2005年12月10日 (21:00)

神話・物語・民話・冒険譚等における龍退治の意味について

神話・物語・民話・冒険譚等における龍退治の意味について
テーマ:神話
一つは、父権神話イデオロギーとして:これは、文化史的解釈だ。
一つは、メディア界を統合する哲学的意味として:これは、いわば、「オカルト」的解釈である。というか、密教・秘教的解釈である。あるいは、一種ヨガ的解釈である。一種精神分裂症(狂気)を高次元的に超克し、叡知を形成することを意味するのではないか。つまり、現象界的自我とメディア界的自我の分裂が、龍との闘争を意味するのではないか。そして、これは、イデア界の叡知に達するまでは、カオスの状態であろう。龍とは、メディア界であろう。メディア界的意識であろう。現象界的意識とメディア界的意識が分裂し、激闘する。そして、龍退治する英雄とは、イデア界の叡知に達して、その分裂を克服したことを意味するのではないか。 
 秘儀・密儀も、この叡知の獲得を意味した。結局、イデア界の認識を、得ることを、近代以前までは、至上のこととしたのではないか。それが、近代において、喪失されるのである。近代は、イデア界の喪失である。結局、主客二元論となり、根源界を喪失したのである。そして、近代主義は、根源界の認識を排除してきたのである。問題は、この根源界が、近代以降は、オカルティズムとして、探求されたことである。(p.s. ここの言い方は、短絡的である。根源界は、哲学において探求されたのである。ドイツ観念論、ニーチェ、フッサールによってロゴス的に探求されたのである。そして、喪失・忘却された根源界にたどりついたのである。不連続的差異論は、この完成であると思われる。)オカルティズムとは、霊と物質との2項対立であり、実は、唯物論と同型である。因みに、中沢新一氏が、自身の思想を霊的唯物論と呼んでいるのは、このことの証左となるだろう。ずいぶん以前に、グノーシス主義を唱えていた中沢氏の二元論を危険と私は感じていた。結局、2元論は、唯物論にしろ、オカルティズムにしろ、暴力的なのである。ここで、整理すると、

イデア界・直観力/メディア界・想像力/現象界・言語力(?)

p.s. 今日、ファンタジーが流行しているのは、メディア界が、今日、資本主義における創造性と結びつくからではないだろうか。否、イデア界⇔メディア界と今日の資本主義が、結びつくからであろう。
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2005-12-10 00:12:47
直観力とイデア界の関係について
テーマ:不連続的差異論
イデア界において、不連続的差異が境界をもって共立並存している。不連続的差異の並立がある。ここは、絶対的世界であり、すべてが、即の状態にある。もっとも、境界をもった即ではあるが。境界をもって、不連続的差異が、いわば、即通している。これは、無限速度である。そして、この無限速度の即通ないし即信が、直観力であろう。これは、不連続的差異に内在している垂直・水平相補性によって生起しているものだろう。不連続的差異と不連続的差異の内在的即通が直観力であろう。つまり、直観力とは、不連続的差異の内在性から発する力である。結局、直観力とは、イデア界の力・虚力と等しいだろう。また、直観を閃き、閃光として表現するのは、妥当なことである。それは、超光速である。
 では、時間の問題はどうなるのだろうか。イデア界は、即時の世界である。メディア界は、時空連続体であろう。相対性理論の世界であろう。時間は遅れたり、進んだりするだろう。現象界は、時計の世界である。というか、ガリレオ&ニュートン的古典物理学の時間の世界である。すると、相対性理論とは何かという問題が問われる。量子力学は、既に、メディア界の物理学であると述べた。相対性理論も、基本的には、メディア界の物理学であろう。差異・ゼロ度の世界は、時間・空間相補性を意味しよう。結局、相対性理論も量子力学も、メディア界を対象としているのである。そして、標準理論は、メディア界の概念をもっていないので、破綻したのではないだろうか。また、繰り返すこととなるが、4つの力ではメディア界を記述するには不十分なのである。ダークマター、ダークエネルギーの仮説が出るのは当然だと思う。4つの力とは、確かに、メディア界の力であろう。しかし、メディア界は、これらの力が、不可分一如になっている領域である。つまり、総合力があるのである。これが、4つの力では説明できないと思われるのである。簡単に言えば、メディア力自体を、4つの力では説明できないのである。メディア力=エネルゲイアを4つの力では説明できないから、宇宙において、エネルギーが不足することになると思われるのである。このメディア力=エネルゲイアを考慮することで、ダークマター、ダークエネルギー問題は解決されるのではないかと思われるのである。

