2005年12月11日 (01:14)
メディア界を現象界に変換する力とは何か:差異・ゼロ度を差異・無に変換する「無」の力とは何か
これまで、イデア・メディア境界ないしメディア界の問題に集中してきたが、本件の問題も重要であるので、検討したい。もっとも、ずいぶん以前に、つまり、不連続的差異論が誕生してから、メディア界から現象界への転化については、それなりに考えた。この理論もそれ以降ずいぶん深化してきたので、ここで、再検討するのは、理論にとって必要な、大事なことである。というか、有り体に言えば、この点の解明がまだ不十分ということである。
メディア・現象境界(MP境界)において、何が起っているのだろう。ここは、カントの超越論的形式の構造である。また、言語意識が発生する領域である。この変換・転換の力学はどういうものだろうか。これまでの考えから言えば、連続・同一性の構造・形式がここにはあるのである。メディア界の差異・ゼロ度とは、ゆらぎの構造であるが、現象界の差異・無とは、ゆらぎの喪失した世界である。だから、ゼロから無への転換が、メディア・現象境界にあると言えよう。これは、差異φ差異から差異無差異への転換である。この境界で何が起っているのだろうか。ゆらぎを否定する力がここにははたらいているはずである。それは、近代主義に通じる力である。ということは、ユダヤ・キリスト教に通ずる力ということになる。つまり、一(いつ)の力である。これは、直観では、言語と関係するのである。たとえば、ある個体を、小皿と名付ける。これが言語世界のことである。しかし、小皿と名付けられた個体には、多様な要素を内包している。そこには、円があり、模様があり、また、それを、灰皿として使用することができるのである。そして、落とせば、もはや、小皿ではなくなるのである。このように多様な性質をもった個体を小皿として名付けることは、ある意味で、矛盾なのである。つまり、個と一般性とは矛盾するのである。あるいは、不等価である。
しかしながら、このような暴力的一般化がなされるのが、現象化であろう。目にするブルーの空とは、実は、特異性であるにもかかわらず、ブルーと一般化されるのである。私が今見ている冬のブルーの空は、特異なブルーであるが、それをブルーと一般化する。これが、現象界のあり方である。ここに、途轍もない矛盾があるのである。特異性を一般化するという暴力があるのである。結局、メディア・現象境界には、「一神教」・一元論的暴力構造があると言えよう。
つまり、イデア・メディア界的あり方を否定して、一元化する力がここにはあるのである。これを、不連続的差異論から、どう力学化できるだろうか。少なくとも、想像力・メディア界を否定・排除する力がここにははたらいている。つまり、連続・同一性化する力である。メディア界の力とは、連続化というよりは、連結する力と言えるだろう。では、連結から連続へと変換する力とは何か。それは、二元論的に裁断する力でもあるだろう。ここで、父権神話を考えていいだろう。それは、母権神話を否定するものである。女神を怪物として、破壊して、二元論・2項対立をもたらすものである(バビロニア神話)。つまり、ここには、想像力を否定した抽象的観念があるだろう。抽象観念が想像力を凌駕するのである。この抽象観念が、カントの超越論的形式に相当しよう。つまり、連続・同一性化する力とは、抽象観念力である。そして、これが、当然、言語力である。【ラカンが、象徴界と言ったものは、このことである。彼の父の名というのは、抽象観念力をもたらす音声言語であろう。つまり、シニフィアン(意味するもの)である。そして、ここで、ラカンとデリダが結ぶのである。父の名(原シニフィアン)とは、ロゴス・音声中心主義のロゴス・音声であろう。《もっとも、このロゴスは、本来のロゴスではない。言語と見なくならない。つまり、ロゴス・音声中心主義とは、言語・音声中心主義と見なくてはならない。》このロゴス・音声が、メディア・現象境界にはたらいているものである。これが、現象界を発現する契機である。だから、ラカン・デリダは正しいのである。このロゴス・音声中心主義、つまり、正しくは、言語・音声中心主義が、現象界の契機である。これが、メディア・現象境界、MP境界の構造である。
では、この言語・音声中心主義をもたらす力とは何かである。ここで、かなり飛躍的に作業仮説しよう。想像力において、形相を捉えるとしよう。しかし、形相とは何かという問題もある。これは、メディア界の形象と見ていいだろう。ゆらぐ形象、位相形象と見ていいだろう。これは、イデアの一つである。これを、言語・音声で把捉すると考えよう。つまり、メディア界的形象、即ち、形相を言語・音声で把捉することで、現象界が発生するのではないだろうか。思うに、象形文字の方が、メディア界的形象、形相に忠実なのである。しかし、言語・音声化によって、メディア界から現象界への転換が起ったと言えるのではないだろうか。
