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2009年10月28日 (16:09)

一般意味論とPS理論:構造微分と精神フィルター:小乗的個的理論から大乗的社会理論・実践へ:Ver3

以下、先の論考の一部を修正し、また、追記2等を補足したものである。

参照:

PS理論に於ける「カラー( colour)」の定義
http://blog.kaisetsu.org/?eid=810196
『海舌』 the Sea Tongue by Kaisetsu 
***********************
一般意味論とPS理論:構造微分と精神フィルター:小乗的個的理論から大乗的社会理論・実践へ: Ver3

この問題はきわめて意義深く興味深いので、さらに考察を行いたい。
 昨日は記述は、まだ述べたいことを十分に述べてはいなかった。つまり、Kaisetsu氏が創造した用語の『精神的フィルターsemantic filter』の概念が、知的喚起力があり、その喚起されたものを述べたい。
 「フィルター」という概念が明敏なのである。つまり、Media Pointにおいて、垂直軸と水平軸が「交差」するが、前者から後者へと次元転換(縮退次元変換?)するときに、この精神的フィルターが発生するのである。
 このフィルターの虚軸部では、超越的共振エネルギーがいわば沸々としている。しかし、実軸部では、同一性の形態・形象・図式が生まれるのである。
 以前、海岸の打ち寄せる波の風景・情景のことを言語化し、それでも、私の「思い」は表現されていないことを述べたが、それは、まったく一般意味論的な事象・心象である。
 この「思い」が精神フィルターの虚軸部ではないかと思う。そして、言語表現がフィルターの実軸部の同一性の図式・フレームである。(言語と感覚は相関性がある。)
 「思い」が差異共振性であり、言葉が同一性であり、一般意味論の構造微分に当たる。この「微分」という発想はまったく的確である。
 不連続的差異は微分不可能であり、差異共振性も当然そうである。しかし、精神的フィルターを介すとき、微分可能となるのである。だから、フィルターは同一性変換器とも言える。
 結局、心(身体的精神)には、Media Pointがあり、虚軸と実軸が交差しているのであり、虚軸ゼロ点における「思い」が実軸ゼロ点の「言語」ないしは構造微分に変換されるのであるが、これは、当然、等号ではなく、等号且つ不等号であり、端的に、即非である。あるいは、⇒である。
 結局、既述したことの繰り返しとなるが、虚軸部と実軸部とは、絶対的に不連続であり、シャープに切断されているのである。つまり、虚軸部≠実軸部である。ここには、等号は成立しないと言えよう。
 虚軸部をY、実軸部Xをとすると、Y⇒X、Y≠X と記述できる。
 精神フィルターで隔離された二つの領域が存するので、意識は錯誤に陥りやすいと言える。つまり、何とか、両者を連続させて、辻褄を合わそうとするのである。しかし、本来、絶対的不連続性があるので、辻褄は合わないのである。
 ここでやや飛躍的だが、言語について簡単に触れると、それは、知的「物質」性と言えるかもしれない。あるいは、認識的「物質」性である。端的には、認識的同一性である。思うに、これが精神的フィルターである。Media Pointにおいて、実軸部には、精神的フィルター=認識的同一性=言語的フィルターが存するのである。
 そして、これは、主に、+iが関わっているだろう。つまり、Media Pointにおいて、虚軸的共振「現象」に対して、+iが能動的にはたらいて、+1と同一化すると思われる。
 これは、思うに、差異共振エネルギー⇒が消費されたときに+1に終結するが、それと、主体の+1が一致することから生起するのではないだろうか。つまり、認識は、+iに傾斜しているのである。そして、それが、+1と同一化するということであり、このときに、+iは言語認識作用をもつということではないだろうか。
 そして、成長過程において、この言語認識を増殖させることになるのであり、現象世界は、同一性世界へと縮退・抽象化されていくのである。それは、また、数量の支配する世界である。原近代世界である。
 ということから、精神的フィルター問題に返ると、そのフィルターは、+i傾斜によって形成されると言えるのではないだろうか。
 Media Pointの虚軸部Yは、差異共振エネルギーであり、そこでは、「私」は「川」であり、且つ、「私」は「川」ではないという即非態にある。しかし、実軸部 Xでは、「私」は「私」であり、「川」は「川」であり、両者は一致しないということになる。「物質」の世界である。アリストテレス論理の世界である。「私」=「私」、「川」=「川」、「私」≠「川」である。
 そして、言語はXの世界のものである。上記したように、差異共振エネルギーが消失して、+iと+1が一致するのである。+i=+1、これが、言語形式ではないだろうか。
 否、+i⇒+1、これが、言語方程式ではないだろうか。
 そして、精神的フィルターもこれで記述できるのではないだろうか。
 とまれ、精神的フィルター(=言語形式)には、他者-iが消えていることに注意すべきである。人間が利己主義になるのは、このような本性に拠ると考えられる。また、近代合理主義を形成するのも、この帰結と考えられる。
 ここで、他者-iの力学について考えると、何か、人間の本性・本質には、+i傾斜から-iの活性へと反転する仕組みがあるように考えられるのである。
 つまり、+iの傾斜とは、端的に、-iの潜在を意味するのである。だから、発生的には、プラスが先行し、その後、反転して、マイナスへと点ずると考えられるのである。
 マイナスへの反転によって、精神的フィルター中心主義(ロゴス中心主義)が解体するのであり、その始まりが、ポスト・モダンであり、その完全な乗り越えがトランス・モダンである。いわば、同一性への差異の復讐が起こるのである。これが、《黙示録》(アポカリプス)(追記:ゾロアスター教的黙示録・アポカリプス)である。虚軸界へのらせん的回帰である。
 今はここで留める。

