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2009年12月24日 (14:49)

検討課題:フォルムと同一性:ディオニュソスとアポロ:差異と同一性

先に、視覚と同一性の連関に関して検討したが、特に、視覚だけが同一性に関係するのではなく、言語が同一性に関係すると述べた。
 しかしながら、現象界における物のフォルム、つまり、輪郭を見ると、それが、同一性の単位ではないのかと思った。
 例えば、車がある。車のフォルムがある。そのフォルムと車という同一性が結びつくのではないのか。
 即非現象の場合、「車」はフォルムをもつものの、他者、絶対的他者、絶対的差異となるのである。その時のフォルムは確かにフォルムとしてあるが、もはや、「車」のフォルムではない。
 とまれ、視覚現象において、物や人のフォルムがあり、それが、物と人の同一性を形成するのではないのか。
 鏡像の場合、そのフォルムによって、「わたし」の同一性が形成されるだろう。
 思うに、⇒+1の+1はフォルムも意味すると考えられよう。つまり、形態である。これは、アリストテレスの形相(エイドス)と関係しよう。(また、ニーチェが問題とした感覚の問題がここにあると言えよう。因みに、イデアはMedia Point[⇒]に存すると言えるが、形相は思うに、⇒の先端にあり、その結果がフォルムであろう。)
 つまり、形相(エイドス)⇒フォルム(形態、輪郭)ということになる。
 結局、同一性認識とは、エイドス⇒フォルムに拠るのではないだろうか。そして、これは、固定したものであり、二項対立的になるだろう。つまり、フォルムは物の同一性を決める根拠であり、ここにおいて、他者と背反の関係になるのである。例えば、「花」のフォルムがあり、それは、「石」のフォルムとは絶対的に異なり、両者は区別されるのであり、一如となることはありえない。「花」は「花」であり、「石」は「石」である。
 このフォルム的同一性が、物質の根拠となるのではないだろうか。本来、物とは、即非現象であり、物質ではないのである。
 結局、フォルム的同一性という視覚が、支配的になり、超越性を喪失させると考えられる。イタリア・ルネサンスにおいて、遠近法が発達するが、これは、正に、フォルム的同一性を構築するものではないだろうか。そして、デカルト哲学によって、近代合理主義が生まれてくるのである。(もっとも、デカルト哲学は Media Pointをもつが。)
 結局、フォルム的視覚が同一性主義、物質主義の根拠になると考えられる。言語も同一性主義の根拠の一つではあるが、フォルム的視覚の方が、言語よりも、主導的であると考えられる。
 そう、端的に、言語には、内面性を志向する側面があるからである。
 
追記:ニーチェの「アポロ」は、二面性をもっていると考えられる。一つは、⇒+1としての「アポロ」(光)であり、一つは、以上のフォルム的同一性としての「アポロ」である。
 そして、これは、ある意味で当然ながら古代ギリシアの二面性に通じよう。つまり、古代ギリシアはディオニュソス的な差異共振性をもっていると同時に、フォルム的同一性の「アポロ」をもっていたのである。つまり、差異と同一性の大矛盾が古代ギリシアに存したのである。これは、プラトンとアリストテレスの対立に見ることができよう。
 注意すべきは、差異共振・即非現象としてのアポロ、⇒+1である。これは、超越性の背景があると言えよう。しかし、同一性のアポロは+1で、もはや、超越性は消えている。
 思うに、ヘルダーリンやシェリングは超越性を志向したのであり、ヘーゲルとは対峙する。
 また、ディオニュソスであるが、それは、Media Pointと見るべきであろう。私はプラトンとニーチェは意外に似ていると言ったが、それは、ここから説明できる。つまり、両者ともに、Media Pointにおいて、超越性を説いていたのである。
 ところで、ニーチェの説いた「大地」とは何だろうか。地上性は何だろうか。後で検討したい。


参考:
形相
提供: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: ナビゲーション , 検索

形相(けいそう ギリシャ語 エイドス)とは、哲学用語で質料 に対置して使われる用語。日本語としては、「ぎょうそう」とも読めるが、哲学用語として使う時には「けいそう」と読む。
アリストテレス哲学における「形相」 [編集 ]

「質料」(ヒュレー)と「形相」(エイドス)を対置して、内容、素材とそれを用いてつくられたかたちという対の概念として初めて用いた人は、古代ギリシアの哲学者アリストテレス である。彼の『形而上学 』の中にこういう概念枠組みが登場する。

プラトンが観念実在論を採り、あるものをそのものたらしめ、そのものとしての性質を付与するイデアを、そのものから独立して存在する実体として考えたのに対し、アリストテレスは、あるものにそのものの持つ性質を与える形相(エイドス)は、そのもののマテリアルな素材である質料(ヒュレー)と分離不可能で内在的なものであると考えた。

プラトンは元来イデアを意味するのにエイドスという言葉も使っていたのだが、アリストテレスが師の概念と区別してこの言葉を定義した。

大雑把に言えばプラトンのイデアは判子のようなものであるが、アリストテレスのエイドスは押された刻印のようなものである。イデアは個物から独立して離在するが、エイドスは具体的な個物において、しかもつねに質料とセットになったかたちでしか実在し得ない。

エイドスが素材と結びついて現実化した個物をアリストテレスは現実態(エネルゲイヤ)と呼び、現実態を生み出す潜在的な可能性を可能態(デュナミス )と呼んだ。今ある現実態は、未来の現実態をうみだす可能態となっている。このように、万物はたがいの他の可能態となり、手段となりながら、ひとつのまとまった秩序をつくる。

