対的な「封建制」・「君主制」・「貴族制」ではないか。つまり、二つの「光」は、絶対的に交わらないということだと考えられる。思うに、これが、創造の奥義・神秘である。端的に、絶対的亀裂・断層・裂け目があるのである。
 とまれ、結局、Media Point において、玄光と顕光という二つの絶対的な亀裂をもつ「光」が生起するということになった。
 人間の知覚・認識の原点はMedia Point であり、ここにおいて、不連続的に二重な顕光と玄光が本来的には知覚・認識されると言えよう。
 では、このことは何を意味するのか。端的に、「現象」とは二つの世界があるということである。一種、パラレル・ワールドが存在するということである。つまり、顕光の世界のパラレル・ワールドとしての玄光の世界が存するということである。そして、顕光の世界とは、同一性の世界であり、同一性の悪(アンラ・マンユ)が存し、玄光の世界には差異共振の「真・善・美」(スプンタ・マンユ)が存すると考えられる。
 しかしながら、単に、二重の「現象」の世界の生起があるのではなく、顕光の世界は玄光の世界に取って代わられると考えられる。何故なら、顕光の世界、顕光の現象界、即ち、物質(同一性)の世界とは仮象・仮現・仮構であるからである。
 そう、では、顕光界(現象界)とは端的に何なのか。やはり、ヒンドゥー教・インド哲学の説くマーヤーである。見かけ、見せかけ、見えの映像(影像)の世界に過ぎないのである。
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