追記:哲学とは、Media Pointにおける+iの知的行為ではないだろうか。だから、男性的であるが、女性的な-iを取り込んでいるのである。
 プラトンは、完全に、虚軸部で思考していたと言えよう。また、古代ギリシア文化社会の秘密もこれで理解できよう。つまり、虚軸部のエネルギーが沸々としていた文化社会であり、しかも、男性的な+iが盛んに作用していたのである。
 結局、大文化社会が生まれるには、女性的な虚軸エネルギーと同時に、男性的な+iの活力が必要であると言うことである。そうすると、現代日本は危うい、実に危うい。アジア諸国に、能動・創造的ダイナミクスがあると言えよう。

追記2:虚軸部の差異共振エネルギーとは、言い換えれば、ニーチェのディオニュソスであり、+iの男性的活力は、アポロである。
 そして、両者の和解にギリシア文化の本質があると述べていた。確かに、ディオニュソスとアポロの調和を古代ギリシア人は求めていたと言えよう。
 その調和とは、傲慢となった+iが差異共振の神々の世界の秩序を認識することにあるのではないだろうか。即ち、+iが(+i)*(-i)を認識することにあるだろう。正に、アポロン神殿の信託「汝自身を知れ」の実現である。
 これは、また、ゾロアスター教的認識に一致すると考えられる。
 
補記:古代ギリシアの場合、ニーチェが指摘したように、ディオニュソス(母権)とアポロ(父権)が衝突していると見るのが正しい。この衝突から、調和が生まれるのである。
 プラスとマイナスの衝突とも言えよう。これは、(+i)*(-i)で記述できよう。
 整理すると、自己認識方程式が当てはまる。即ち、(+i)*(-i)⇒+1において、『左辺⇒』がディオニュソスであり、『⇒右辺』がアポロである。即、Media Pointの虚軸部がディオニュソスであり、その実軸部がアポロである。両者、Media Pointを共通にもっているのである。
 しかしながら、アポロが、+i⇒+1の精神的フィルター化すると、つまり、父権主義化すると、それは、ディオニュソスと対立・衝突するのである。それが、ギリシア悲劇の力学であると言えよう。両者、相克状態となるのである。
 そして、オイディプスの場合は、『コロノスのオイディプス』でわかるように、神々の秩序を受け入れて、調和するのである。つまり、精神的フィルターを脱してアポロ+iが差異共振秩序ディオニュソスを受容し、認識するのである。
 また、『オレステイア』の場合は、復讐の女神(ディオニュソス)とオレステイア(父権主義的アポロ)が、アポロとアテナイ女神の媒介によって、法的に和解するのであるが、この場合の法的和解の原理であるが、それは、差異共振原理であり、即ち、ディオニュソス原理であると考えられる。つまり、ディオニュソス原理をアポロ+i的に認識したものと考えられる。
 