アリストテレスはまた、「魂とは可能的に生命をもつ自然物体(肉体)の形相であらねばならぬ」と語る。ここで肉体は質料にあたり、魂は形相にあたる。なにものかでありうる質料は、形相による制約を受けてそのものとなる。いかなる存在も形相のほかに質料をもつ点、存在は半面においては生成でもある。

質料そのもの(第一質料)はなにものでもありうる(純粋可能態)。これに対し形相そのもの(第一形相)はまさにあるもの(純粋現実態)である。この不動の動者(「最高善」=プラトンのイデア)においてのみ、生成は停止する。

すなわち、万物はたがいの他の可能態となり、手段となるが、その究極に、けっして他のものの手段となることはない、目的そのものとしての「最高善」がある。この最高善を見いだすことこそ人生の最高の価値である、としたのである。
関連項目 [編集 ]

* 質料
* デュナミス
* イデア論

執筆の途中です この「形相」は、哲学 に関連した書きかけ項目 です。この記事を加筆・訂正 して下さる協力者を求めています 。(Portal:哲学 )
「http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BD%A2%E7%9B%B8 」より作成
カテゴリ : 哲学の概念 | 形而上学

第一章 宇宙(世界)と人間
2.(2) 理想世界の追求-現実の分析からの世界。

アリストテレスが世界を考える場合、彼はプラトンの弟子として、当然、プラトンのイデア論を引き継いでいます。彼もまた、理想世界を追う点では、プラトンに劣らぬものがありました。

ただ、彼はプラトンに比べると現実主義的でした。プラトンが現実の世界をイデアの影のようだと見なしたことには、納得がいかなかったのです。

彼にとっての世界は、自分が現実に存在する世界以外の何ものでもありませんでした。彼は、現実を見つめ、現実を分析し、さらにこれを統合しようとしました。

そこには、プラトンのようにイデアの世界に住むことができないアリストテレスの厳しい現実があったのかもしれません。人が運命に翻弄されるように生きなければならないとき、人はその現実の厳しさを見つめなければならないからです。

ともあれ、彼は、現実に存在しているものを見つめ、これを、プラトンの用語法にならって、しかも、プラトンとは異なった考えであることを示すために、「形相(イデア=物事の本質)」と「質料(ものごとを形作っている材料)」に分けて考えました。

ものが存在しているのは、「形相」が「質料」をとって、それが一つになって形を取っているからであると考えたのです。

物事のイデアはある。しかし、プラトンが主張したようにイデア=形相は、どこか他のところにあるのではなく、存在している物事のその中にある、というのです。

哲学用語を塚っていえば、形相=イデアは、超越しているのではなく、内在しているということになります。

「本当のこと」はわたしの外にあるのではなく、わたしの内にある、といってもいいかもしれません。

感覚できる現実の世界は、形相と質料が一つになった世界であり、形相は、その世界のそれぞれの事物の中にあり、質料は、デモクリトスらの原子論者の言う「原子」でもあります。

たとえば「木」を考えてみましょう。アリストテレスは、現実に存在している「木」は、そのどれをとっても「木」であるとうい「木」の形相=イデアを備えています。「木」をみれば、どこでも「木」の特徴である「木の形相」を見出すことができます。だから私たちは、そこにあるのが、「木」であると知ることとそれを分類することができます。

そして、私たちが見ているのは、「ある特定の木」です。それは「木の形相」が、特定の質料を取るから、「特定の木」になって、現実に存在している、というのです。

この木は、やがて木の板になり、家具になります。ここでは、木は質料となり、家具は、その木が現実のもので現したい「形相」になります。

「形相」は、どこまでいっても変化はしませんが、それが質料を取ることによって、様々な特定のものに変わり、さらに、現実に存在する木は、新しい家具の質料となって、「家具の形相」を現すものになります。

良く例に出される彫刻家の例では、たとえば、プラトンの場合は、イデアをもつ彫刻家は大理石とは別に存在し、独立して自由でした。彼は自分のイデアに従って大理石を彫ります。

アリストテレスの場合は、彫刻家と大理石は一つです。彼が彫ろうとする石像のイデアは、実は大理石の中にあり、彼はそのイデアに従って、のみをふるうだけです。

石をじっと見つめていると、そこに彫るべき像が見えてくる。こういう、いわば石と一体になった名人の姿、これが世界であるというわけです。

分かり易くするために、後世で問題になったことを引き出して、たとえば、「真理」とか「神」とかについて言ってみましょう。

プラトンは、「真理」は世界の「外」にあると考え、アリストテレスは、「真理」は世界の内にある、と考えたと言えます。あるいは、プラトンは、「神」は、あらゆるものを越えて、「外」にあるものだが、アリストテレスは、「神」は、あらゆる事物の中にある、と言ったとも言えるでしょう。

この両者の違いは、生き方においても決定的に違ってきます。プラトン的な生き方は、常に外なるものに向かって求めていきますし、アリストテレス的生き方は内なるものに向かい、現実に存在しているものに向かいます。

ともあれ、アリストテレスは、この質量から形相、そしてその形相が作るものによる新しい形相へと運動が無限に繋がり、いろいろと違ったものができる、と考えたのです。

そして、質料は常に新しい形相になろうとして運動するし、この運動によって宇宙のすべてが説明できると考えました。

この「世界を運動によって理解する」こと、これがアリストテレスが、これまでのギリシャ思想を統合して新しく提示したことでした。

これについては、次回触れることにしましょう。今回はこれまでです。
http://homepage.mac.com/berdyaev/mm/prmnd/utyu/prmnd15.html

「思想の世界」Vol.2 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆No.15 _____ 2001.1.10
西洋思想の散歩道(第 15 回配信) -A Promenade of Western Thought- K. Wiseman, O. Mai 著
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