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2010年06月15日 (19:53)

思考実験:media-pointにおける二つ、又は三つの「闇」

テーマ:検討問題:思考実験・仮説・試論・備忘録

-1→Media Point⇒+1

とするならば、Media Pointにおいて、少なくとも二種類の「闇」が生ずるだろう。
 一つは、根源・起源・本源のマイナス1の「闇」であり、もう一つは、不可視光(超越光)の「闇」である。(Kaisetsu氏の凹iの「闇」を加えれば、三つの「闇」となろう。)
 問題は、私が直感するマイナス1の大地/身体の霊性であるが、その直感は凹iの「闇」ないしは超越光の「闇」を感知しているのではないのかという疑問がある。
 思うに、その直感は確かに、超越光に関係していようが、それを超えた(超越した)「もの」ないしは「存在」を察知していると思えるのである。それが、マイナス1ということになるのである。【私の経験の、真夏の砂浜の頭上で見た太陽の「闇」、暗みであるが、それは、凹iの可能性がある。何故なら、それは、実体があるというより、影像であるからである。ここで、文学作品、ファンタジー作品『ピーター・パン(ピーターとウェンディ)』のネバーランドNeverlandであるが、それは、マイナス1の可能性があると思う。】
 もし、そうならば、Media Pointの「感覚」、直感において、それらの「闇」を混同する恐れがあり、結局、混同されてきたと考えられる。
 例えば、キリスト教の「神の国」であるが、それは、マイナス1と超越光が混同されているのではないだろうか。そう、キリスト教は「母」=マイナス1と「父」=凸i(ないしは超越光)を混同しているのである。というか、「母」=マイナス1を意識から排除して、民衆の「母」=マイナス1のヴィジョン・イメージを利用して、それに「父」=凸iをかぶせているように思えるのである。(「子」とは、⇒の光であり、それは、超越光に拠るのである。しかしながら、超越光とは、共振的エネルギーであるが、キリスト教は凸iの傾斜である「父」が光もいわば簒奪しているのである。ついでに、「聖霊」について言うと、それは、直感では、マイナス1のエネルギー、即ち、ダーク・エネルギーである。あるいは、「母」の霊性のエネルギーである。しかしながら、キリスト教は三位一体のドグマによって、「聖霊」の「母」性=マイナス1を否定していると考えられる。もっとも、「子」も本来、「母」の「子」であるが、それを「父」の「子」とねじ曲げていると考えられるのである。)
 仏教の仏国土や浄土であるが、これも混同があると思う。これは、やはり、本来、「母」=マイナス1と考えられる。折口信夫の常世であるが、これも「母」=マイナス1であろう。折口信夫は天才的に「妣が国」と述べている。
 そう、ここで、宗教の問題性に触れると、問題は、マイナス1や超越光を感受しながらも、一般に人間は凸iに傾斜し、同一性と連続しているので、つまり、自我同一性に傾斜しているので、霊性や超越性が利己主義のために使われる危険が常にあるのであり、結局のところ、宗教はエゴイズム、権力に仕えてきたのである。
 ところで、-1→Media Point⇒+1の図式であるが、自己ないしは個を考えると、マイナス1においては、自己や個はないと思う。だから、別の起源を考えないといけない。
 それは、Media Pointの虚軸、虚界に存するのではないだろうか。つまり、+iと-iの「陰陽」が情報として「虚在」していて、ここに自己・個の情報があるのではないだろうか。
 この虚情報=自己・個情報が、マイナス1のダーク・マターと融合して、知的身体が産まれるのではないだろうか。マイナス1が卵ならば、虚情報は精子である。
 思うに、超越的学習であるが、それは、やはり、Media Pointで行われるのだろう。通常、目覚めた日昼においては、意識は⇒+1であり、+1に傾斜しているだろう。つまり、同一性・自我・物質の意識であり、睡眠時には、+1から離脱して(幽体離脱)、Media Pointへ反転して、超越的学習をするのだと思う。
 そうすると、人間の認識であるが、+iと-iの極性意識をもつが、通常日常は、⇒+1の現象的、物質的知覚に囚われているので、+iと-iの極性認識、 Media Point認識をもつことはないのである。夜、睡眠時において、⇒+1の現象認識から脱却して、Media Pointの超越的認識を行っていると思われる。私の場合、夢において、それが漠然と知覚されるようである。


追記:記すのを忘れていたが、media-pointには、差異共振(積:⇒+1)と同時に、差異共立(商:→-1)が生起しているのではないだろうか。
 これは微妙な問題なので、丁寧に考えよう。マイナス1からmedia pointが産まれるとするならば、そこには、+iと-iの即非・共振が生起して、発光し、現象が産まれる。
 しかしながら、牽引の場合、共振とするならば、斥力の場合、共立となると考えられる。それは、商である。つまり、(+i)÷(-i)→-1である。
 つまり、マイナス1の超越的世界は、現象界を産出すると同時に、再帰=回帰運動もしているということではないだろうか。この再帰・回帰運動が、例えば、植物が開花して、結実するというのは、この再帰・回帰運動に拠るのではないだろうか。そうすると、天はマイナス1の方位ではないのか。地はプラス1ではないのか。つまり、重力の方向である。後でさらに検討したい。
 
 
参考:
妣が国へ・常世へ
異郷意識の起伏
折口信夫



     一

われ/\の祖(オヤ)たちが、まだ、青雲のふる郷を夢みて居た昔から、此話ははじまる。而(しか)も、 とんぼう髷を頂に据ゑた祖父(ヂヾ)・曾祖父(ヒヂヾ)の代まで、萌えては朽ち、絶えては※(「((山/追のつくり)+辛)/子」、第4水準2-5-90)(ひこば)えして、思へば、長い年月を、民族の心の波の畦(ウネ)りに連れて、起伏して来た感情ではある。開化の光りは、わたつみの胸を、一挙にあさましい干潟とした。併(しか)し見よ。そこりに揺るゝなごりには、既に業(スデ)に、波の穂うつ明日(アス)の兆しを浮べて居るではないか。われ/\の考へは、竟(ツヒ)に我々の考へである。誠に、人やりならぬ我が心である。けれども、見ぬ世の祖々(オヤ/\)の考へを、今の見方に引き入れて調節すると言ふことは、其が譬ひ、よい事であるにしても、尠(すくな)くとも真実ではない。幾多の祖先精霊(シヤウリヤウ)をとまどひさせた明治の御代の伴(バン)大納言殿は、見飽きる程見て来た。せめて、心の世界だけでなりと、知らぬ間のとてつもない出世に、苔の下の長夜(チヤウヤ)の熟睡(ウマイ)を驚したくないものである。
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