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2010年08月09日 (14:05)

シュタイナーの精神力学:3次元から2次元へ:PS理論との相違点:即非的理論と非即非的理論

以下は、先に途中のままになっていた論考をまとめたので、ここに投稿する。ここでは、タイトルを変更した。思うに、What is questionable with Steiner's spiritual theory? という副題をつけることもできる。

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シュタイナーの精神力学:3次元から2次元へ:折り畳まれる精神的高次元?

テーマ:検討問題:思考実験・仮説・エッセイ・メモ

シュタイナー精神学(精神理論)に最近触れているが、興味深いのは、精神的次元、高次元が四次元、五次元等ではなく、二次元になるという考えである。
 私は以前、二次元、平面から三次元の現象空間が生まれると考えた。それは、物質的次元(+1)が現象界が加わるという考え方である。すなわち、 Media Plane(メディア平面)があり、それから、物質次元が加わって、三次元空間になるという考え方である。(Kaisetsu氏が既にこの点を解明しているが、心象学的に考察してみたい。)
 単純に見れば、凸i#凹iが一次元、そして、差異共振凸i*凹iが一次元で、合わせて、二次元である。
 思うに、差異共振次元をガウス平面に直交するZ軸に見てもいいのかもしれない。作業仮説的に、虚軸Y軸と共振次元Z軸の形成する平面をMedia Plane、メディア平面としよう。
 このメディア平面から垂直に物質次元が形成されるということになる。三次元である。
 とまれ、精神次元は二次元である。そして、それが、Media Pointにおいて形成されるということだろうか。
 とまれ、二次元的視覚(精神的視覚)があるというように考えよう。視覚平面(精神的視覚平面、イデア/エイドス平面、霊視平面)である。
 そして、これが基盤となって現象物質空間、三次元空間が生起するということではないのか。
 しかしながら、この基盤は本来、不可視なのではないか。いわば、「闇」である。不可視界である。しかしながら、三次元空間のうちの二次元性は残っているということではないのか。
 それは、簡単に精神という不可視界を考えればいいのではないだろうか。正確、的確に言えば、精神視覚界(霊視界)である。この精神視覚界が光によっていわば、めしいているということではないのか。
 やはり、超越光を考えるべきである。つまり、精神次元には、超越光が「実在」するのである。そして、超越光を精神的視覚は見ているのである。
 しかし、差異共振によって同一性=物質化へと転換される。これは、同時に、現象光化と考えられる。
 つまり、不可視=超越光の二次元が可視=現象光=三次元へと転換するのであり、精神的視覚は物質感覚的視覚へと変換されるのではないだろうか。
 しかしながら、これは実に微妙・霊妙な事象である。いわば、Media Transformation (メディア変換)は、単純ではないのである。端的に言えば、即非的変換である。
 すなわち、精神は物質であり、且つ、物質ではない。精神的視覚は物質的視覚であり、かつ物質的視覚ではない。
 これは、Media Pointにおける精神的フィルターの作用である。しかし、単純なフィルターではない。即非的フィルターである。
 既知のことであるものの、ここでは不思議な事象が起きているのである。つまり、ダブル・ヴィジョンの現象である。即ち、精神的視覚は精神的ヴィジョン(Spiritual Vision: SV)を見ているが、物質的視覚は物質的ヴィジョン(Material Vision: MV)を見ているのである。
 しかし、そのように単純な二元性ではない。何故なら、ここには、即非的視覚が生じていると考えられるからである。
 実に霊妙である。つまり、精神的視覚もやはり物質的ヴィジョンを見ていると考えられるからである。つまり、精神的視覚は精神的ヴィジョンと同時に、物質的ヴィジョンを見ているということであり、物質的ヴィジョンという点では、精神的視覚と物質的視覚とが重なっていると思われるのである。