参照:
コロノスのオイディプス
提供: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


『コロノスのオイディプス』は、ソポクレス 作のギリシア悲劇 である。テーバイ のかつての王オイディプス が放浪の末アテナイ 近郊のコロノスの森にたどり着いたところから始まり、オイディプスの死に到るまでを描く。

運命に翻弄されたオイディプスは予言に従って復讐の女神エウメニデス の聖林に導かれ、そこを自らの墓所として望み、アテナイ王テセウス もこれを認めた。そしてこれを阻もうとする息子ポリュネイケスやテーバイの現在の王クレオンにもかかわらず、オイディプスはテセウスのみが見守る中コロノスの地中深く飲み込まれていく。

なお、ソポクレスの現存作品では、

* 『オイディプス王 』(紀元前429年 - 紀元前425年 ごろ)
* 『コロノスのオイディプス』(紀元前401年 )
* 『アンティゴネー 』(紀元前441年 ごろ)

の3作品がテーバイ王家の悲劇として密接な関連があり、時に三部作として扱われる。が、上記のように成立年代からして話の順序とは一致せず、アイスキュロス が好んだとされる三部作形式とは異なるものである。
物語 [編集 ]

舞台は、盲目で年老いたオイディプスが娘であるアンティゴネーに手を引かれて登場するところから始まる。彼らは乞食をしながら放浪し、コロノスのエウメニデスの神域の近くまでたどり着いたのである。そこにやってきた男に尋ねると、そこが神域であるとわかり、自分はここを動かぬつもりであること、王に使いして欲しいことを告げる。

そこにコロノスの老人たちに扮したコロスが登場、彼がオイディプスであることを告げられると、すぐに立ち去ることを要求する。これに彼が反論していると、そこに彼のもう一人の娘、イスメネーが現れる。故郷に残った彼女は、彼の息子たちが仲違いし、兄ポリュネイケスが追い出され、国外で味方を得たことを伝え、同時にオイディプスに関する神託が出たことを告げる。それによると、彼が死んだとき、その土地の守護神となるという。そのためオイディプスを追い出した王であるクレオーンは彼を連れ戻し、国の片隅に留め置くことを考えているという。オイディプスは彼を追い出した町、そして彼が追い出されるのを止めなかった息子たちへの怒りを口にする。コロスは王がくるまでとりあえず彼を受け入れる旨を述べる。

そこへ王テセウスがやってくる。彼はオイディプスの求めるものを問い、それに対してオイディプスは、自分の死後、ここに葬って欲しいこと、それによってこの地を守護することが出来ること、しかしクレオーンと息子たちが自分を求めていることを述べる。王は彼を受け入れることを告げる。

そこにクレオーンが出現。丁寧な言葉でオイディプスに帰国を促す。しかしオイディプスはこれに反論、両者は次第に激高し、ついにクレオーンは娘を奪ってゆく、すでに一人は捕らえ、次はこの娘だ、とアンティゴネーを引き立てる。オイディプスはコロスに助けを求め、コロスはクレオーンを非難する。そこへテセウスが現れ、クレオーンを非難し、娘たちを取り戻すことを宣言する。クレオーンは捨てぜりふを残して退散、娘たちは取り戻される。

すると今度は社によそ者が来ているとの通報、オイディプスに会いたがっているという。オイディプスはそれが自分の息子であると判断して、会うのを拒否するが、周囲の説得で会う。するとそれはやはりポリュネイケスであった。彼は自分が祖国を追い出されたこと、ドリスのアルゴスが味方してくれ、祖国に戦を仕掛けること、そのためにオイディプスに自分についてもらい、守護者となって欲しいことを述べる。彼はこれを全く聞き入れず、おまえは兄弟の手にかかって死ぬであろうとの呪いの言葉を述べる。アンティゴネーもポリュネイケスに説いて祖国を攻撃しないように言うが聞き入れず、彼も立ち去る。

このとき、天は急に荒れ、雹が降り、雷が鳴り響く。オイディプスは自分の終わりが近いことに気がつき、テセウスを呼びにやる。テセウスがくると彼は娘たちの先に立って神域に入る。これに付き従ってテセウスと従者も姿を消す。

