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2010年08月01日 (02:46)

検討問題:Media Pointの力学に関して

1)差異共振と差異共立について:

先に、差異共立が差異共振に含まれていること、あるいは、差異共振の前提にあることを述べた。
 問題は、凸iと凹iとの関係である。凸i=凹iとなるのだろうか。例えば、凸iを「わたし」、凹iを「池」としよう。「わたし」は「池」であるというのは、あり得る知覚である。凸i「わたし」=凹i「池」である。もっとも、同時に、凸i「わたし」≠凹i「池」である。
 先に、「わたし」=「池」の等号は同一性であるとして、問題視した。この点について、熟考したい。
 いったい、差異1「わたし」は差異2「池」であり、且つ、「池」ではないというのは、前半において、差異1と差異2の同一性を述べているのだろうか。
 それは、端的に同一性である。そして、即、同一性ではないと否定するのである。つまり、同一性と非同一性との共立がそこにはあるのである。
 だから、 即非、ないし、差異共振には、同一性・即・非同一性という論理があると言える。
 それに対して、差異共立、あるいは、生成門氏の反共振においては、差異1「わたし」と差異「池」は、一如の様態になっていると考えられる。「わたし」は「池」と一(いつ)である。しかし、「わたし」は「わたし」であり、「池」は「池」である。
 以上のことは先の確認である。 
 

2)情感・感情について:

これは、性質上、論じにくいが、理論化する必要がある。とまれ、用語は情感/感情としておく。
 いったい、情感/感情とは何か。それは、主体と他者との関係様態の一つであろう。例えば、「わたし」が「海」を見て、その深い紺色に感銘を受けるとしよう。この感銘が情感/感情である。
 それは、差異共振のときがあるし、あるいは、差異共立の場合もあるだろう。前者の場合、「わたし」は「海」であり、且つ、「海」ではない。後者の場合、「わたし」と「海」は一である。
 共振ないし共立の様態に情感/感情があると言えよう。しかし、どこかに、感じる「器官」がなくてはならない。
 直感では、もし、凸iが能動性、凹iが受動性をもつならば、当然、凹iに感じる「器官」、情感/感情の「器官」があることになる。とりあえず、そう作業仮説しよう。
 差異共振、差異共立が生起したときのエネルギーを凹iは、情感/感情として捉えるということになろう。凸iはそれを知覚するが、感覚はしないだろう。情感/感情の主体は凹iにあるからである。
 いちおう、以上で説明はつくが、他の仮説として、凸iと凹iの共振・共立において、Media Point自体が情感/感情の主体となるということも考えられよう。要するに、感受性の「器官」の位置の問題である。
 思うに、差異共振ないし差異共立の様態において、差異相関が形成されたときに、情感/感情が生起することは確かであり、共振、共立のエネルギー様態の感覚が、情感/感情ということではないだろうか。
 だから、情感/感情の「器官」とは、Media Pointであり、また、凸i、凹iと言えるだろう。つまり、トライアッド(三一体)が「器官」になっているということも言えよう。
 問題は、近代合理主義は、連続性が中心化されて、差異共振、差異共立のもつエネルギー様態の情感/感情知覚を排除してきたのであり、人間の生を抑圧してきたと言えよう。
 脱連続性において、抑圧されてきた情感/感情が復帰するのである。ただし、これは、不連続性をもつので、連続性である近代合理主義の知は知として、保持されると言えよう。
 
 
3)脱連続性の反転の力学:

先に、初期近代においては、連続性が積極的であったが、後期近代においては、反動的になるのと述べた。この力学を明確にする必要がある。
 先に指摘したが、連続性は差異共振で、つまり、差異の牽引様態ではないかということである。わかりやすく言えば、対の差異が引きつけ合い、連続化して、同一性(物質)を産み出すということである。
 それに対して、対差異に斥力が反対に作用するようになると考えられるのである。これが反共振であり、共立様態とマイナス1をもたらすと思われる。
 つまり、初期近代とは、対差異の牽引力がはたらき、共振化して、連続性と同一性をもたらした。しかるに、後期近代においては、対差異の斥力がはたらき、反共振化し、共立とマイナス1をもたらす脱連続性の志向性をもつのであるが、しかしながら、それは、初期近代の連続性と衝突することになり、混乱、混沌がもたらされると考えられる。
 混乱、混沌となるのは、連続性と脱連続性とはまったく異質な作用であるからであり、両者は通約(共約)不可能だからである。そして、それを体現してしまったのが、ポスト・モダンである。
 とまれ、連続性と脱連続性とは、対差異の極性的力学に拠ると言えるのではないだろうか。もっとも、これは、検討課題であるが。


4)鏡像について:

今は簡単に触れるが、これは、差異共振において、同一性のフレームが生まれるが、このフレームが同一性のスクリーンとなり、それに本来、差異(凸i)である「わたし」を投影したものが鏡像であろう。これは、精神的フィルターで説明できよう。
 正確に言うと、差異共振は発光現象であり、その光が同一性のスクリーンに映り、鏡像となると考えられるのである。
 後で、精緻に考察を行ないたい。思うに、⇒+1の⇒の先端が同一性のスクリーンであり、そこに鏡像が映写されるのではないだろうか。


5)「わたし」ichとは何か:

これも簡単に触れるが、「わたし」は端的に凸iで説明できよう。シュタイナーのichはそう理解すべきだと思う。だから、日本語訳では、自我と訳されているのは、誤訳であると考えられる。
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