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2009年11月28日 (13:31)

光と同一性:近代合理主義と闇の光:トランス・モダン・ライト:光の復活

この問題は以前検討したが、まだ不明確であるので、考察を行いたい。
 問題点を簡単に言えば、視覚中心主義と同一性主義が結びついているのではないのかということである。言い換えると、視覚中心主義はMedia Point、精神的フィルターを抑圧するのではないのかということである。
 光とは本来、Media Pointから生まれるものであり、元は大光である。つまり、大光⇒光である。
 しかし、近代合理主義(唯物論)が強化されると、Media Point(精神的フィルター)が抑圧されて、同一性主義になる。すると、大光が「知覚」されなくなり、光だけが知覚されるようになると考えられる。
 
 少し見方を変えよう。光自体は大光である。ただ、近代合理主義(近代的自我、同一性的自己、唯物論)の視点で大光を見ると、「光」にしか見えないのである。
 「光」とは、同一性のフレーム(愚樵氏の知的フレームと同じである)で見られた大光のことである。この同一性のフレームは言語的フレームと言えよう。つまり、言語を介して、現象を同一性化すると考えられる。即ち、言語的同一性が「光」を「作り出している」と言える。
 言い換えると、精神的フィルターの同一性志向性が「光」を「形成」している。
 具体的に考察しよう。ある対象があるとしよう。それを「わたし」は視覚する。言語的同一性の精神的フィルターから、対象を、例えば、森と知覚する。
 森自体は他者であり、絶対的差異であるが、言語的同一性フィルターによって、対象は「森」として同一性化されるのである。
 そして、太陽が照らすと、森の中は木漏れ日となる。木漏れ日も言語である限り、同一性である。
 そう、ここで指摘しなくてはいけないのは、正に、客観的対象化があることである。「わたし」とは別の空間に森があるということである。この客観的対象化も同一性の作用である。
 つまり、「わたし」とは別に森が存在するのであり、「わたし」は森ではないという同一性論理(アリストテレス論理)があるのである。
 この同一性論理によって、「わたし」のMedia Point/精神的フィルターは、抑圧される傾向にあるのである。
 というのは、Media Point/精神的フィルターとは本来、即非論理、差異共振論理をもつのであり、同一性論理を否定するものであるから、両者は齟齬の関係であり、同一性論理が中心化されれば(ロゴス中心主義)、当然、即非論理、差異共振論理は否定されざるをえないのであり、Media Point/精神的フィルターが抑圧されることになるのである。
 デリダが説いたように、西洋文明はロゴス中心主義であり、正に、言語的同一性に支配された文明である。これによって、西欧近代文明、近代合理主義・近代科学(唯物論的科学が生まれたのであり、その結果、同一性論理が世界化したのである。
 だから、大光は「光」になったのである。つまり、本来の大光を同一性的精神的フィルターのために、「光」と視覚しているのである。
 より簡明に述べれば、光を「光」と視覚しているのである。つまり、光を見ていないのである。
 では、「光」、同一性化された光とは何か。それは、いわば、物質的光である。アンラ・マンユ化された光である。言わば、冷暗の光である。あるいは、闇の光である。つまり、今日、一般に、光を視ているのではなく、闇の光を視ているのである。
 とりわけ、現代日本人は闇の光(悪魔の光)を視ているのである。例えば、明らかにペテン師とわかるコイズミ元首相を選んだ人の眼は光が見えずに、闇の光を視ているので、闇を光と取り違えたのである。
 この闇の光、悪魔の光、同一性の光であるが、それは、PS理論では、-1ではないだろうか。⇒+1であり、+1が光子であろう。つまり、ルシファー化されたアンラ・マンユであり、光(⇒+1)を-1と視ているのである。
 これはまた、視覚だけでなく、聴覚やその他の感覚でも同様である。
 同一性の感覚で諸事を知覚しているのであり、差異として物事を知覚していないのである。だから、今日の出鱈目の音楽が日本では作られているのである。つまり、芸術が同一性化されて、死滅したのである。(文学も同じである。村上春樹の文学は、同一性に支配された文学と言えよう。)
 言い換えると、闇の感覚知覚に現代日本人は陥っているのである。光の感覚知覚を抑圧して、喪失しているのである。
 言い換えると、同一性機械の人間になっているのである。同一性ロボットである。つまり、個として生きていないのである。同一性物質機械として生きているのである。亡魂亡霊の日本人である。死せる日本人である。この世があの世なのである。死者としての日本人である。魂抜け、脱魂状態なのである。(三島由紀夫が「文化防衛論」で述べている断絃の時が戦後起きたのである。)
 とまれ、差異を取り戻す必要があるのである。それは、光の復活である。太陽の復活である。日の復活である。そして、「日国」の復活である。
 また、身体において、他者を取り戻さないといけない。身体的他者、内的身体的他者である。それは、-iである。
 -iを積極的に肯定することにより、同一性主体(-1)化された+i(本来、差異的主体)が脱構築されて、即非化・差異共振化が復活するのである。
 それにより、差異的主体+iは差異的他者-iと即非・共振して、光(⇒+1)を再発見するのである。
 以上で本件は解明されたとする。
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