 だから、物質的現実、現象が、精神化されて見えるのである。その意味でもダブル・ヴィジョンである。
 しかしながら、近代合理主義は、この精神的ヴィジョンを否定しているのである。だから、抑圧があるのである。それは、同一性のメカニズムと言えよう。これは、反美的な視点である。言い換えると、近代合理主義は美学を排除しているのである。そして、この抑圧は不健全である。存するものを否定するからである。
 とまれ、私が以前よく述べた超越光であるが、それは、実際、私には「視覚」されたものなのである。陽光において超越光が感じられたのである。
 それは、結局、今述べたように、即非的視覚で説明ができるだろう。精神的視覚が現実界の光を視覚するのであり、そのために、超越光と重なるのである。つまり、精神的視覚とは、虚軸の超越的ヴィジョンを見ているのであり、そこに超越光があるのであり、その超越光を視覚しつつ、現象界の陽光を視覚するので、言わば、投影される形で、陽光を視覚するということのように思えるのである。
 しかし、この説明では、超越的主観性(フッサールの超越論的主観性は、本来、このように考えるべきである)中心であり、外界の光には超越性がないように考えられるだろう。
 しかしながら、光も本来、超越光から生まれるのであり、光のMedia Pointを介して、超越光がいわば洩れているのである。
 だから、結局、精神的視覚が光から洩れる超越光を見ているということでもあると考えられるのである。
 最後に即非的視覚の視点からシュタイナーの精神学を見ると、精神を物質から独立させる志向をもっている。物質から離脱する志向性をもっている。
 そう、精神は物質的現実からも独立して存在していると述べている。それは正しいだろう。しかしながら、精神的次元はMedia Pointを介して、物質的次元へと参入している点をシュタイナーは説いていないように思えるのである。つまり、即非的視点を欠いているように思えるのである。
 つまり、シュタイナーが物質界から精神界へと参与するとき、物質界から截然と独立した精神界へと参入するのであるが、それはPS理論から言うと、Media Pointの虚軸のゼロ点(MP1)に参入することと考えられる。それは、差異共立様態への回帰である。
 しかし、少し疑問に感じるのは、そのいわば、純粋な精神(霊)とMedia Pointとの関係についてである。シュタイナーはアストラル体とエーテル体を截然と区別する。しかしながら、PS理論の見地からは、両者は連関しているのである。つまり、アストラル体を例えば、凹iとすれば、エーテル体は凸iと凹tとの極性エネルギーと考えられる。だから、PS理論的なアストラル体とエーテル体とは、截然と分けられるが、連関しているのである。この点がシュタイナー精神学は欠けていると考えられる。言い換えると、それは、硬直してドグマになっている面が感じられるのである。
 今の予見では、PS理論からシュタイナー精神学の非即非的な構築・フレームを解体して、即非的に再構築することが必要であると考えられる。

追記:心とは端的に、Media Pointである。しかしながら、今日、一般には、それが自我形式=同一性形式によって枠付けられている(愚樵氏の知的フレーム)ために、虚軸的側面が解放されていないのである。せいぜい、愛情、情感、感情、気持ち、等にしかならないのである。
 禅仏教はこの同一性形式の徹底した解体を志向していた。なにか、デリダに似ているのである。ただし、デリダより、精神性をもっていた点では、優れている。
 さて、私が言いたいのは、不可視界であるが、それは、「闇」というよりは、超越光の世界である。D. H. ロレンスが述べたdark sunとは、正に、不可視の超越光のことだと思う。
 しかしながら、不可視とは言え、可視的であると思う。何故なら、精神的視覚(霊的視覚)があると考えられるからである。だからこそ、dark SUNなのだろう。
 そして、これこそ、アマテラス、アフラ・マズダー、大日如来等であろう。
 これは、色彩でいうと、黒でもある白、白でもある黒である。しかし、灰色ではない。思うに、黒と白とが相互浸透した様態とも言えるだろう。それは何色なのか。トランス・ブラック・ホワイト? トランス・ダーク・ライト?
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