ならば、どうして、言語・音声が必要となるのだろうか。どうして、象形文字だけではいけないのだろうか。音声とは何かである。思うに、ここで、ニーチェのディオニュソスの意味があるのではないだろうか。音声によって、メディア界が共通化されるのではないだろうか。メディア界的形象、形相は、個々のものであり、いわば、社会化されていない。しかし、音声化されることで、共有化されると言えよう。つまり、音声は、メディア界的「カオスモス」を喚起すると言えよう。これによって、個々が連続化されると言えよう。つまり、音声とは、ディオニュソスであり、連続・同一性化するのである。一体感である。つまり、メディア界の一体感を、音声において、固定すると言えるのではないだろうか。
ということで、結局、メディア・現象境界の無の力とは、音声の力であるということになった。ラカン・デリダは正しいのである。原シニフィアン・「ロゴス」・音声が、メディア・現象境界の構造なのである。
ならば、構造主義やポスト構造主義の問題もこれで、より明快になるだろう。構造を作っているのは、言語・音声である。これは、不可避的に、二元論、2項対立となる。つまり、ある音声は、他の音声を排除するからである。これが、また、ソシュールの構造言語学の意味でもある。そして、ラカンは、象徴界から、現実界への回帰を説いた。しかし、これは、実は、イデア界への回帰である。現実界という考えは、あまりに心理学(精神分析)的であり、「現実」的ではない。なぜなら、イデア界への回帰とは、正に、真実在的に、現象界への回帰であるからである。空即是色である。禅である。還相である。事事無碍である。イデア界即現象界である。また、デリダであるが、「ロゴス」・音声中心主義を批判し、脱構築主義と説くことで、現象界中心主義を批判して、メディア界性を説いたのであり、また、イデア界を示唆してしたのである。
結局、構造主義、ポスト構造主義は、現象界主義である西洋の言語・音声中心主義を問題としていたと言えよう。そして、ポスト構造主義の不備から、問題点が不明確になり、忘却されてしまったが、不連続的差異論の創造によって、明確になり、ポスト構造主義、ポスト・モダニズムの問題を真に解明したと言えるのである。不滅の不連続的差異論である。かつては、最勝超至高不連続的差異論と情熱的に呼んだのであるが。でも、それは、どうやら、本当である。
メディア・現象境界(MP境界)において、何が起っているのだろう。ここは、カントの超越論的形式の構造である。また、言語意識が発生する領域である。この変換・転換の力学はどういうものだろうか。これまでの考えから言えば、連続・同一性の構造・形式がここにはあるのである。メディア界の差異・ゼロ度とは、ゆらぎの構造であるが、現象界の差異・無とは、ゆらぎの喪失した世界である。だから、ゼロから無への転換が、メディア・現象境界にあると言えよう。これは、差異φ差異から差異無差異への転換である。この境界で何が起っているのだろうか。ゆらぎを否定する力がここにははたらいているはずである。それは、近代主義に通じる力である。ということは、ユダヤ・キリスト教に通ずる力ということになる。つまり、一(いつ)の力である。これは、直観では、言語と関係するのである。たとえば、ある個体を、小皿と名付ける。これが言語世界のことである。しかし、小皿と名付けられた個体には、多様な要素を内包している。そこには、円があり、模様があり、また、それを、灰皿として使用することができるのである。そして、落とせば、もはや、小皿ではなくなるのである。このように多様な性質をもった個体を小皿として名付けることは、ある意味で、矛盾なのである。つまり、個と一般性とは矛盾するのである。あるいは、不等価である。
しかしながら、このような暴力的一般化がなされるのが、現象化であろう。目にするブルーの空とは、実は、特異性であるにもかかわらず、ブルーと一般化されるのである。私が今見ている冬のブルーの空は、特異なブルーであるが、それをブルーと一般化する。これが、現象界のあり方である。ここに、途轍もない矛盾があるのである。特異性を一般化するという暴力があるのである。結局、メディア・現象境界には、「一神教」・一元論的暴力構造があると言えよう。
