2005年12月10日 (21:02)
資本主義の不連続的差異化へ:イデア界的資本主義:新黄金時代へ
資本主義の不連続的差異化へ:イデア界的資本主義:新黄金時代へ
テーマ:差異資本論
以下のアドルノの言は、いわゆる知識人的発想のものである。確かに、文化の商業化は今日起っている。
しかし、逆のことも言えるのである。近代的二元論、「もの」と「こころ」との二元論があり、「もの」中心の経済が近代的資本主義であった。しかし、こんにち、「情報資本主義」であり、それは、「こころ」が資本主義に入っているのである。つまり、文化が資本主義に取り入れられているのである。この点で、アドルノの言は、古いのである。不連続差異論から言うと、メディア界に資本主義が入っているのであり、また、さらに、イデア界にも入っていると言えるのである。つまり、資本主義は、不連続差異化してきているのである。現代資本主義は、イデア界・不連続差異的資本主義である。現代は、ポスト近代・ポストモダン革命の最中である。相転移期である。(今日のような悲観的時代ではあるが、私は、夢想的に、新黄金時代と呼んでいるが、それへと向っていると考えられる。)
結局、不連続的差異論革命の最中である。イデア界が、人々に回帰しているのだ。だから、新自由主義的力の路線と相補の差異共存共生共創主義が生まれるはずである。後で、もう少し、詳述したい。
p.s. 新自由主義でさえ、それとも、だからこそと言うべきか、斬新な創造的企業が必要であるが、創造性は、イデア界から生まれるのである。そして、それが、メディア界化・想像力化されて、実現していくのである。創造的企業内において、不連続差異化が起きているのである。しかし、これは、力の側面においてである。もう一つは、共存的側面で、不連続差異化が起ると言えよう。
参照:『心の起源 生物学からの挑戦』木下清一郎著 中公新書
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/
4121016599/250-7564220-6771446
以下引用。_____________________________________
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自由主義時代を通って、文化は[資本]流通の領域に落ちた。
そして今、流通領域の漸進的壊死は文化そのものの生命中枢に
及んでいる。
十分に計算された産業の配分装置による商業とその非合理的潜
伏地の除去にともなって、文化の商業化はナンセンスなまでに
完成される。
完全に束ねられ、管理され、大体耕作されつくしたものとして
、文化は壊死する。
テオドール・W・アドルノ「文化批判と社会」
『プリズメン』ちくま学芸文庫p20
渡辺祐邦・三原弟平訳、1996年2月7日第1刷発行
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PUBLICITY
No.1270(2005/12/10/土)
◆_/_/_/_/_/_/_/_/_/
「PUBLICITY」(パブリシティー) 編集人:竹山 徹朗
E-mail:freespeech21@yahoo.co.jp
blog:http://takeyama.jugem.cc/
※転送・転載自由です。ただ、転送・転載される時には、
登録申し込み先(↓)も必ず合わせて併記してください。
http://www.emaga.com/info/7777.html
テーマ:差異資本論
以下のアドルノの言は、いわゆる知識人的発想のものである。確かに、文化の商業化は今日起っている。
しかし、逆のことも言えるのである。近代的二元論、「もの」と「こころ」との二元論があり、「もの」中心の経済が近代的資本主義であった。しかし、こんにち、「情報資本主義」であり、それは、「こころ」が資本主義に入っているのである。つまり、文化が資本主義に取り入れられているのである。この点で、アドルノの言は、古いのである。不連続差異論から言うと、メディア界に資本主義が入っているのであり、また、さらに、イデア界にも入っていると言えるのである。つまり、資本主義は、不連続差異化してきているのである。現代資本主義は、イデア界・不連続差異的資本主義である。現代は、ポスト近代・ポストモダン革命の最中である。相転移期である。(今日のような悲観的時代ではあるが、私は、夢想的に、新黄金時代と呼んでいるが、それへと向っていると考えられる。)
結局、不連続的差異論革命の最中である。イデア界が、人々に回帰しているのだ。だから、新自由主義的力の路線と相補の差異共存共生共創主義が生まれるはずである。後で、もう少し、詳述したい。
p.s. 新自由主義でさえ、それとも、だからこそと言うべきか、斬新な創造的企業が必要であるが、創造性は、イデア界から生まれるのである。そして、それが、メディア界化・想像力化されて、実現していくのである。創造的企業内において、不連続差異化が起きているのである。しかし、これは、力の側面においてである。もう一つは、共存的側面で、不連続差異化が起ると言えよう。
参照:『心の起源 生物学からの挑戦』木下清一郎著 中公新書
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以下引用。_____________________________________
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自由主義時代を通って、文化は[資本]流通の領域に落ちた。
そして今、流通領域の漸進的壊死は文化そのものの生命中枢に
及んでいる。
十分に計算された産業の配分装置による商業とその非合理的潜
伏地の除去にともなって、文化の商業化はナンセンスなまでに
完成される。
完全に束ねられ、管理され、大体耕作されつくしたものとして
、文化は壊死する。
テオドール・W・アドルノ「文化批判と社会」
『プリズメン』ちくま学芸文庫p20
渡辺祐邦・三原弟平訳、1996年2月7日第1刷発行
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