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2010年07月11日 (09:16)

即非について再考:差異共立一如態としての「即非」:即非から即一非へ

即非はAが非Aであり、且つ、Aであるという論理である。
 先に問題にしたことは、前者のA即(非A)、又は、A即非Aである。http://ameblo.jp/renshi/entry-10587127583.html つまり、即の部分である。これは何か。
 直近においては、即非は差異共立一如態であると把握したので、即は、等号、イコールではなく、共立でなくてはならない。あるいは、並立である。造語して、双立である。
 しかしながら、即には、「~である」という同一性構造が残っているのではないだろうか。
 共立、並立、双立の場合には、それがなく、差異は差異のままであり、他者の差異と一如様態にある。
 例えば、「わたし」は非「わたし」であるというとき、「わたし」は非「わたし」へと同一性化しているのである。非「わたし」を他者とすれば、「わたし」は他者と同一性化しているのである。これは、凸iから凹iへの転化ではないのか。
 私が考える差異的志向性とは、「わたし」は他者を志向するが、他者と一致することはなく、やはり、「わたし」は「わたし」であるという発想である。
 しかし、「わたし」は非「わたし」であるという即非論は、基本的には、やはり、差異共立一如態を指していると見るのが妥当だと思う。つまり、即とは、一如態を意味すると見るべきだと考えるからである。
 鈴木大拙は、西洋の二元論的区別に対して、東洋の一元性(一体性)を説いているのであり、その一元性が一如性であると考えられる。
 だから、即という用語は語弊が実に大きいのである。混乱させるものである。
 故に、即は一如・一体・一(いつ)性を意味すると見なくてはならない。同一性ではないのである。そう、即と「~である」とは当然、異なると見るべきであるが、両者を混同している誤解があると言えよう。
 だから、色即是空の即もやはり、一如、一体ではないだろうか。つまり、色共立空である。これはわかりやすいのではないだろうか。とまれ、これは後で検討したい。
 ということで、私は即を即一に変更したいと思う。故に、即一非論である。A即一(非A)である。即ち、「わたし」即一「非わたし」である。だから、「わたし」は「川」であるではなくて、「わたし」は「川」と一如・一体であるが正しいのである。
 「~である」は、差異共振の一端である。MP2における差異共振作用において発生する連続性・同一性である。
 ところで、ドゥルーズの生成変化であるが、それは、やはり、差異共振作用における連続性・同一性であるが、それは、他者である凹iに傾斜していると言えよう。つまり、自我凸iの傾斜の反対であるが、それは、逆立ちした近代主義である。つまり、近代の鏡像に過ぎないのである。
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