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2009年11月09日 (00:20)

これが差異共振の真打ちである:複雑系差異共振的作品:トランス・モダン音楽

YouTubeは以下を見られたい。
http://ameblo.jp/renshi/entry-10383713030.html

クラシック音楽(classical music)とは、結局、対位法を形成したときに生まれたのではないだろうか。その完成がバッハである。
 しかしながら、その差異共振性をその後の作曲家が真に理解したか疑わしい。ドイツ・オーストリア音楽は、思うに、根源的に東洋的な差異共振性がある。
 この作曲方法は、今日でも当然、用いられうるし、また、活用すべきである。
 結局、Media Pointないしは精神的フィルターを介して、差異共振が多様複雑化(複雑系)できるのである。
 一つの差異共振対話連鎖、例えば、

A*B⇒A1*B1⇒A2*B2⇒・・・

が存する。それを仮に、Cとする。Cに対して、Dの他者を共振させることができる。即ち、

C*D⇒C1*D1⇒C2*D2⇒・・・

である。同様に、C*DをEとして、E*Fの差異共振対話が形成できる。
 そうすると、多次元的な差異共振対話的作品が生まれる。言い換えると、複雑系的作品である。
 もっとも、バッハのフーガの技法は、そのような作品である。トランス・モダン音楽である。

追記:思うに、ポイントは、差異共振=即非化の「ツボ」である。シュルレアリスムが唱えたロートレアモンの「ミシンと蝙蝠傘の手術台の上での不意の出会いのように美しい」というのでは皮相である。一時的である。差異共振=即非は普遍的でなくてはならない。
 つまり、端的に言えば、正反対になる要素が必要なのである。Aの正反対のBが、Aと差異共振するのである。言い換えると、極性的な反対の要素が必要なのである。
 例えば、Aはカップ麺である。Bは本である。A≠Bである。しかしながら、A=Bにはならない。つまり、カップ麺と本は差異共振しないのである。
 思うに、認識的要素が必要なのである。Aは「わたし」である。Bは川である。A≠Bである。しかし、「わたし」は川である、ということは成立するのである。
 結局、認識のもつ存在への志向性がポイントだと考えられる。だから、認識的差異共振であり、存在的差異共振は不可能である。それは、幻想である。シュルレアリスムの失敗はここにあると言えよう。
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