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2010年03月15日 (19:15)

現代の人間の意識の異常性の原因は精神性の喪失である:精神に倫理・道徳・「理性」があるのである

近代合理主義=唯物論が人々の意識に浸透して、精神性を排除したのである。その結果、「狂気」が日常的意識になっているのである。
 精神的認識によって、正常な対他認識をともなう自己認識、さらには、妥当な現実認識ができるのである。


参考:

以下には、仏教の八正道がベースになって科学的なないしは哲学科学的な精神陶冶・涵養実践方法が説かれている。
 端的に言えば、西洋人向けの瞑想の奨めであるが、瞑想の行をしなくても、読むだけでも、啓蒙的である。
 私はそれにD. H. ロレンスの『無意識の幻想曲』の読書を奨めたい。これは、東洋的身体意識論であるし、PS理論の即非的極性論に通じる内容をもっているのである。

『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか 』
(ちくま学芸文庫) (文庫)
ルドルフ シュタイナー (著), Rudolf Steiner (原著), 高橋 巌 (翻訳)

八正道(はっしょうどう、aaryaaSTaaGgo-maargo、आर्याष्टाङ्गो मार्गो)は、釈迦が最初の説法において説いたとされる、涅槃に至る修行の基本となる、正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念および正定の、 8種の徳。「八聖道」とも「八支正道」とも言うが、倶舎論 では「八聖道支」としている。この 「道」が偏蛇を離れているので正道といい、聖者の「道」であるから聖道(aaryaamaarga)と言う。
概略 [編集 ]

八正道は四諦 の中の道諦として説かれるから、教学的には四諦の教え以外に八正道が別にあるわけではない。四諦といえば、そこに道諦として八正道があるのだから別に、古来いわれるように四諦八正道と併称する必要はないが、このような総括がインドの様式のようである。

古い『相応部 経典』では、釈迦は、その最初の説法(初転法輪 )で、まず非苦非楽の中道 を説き、それを八正道であるといい、さらに四諦を説いたといわれる。四諦を説いて、その道諦として八正道を説いたのでなく、中道とは八正道であることを説いて、ついで四諦を説いたのである。このことは、四諦という教義的組織は、八正道を中道と説く立場の教義的な裏づけであることを示している。釈迦の説法は、直接に人間の実践を主としており、教理は実践を体系付け裏付けるものである。われわれの仏教の理解も、書物による知識ではなく常に現実における実践を中心としなくてはならない。
正見 [編集 ]

「正しく眼の無常を観察すべし。かくの如く観ずるをば是を正見と名く。正しく観ずるが故に厭を生じ、厭を生ずるが故に喜を離れ、貪を離る。喜と貪とを離るるが故に、我は心が正しく解脱すと説くなり」といわれる。われわれが身心のいっさいについて無常の事実を知り、自分の心身を厭う思を起こし、心身のうえに起こす喜や貪の心を価値のないものと斥けることが「正見」(samyag-dRSTi, sammaa-diTTi)である。このように現実を厭うことが正見であるなら、人間の日常性を否定する消極的なもののように思われる。しかし、その日常性の否定は、真実を積極的に追求することから生まれるから、かえって真実の認識の完成である。この意味で「心解脱」といわれ、正見が「四諦の智」といわれる。

この正見は、以下の七種の正道によって実現される。その点で、八正道は、すべて正見である「智慧」の活動してゆく相である。 八正道は全て正見に納まる。
正思惟 [編集 ]

正思惟(samyak-saMkalpa, sammaa-saGkalpa)とは、出家を思惟し無瞋を思惟し、無害を思惟することである。このうち「出家を思惟する」とはパーリの原文では「ネッカンマ・サンカッパ」(nekkhamma saMkappa)であって、「nekkhamma」とは「否認」「否定」の意味だから、日常的なもののいっさいの否定をいう。財欲、色欲、飲食欲、名誉欲、睡眠欲等の「五欲」にまつわる、人間の日常生活の否定であり、それを思惟することが正思惟である。