つまり、イデア・メディア界的あり方を否定して、一元化する力がここにはあるのである。これを、不連続的差異論から、どう力学化できるだろうか。少なくとも、想像力・メディア界を否定・排除する力がここにははたらいている。つまり、連続・同一性化する力である。メディア界の力とは、連続化というよりは、連結する力と言えるだろう。では、連結から連続へと変換する力とは何か。それは、二元論的に裁断する力でもあるだろう。ここで、父権神話を考えていいだろう。それは、母権神話を否定するものである。女神を怪物として、破壊して、二元論・2項対立をもたらすものである(バビロニア神話)。つまり、ここには、想像力を否定した抽象的観念があるだろう。抽象観念が想像力を凌駕するのである。この抽象観念が、カントの超越論的形式に相当しよう。つまり、連続・同一性化する力とは、抽象観念力である。そして、これが、当然、言語力である。【ラカンが、象徴界と言ったものは、このことである。彼の父の名というのは、抽象観念力をもたらす音声言語であろう。つまり、シニフィアン(意味するもの)である。そして、ここで、ラカンとデリダが結ぶのである。父の名(原シニフィアン)とは、ロゴス・音声中心主義のロゴス・音声であろう。《もっとも、このロゴスは、本来のロゴスではない。言語と見なくならない。つまり、ロゴス・音声中心主義とは、言語・音声中心主義と見なくてはならない。》このロゴス・音声が、メディア・現象境界にはたらいているものである。これが、現象界を発現する契機である。だから、ラカン・デリダは正しいのである。このロゴス・音声中心主義、つまり、正しくは、言語・音声中心主義が、現象界の契機である。これが、メディア・現象境界、MP境界の構造である。
では、この言語・音声中心主義をもたらす力とは何かである。ここで、かなり飛躍的に作業仮説しよう。想像力において、形相を捉えるとしよう。しかし、形相とは何かという問題もある。これは、メディア界の形象と見ていいだろう。ゆらぐ形象、位相形象と見ていいだろう。これは、イデアの一つである。これを、言語・音声で把捉すると考えよう。つまり、メディア界的形象、即ち、形相を言語・音声で把捉することで、現象界が発生するのではないだろうか。思うに、象形文字の方が、メディア界的形象、形相に忠実なのである。しかし、言語・音声化によって、メディア界から現象界への転換が起ったと言えるのではないだろうか。
ならば、どうして、言語・音声が必要となるのだろうか。どうして、象形文字だけではいけないのだろうか。音声とは何かである。思うに、ここで、ニーチェのディオニュソスの意味があるのではないだろうか。音声によって、メディア界が共通化されるのではないだろうか。メディア界的形象、形相は、個々のものであり、いわば、社会化されていない。しかし、音声化されることで、共有化されると言えよう。つまり、音声は、メディア界的「カオスモス」を喚起すると言えよう。これによって、個々が連続化されると言えよう。つまり、音声とは、ディオニュソスであり、連続・同一性化するのである。一体感である。つまり、メディア界の一体感を、音声において、固定すると言えるのではないだろうか。
ということで、結局、メディア・現象境界の無の力とは、音声の力であるということになった。ラカン・デリダは正しいのである。原シニフィアン・「ロゴス」・音声が、メディア・現象境界の構造なのである。
ならば、構造主義やポスト構造主義の問題もこれで、より明快になるだろう。構造を作っているのは、言語・音声である。これは、不可避的に、二元論、2項対立となる。つまり、ある音声は、他の音声を排除するからである。これが、また、ソシュールの構造言語学の意味でもある。そして、ラカンは、象徴界から、現実界への回帰を説いた。しかし、これは、実は、イデア界への回帰である。現実界という考えは、あまりに心理学(精神分析)的であり、「現実」的ではない。なぜなら、イデア界への回帰とは、正に、真実在的に、現象界への回帰であるからである。空即是色である。禅である。還相である。事事無碍である。イデア界即現象界である。また、デリダであるが、「ロゴス」・音声中心主義を批判し、脱構築主義と説くことで、現象界中心主義を批判して、メディア界性を説いたのであり、また、イデア界を示唆してしたのである。
結局、構造主義、ポスト構造主義は、現象界主義である西洋の言語・音声中心主義を問題としていたと言えよう。そして、ポスト構造主義の不備から、問題点が不明確になり、忘却されてしまったが、不連続的差異論の創造によって、明確になり、ポスト構造主義、ポスト・モダニズムの問題を真に解明したと言えるのである。不滅の不連続的差異論である。かつては、最勝超至高不連続的差異論と情熱的に呼んだのであるが。でも、それは、どうやら、本当である。

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