p.s. 直観力とは、宗教の無量光であろう。また、後で、太陽や恒星と、イデア界の関係を考えたい。
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2005-12-09 17:54:23
想像力とメディア界
テーマ:ブログ
想像力は、志向性と言えるだろう。そして、また、イデア・メディア境界にあるのではないだろうか。ならば、想像力と物理学はどう関係するのだろうか。ここで、直観で言えば、想像力はほぼメディア界である。だから、想像力とは、エネルギーであり、現象界の力を源である。大ざっぱではあるが、想像力=イデアと言ってもいいのだろう。また、当然、ヴィジョンでもある。想像力=イデア=ヴィジョンである。しかし、想像力は、イデア界とメディア界両面に関わる。結局、イデア界における志向性が想像力であり、また、メディア界の差異・ゼロ度が想像力でもある。(ここで、イギリス・ロマン派のS.コゥルリッジのファンタシーとイマジネーションとの区別を想起する。おそらく、ファンタジーは、メディア界的であり、イマジネーションは、イデア界的ではないだろうか。)ならば、想像力は、自然の力を包括している。4つの力を包括・包摂していることになるが、それでいいのか。
 問題は、差異・ゼロ度の意味である。これは、エネルゲイアである。これを想像力としていいのか。おそらく、それでいいのだ。4つの力は、心身諸力でもある。そして、心身諸力は、想像力を浸透されているだろう。感覚/感情/直観/知性は、想像力を帯びるだろう。
 ここで、より精緻化すると、想像力とは、イデア・メディア境界的である。ヤヌス(両面)的である。だから、不連続性と連続性の両義性をもつのであり、脱領土化と再領土化の両面をもつと言えよう。(思うに、ドゥルーズ&ガタリの哲学は、想像力の哲学である。これは、ロマン主義の哲学の延長であろうし、また、カント哲学の延長であろう。)
 以上の観点から、近代主義を見ると、それは、想像力という根源を排除して、超越論的形式主義に徹したと言えるだろう。メディア界という想像力を排除して、超越論的形式を優越化しているのである。これが、フッサールが批判した、近代的科学である。想像力的である生活世界が喪失されるのである。そして、これが、私の言う近代主義の狂気・精神病性である。
 では、現代、不連続差異が主導的になりつつあるが、不連続差異と想像力とはどう関係するのか。特異性である不連続差異とは、想像力の根源である。しかし、想像力と等しいと言うよりは、直観力と言うべきではないだろうか。おそらく、直観力が、想像力のベースではないだろうか。直観力⊇想像力ではないだろうか。直観力とは、根源的志向性であろう。そして、想像力とは、イデア・メディア境界的志向性であろう。すると、不連続差異が主導的になるとは、直観力が主導的になるということである。そして、当然、想像力も内包するのである。ならば、直観/想像力の主導性を意味するだろう。ならば、完全に現代は、ポスト近代の新世紀・新時代である。原点に回帰した時代である。イデア界ルネサンスの時代である。万民天才化の時代である。結局、不連続差異共立・共存・共生・共創の政治・経済・社会・文化が進展するのである。絶対的ポスト近代主義、絶対的ポスト西洋・一神教文明である。

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  • Author:sophio・scorpio
  • 2004年(平成16年)9月23日、ブログ上で、ODAウォッチャーズ氏(ブログ『海舌』)と遭遇して、新しい理論、不連続的差異論が誕生しました。まったく思いもよらぬ出来事でしたが、この結果、独創的な理論が生まれたと自負しています。とても簡潔な理論ですが、文系、理系の分化を乗り越えた統一的理論で、多くの分野・領域に適用可能だと考えられます。
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