この五欲の心の否定は、具体的には無瞋の思惟、無害の思惟である。いわば瞋恚の心や害心のすがたを、ありのままの姿で思惟し、これを捨てることを思惟するのである。自己本位にふるまう人間の行動や、独善的な人間の行為を、思惟によって明らかにして、これを否定するのである。

このように正思惟とは、自我的立場を否定して、無我こそ自己の真実であると見きわめることである。この立場の転換に人間生存の転換がなされる。しかし、それが「正思惟」である限り、このような生の転換も観念的である。そこで、次の「正語」と「正業」が説かれ、正思惟の中に示される行動への意志が実行されるのである。
正語 [編集 ]

正語(samyag-vaac, sammaa-vaacaa)とは、妄語を離れ、綺語を離れ、両舌を離れ、悪口を離れることである。
正業 [編集 ]

正業(samyak-kalmaanta, sammaa-kammanta)とは、殺生を離れ、不与取を離れ、愛欲を離れ、愛欲における邪行より離れることをいう。 この二つは正思惟されたものの実践である。妄語・綺語・悪口・両舌を離れること、これは人格の破壊を斥けるものであり、殺生・偸盗・邪婬を離れることは人間人格の尊重である。
正命 [編集 ]

正命(samyag-aajiiva, sammaa-aajiiva)

「邪命を捨てて、正命によって命を営む」とか「如法に衣服、飲食、臥具、湯薬を求めて不如法に非ず」といわれるのは、如法な生活それが正命であることをあらわす。これは、まちがった生活を捨てて正しい生活を営むことであり、常に無明を滅する方向に動いてゆく生活である。したがって、それは人間の日常性に根差している価値を追求する生活を否定するものである。この点、「正命」はこのようにすべき生活として求められつつあるものである。
正精進 [編集 ]

この「正命」の生活は、ひたすらな努力の中にのみ得られる。このひたむきな努力の生活、それが「正精進」(samyag-vyaayaama, sammaa-vaayaama)である。「未生の悪、不善法の不生のために欲を生じ、勤め精進し、心を摂し努力する」「常に行じて退せざるを正精進という」というのは、これをいう。これが、やがて四正勤 (ししょうごん)として、すでに起こった悪不善を断ずる努力、未来に起こる悪不善を生こらないようにする努力、過去の善法の増長への努力として説かれるようになった。
正念 [編集 ]

このような「正精進」に示される現前の事実的価値追求への否定の努力は、主として過去の集約として与えられた、身体的なものに対する否定である。このような立場から「身にありて身を観察して住し、熱心にして正しく理解し、精神を集中し、明瞭な心と精神集中と、専一なる心とをもって、如実に身体を知る」と説かれるのが「正念」(samyak-smrTi, sammaa-sati)である。

現にあるものとしてでなく、あるべきものとしての「正命」が実現されるのは、身体における日常的なものが克服されることによってである。それが「身の観察であり、精神を集中して如実に知る」ことである限り、真に身体的なものの克服とはなりえないで、やはりイデア的であることを免れない。これを身体的なものとして、生活自身において克服するものそれが「正定」である。
正定 [編集 ]

「心は不乱に住し、堅固摂持し、三昧一心に寂止す」と説かれる。これは心身一致の禅定 において正しい智慧を完成することである。この「正定」(samyak-samaadhi, sammaa-samaadhi)によってはじめて、「正見」が得られるのである。

このようにして、八正道は八聖道として人間完成への道となる。これを人間の実践として、中道であると説くのである。以上の八正道の「正見」こそ真実の智慧の実践であり、それを実現してゆく具体的な道が「正思惟」以下の七支であるから、この八正道は、次のような形で人間の実践道となる。
関連項目 [編集 ]

* 中道

「http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E6%AD%A3%E9%81%93 」より作成
カテゴリ : 原始仏教 | 名数8
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