その後、使者が現れ、オイディプスの最後の一部始終を語り、彼が死んだことを告げる。その後は二人の娘による嘆きで劇は終わる。
要点 [編集 ]

この劇の一つの要点は「神との和解」である。オイディプスの伝説では、最初に示された神託がそもそも彼らの悲惨な運命を示すものであった。登場人物たちはそれぞれにそれを避けようと努力したにもかかわらず、すべてが実現してしまった。中でももっとも悲惨な運命を担ったのがオイディプスである。

ソフォクレスは神の道が人間ではどうにもならぬものであり、また神の采配は時に恐ろしく非情であることを書いてきた。しかし、この劇では神の側からオイディプスに対して和解が示されている。また、「オイディプス王」では自分の悲惨な運命を嘆くばかりであった主人公は、この劇では一貫して自己の正当性を主張する。父親を殺したのも正当防衛であったし、他の場合でもその時その時は最善の選択をした結果であり、そこに恥じるところはないといい言っている。一般的な伝説ではオイディプスの死にこのような話はないようで、それだけに詩人の思い入れが強く働いているとも考えられる。

なお、オイディプスの息子のその後に関わる話は、アイスキュロス の「テーバイ攻めの七将 」が有名である。
関連項目 [編集 ]

* フェリックス・メンデルスゾーン - 劇付随音楽「コロノスのオイディプス」(Op.93)

「http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%AD%E3%83%8E%E3%82%B9%E3%81%AE%E3%82%AA%E3%82%A4%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%97%E3%82%B9 」より作成
カテゴリ : ギリシアの戯曲


オレステイア
提供: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

オレステイア(The Oresteia)は、古代ギリシア の悲劇 作家アイスキュロス の書いた悲劇作品三部作。唯一、三部作ともにしっかりした形で残された作品であり、『アガメムノーン』『供養する女たち』『慈しみの女神たち』の三つの悲劇から構成される。紀元前458年 に上演された。
内容 [編集 ]
『アガメムノーン』 [編集 ]

トロイア戦争 に参加していたギリシア 軍総大将アガメムノーン が、イーリオス (トロイア)を陥落させ、10年ぶりにミュケーナイ に戻るところから話が始まる。トロイア戦争へ出征する際、アガメムノーンは娘イーピゲネイア を女神への生贄として捧げた。これを怨んだ妻のクリュタイムネーストラー (ヘレネー の姉)は、同じくアガメムノーンに恨みを抱いているアイギストス と深い仲になり、凱旋してきたアガメムノーンおよび、捕虜として連れられてきたカッサンドラー の殺害を図る。

トロイア戦争におけるギリシア側の勝利という大義のためなら、娘の命を奪うこともやむをえないという父アガメムノーンにとっての正義は、愛する娘の命を戦争ごときのために奪ってはならないとする母クリュタイムネーストラーにとっての正義によって倒される。帰還したアガメムノーンと捕虜カッサンドラーが館に入ろうとすると弔いのコーラスが流れ、館の中に消えると断末魔の叫び声が響く。二人の遺体とともに妻クリュタイムネーストラーが現れ、娘を殺した犯人に対する復讐は正義に基づくものであると訴える。
『供養する女たち』 [編集 ]

アガメムノーンの殺害後、妻のクリュタイムネーストラーは息子のオレステース をミュケーナイから追い出し、娘のエーレクトラー を冷遇していた。こうした中、成人したオレステースがミュケーナイへと帰還し、父アガメムノーンの墓に詣でて、アポローン 神に導かれ復讐を誓うところから話が始まる。オレステースは、父の墓場でやはり母への復讐を願う姉エーレクトラーと出会い、母クリュタイムネーストラーと情夫のアイギストスの殺害を図る。

旅人に扮したオレステースは母の館に向かい、オレステースは既に死んだこと、オレステースの骨壺 を持ってきたことを伝える。母クリュタイムネーストラーは嘆き悲しみ(これが演技か本心かは観客の判断にゆだねられる)、オレステースを館に招き入れる。オレステースはまずアイギストスを殺害し、ついに母クリュタイムネーストラーを殺そうと近づく。旅人の正体がオレステースと知ったクリュタイムネーストラーは、息子に向かって必死の命乞いを行う。クリュタイムネーストラーは、かつて息子に対して注いだ愛を訴える。しかし、オレステースは、情夫に愛を注ぎ夫を殺害した母クリュタイムネーストラーを責める。それも運命であったと弁明する母に対し、それならここで殺されるのも運命として、オレステースはついに母を殺害する。

