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2009年12月06日 (13:50)

検討問題:言語的同一性的知覚又は自我的知覚(-1)と光(+1)の重ね合わせ:積-1と和0の生起

最近は忙殺されているので、考察に回す時間がないが、若者のコミュニケーションの発話から、本件が浮かんだ。
 ⇒-1は、言語的同一性フレーム(愚樵氏の言う知的フレームに相当する)と仮説する。これに対して、光現象(⇒+1)がある。
 両者を重ね合わせるときは、先に述べたように、積になるのではないだろうか。
 思うに、精神的フィルターで、積と商が同時に起きるとき、それらも、積になるのではないのか。和ではなくて。
 もっとも、⇒-1(以下、便宜的に-1とする)と⇒+1(以下、+1)は、重ね合わさっているのであり、本当は一致していないのである。これをどう数式的に評価するのかが問題である。
 つまり、-1=+1ではないのであり、両者がいわば、張り付いている状態である。これは、-1*(+1)と表わしていいのだろうか。それとも、(-1)・(+1)だろうか。あるいは、(-1)⇒(+1)だろうか。一種、極限値的な様態である。
 心理的には投影である。-1を+1に投影しているのである。言い換えると、これまで何度も述べた連続的同一性志向性(連続的同一性投影とも呼べよう)である。
 これは、また鏡像的である。思うに、本来、鏡像とは、光現象であるが、それに同一性を投影しているのである。プラトンの洞窟の比喩で言えば、洞窟のスクリーンが投影される同一性(-1)である。本来の光は見るものの背後にあるのである。
 しかしながら、ここでは、正面に光現象があるのに、それに同一性ないしはその影を投影しているのである。
 だから、同一性が抑圧しているものを他者に投影するのであり、例えば、自我の邪悪さを他者に投影するということになるのである。内的他者を否定するのは、邪悪的であるが、その邪悪さを他者に投影するのである。
 本題に戻ると、この重ね合わせ、同一性の投影、連続的同一性志向性とは、確かに、極限値的であり、即ち、-1⇒+1である。思うに、これは、ゼロ化と言えないだろうか。確かに、積の-1以外に、ゼロ化がここでは起きているのではないのか。つまり、差異のゼロ化である。+1という他者がここでは、ゼロ化されるのである。そうすると、和である。
 まとめると、積の-1と和の0がここで生起しているのではないのか。それは、他者・差異をゼロ(無)とする同一性主義ということではないだろうか。
 後でさらに検討したい。
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