こうして、オレステースはアポローンの命じた通り父の敵討ちという正義を果たしたが、その結果、母親殺しという重い運命を負うことになった。母の怨念や、かつて復讐をそそのかした復讐女神(エリーニュース )に襲われる幻覚に苦しみ、オレステースは狂乱状態に陥る。コーラス隊の歌が響きわたる。
『慈しみの女神たち』 [編集 ]

復讐女神(エリーニュース)に付きまとわれるオレステースは、放浪の末にデルポイ の神殿にあらわれ、アポローン にすがるところから話が始まる。オレステースはアポローンの指示に従いアテーナイ のアクロポリス にある女神アテーナー の神殿に向かい、アテーナーを裁判長として、オレステースを弁護するアポローンと、オレステースを母親殺しとして告発する復讐女神(エリーニュース)の間で裁判 が行われる。当時のアテーネーでは直接民主制が行われており、アテーナイ市民12名が陪審員 として判決を左右した。

陪審員の判決は、有罪・無罪が半々にわかれるが、裁判長のアテーナーがオレステースを支持したため、オレステースは無罪放免とされる。判決を不服とする復讐女神(エリーニュース)は激高するが、なだめられてアテーナイの慈しみの女神(エウメニデス )となるよう説得されると、エリーニュースたちはこの申し出を受け入れる。こうして、憎しみの連鎖はついに断ち切られ、ギリシア世界に調和と安定がもたらされ終幕する。

************************

 トランス・モダン社会の分析で今後、重要になると思われるのは、


哲学的には一般意味論は応用概念論とも言うべきもので、人間の感覚器 や神経系 や言語が人間の経験にフィルターをかける度合いを強調するものである。
一般意味論の最重要の前提は次のように簡潔に表現される。「地図は現地ではない。単語はそれが表す事象そのものではない。」アリストテレス は真の定義が事象の本質 を表すとしたが、一般意味論はそのような本質を見つける可能性を否定する。



の部分であろう。

 これは、物質(実数、現実)と精神(虚数、電磁関連作用)との「Media Point」の存在を推測している部分であり、正確には、「Media Point line, Film」と呼ぶべき部分を分析対象としているのである。

 端的に、「精神的フィルター(semantic filter )」と呼んで良いと思う。

 精神世界(意味世界、価値世界、不連続世界)と物質世界(没価値世界、連続世界)との境界には、「精神的フィルター(semantic filter )」と呼ぶべき「媒体」が存在しているのである。
http://blog.kaisetsu.org/?eid=810177
『海舌』 the Sea Tongue by Kaisetsu 

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一般意味論
提供: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
・・・・・

一般意味論では抽象の段階に関する考え方を「構造微分 structural differential」 と呼び、1)無限に変化する「世界」から、2)感覚器官によって把握された外界の似姿、3)「外界」として体験された事柄についての言語的記述、4)そうした言語的記述についての記述、というように当初の情報が段階的に縮退されていくことを指摘した。現在では認知心理学 ・認知科学 的研究によりそうした縮退の様子が把握されているが、「元の世界についての認識」が、言語的に表現された「世界」についての認識へと縮退的にすり替えられていかざるという人間の認識能力の限界、そのことを明確に指摘した点に一般意味論の決定的な重要性がある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E8%88%AC%E6%84%8F%E5%91%B3%E8%AB%96

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General Semantics

In the 1930s a Polish Count, Alfred Korzybski, wrote a book called "Science and Sanity" which has had a tremendous influence on the Self Development movement ever since. It has been said that if Korzybski had had the communication skills of some of the great names of this century, such as Hubbard of Scientology, or Bandler and Grinder of NLP, then he would have been the great guru. Rather sad, in one way, is that few would pick up Science and Sanity to read, but would pick up many copies of his ideas.


http://www.trans4mind.com/personal_development/GeneralSemantics/index.html
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