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2010年09月11日 (11:56)

外的自己は自我

以下、生成門氏の新しい論考である。私も、-1を超在とするのがいいと思っていた。そして、「虚数」(虚体?)が非在である。

追記:生成門氏は「一方、縺れ合いの共立ダンスは、凸iと凹iの対称性が破れることはなく、一人ダンスに変わることがないようです。どんなに遠く離れていても、互いに時空を超えて、互いを意識して踊っているということがあるのです。

量子の世界では、このようなダンスを、量子テレポーターション(二つの凸と凹の電子が遠く離れていても、互いのステップが合っている、つまり勝手に踊ってはいないという意味)という現象が発見されています。この量子の縺れのことをエンタングルメントと呼んでいます。
」と述べている。
 私は非局所的長距離相関を否定しているが、それは物質的粒子を前提にしたときそうなのである。しかし、非物質的粒子はあるだろう。それが、「量子」である。
 以前、このことについてざっと述べたことがある。つまり、量子論は、虚軸の「双極子」を、実軸で検証しているために、「量子」は物質的粒子になっているようなことを述べた。
 そうではなくて、「量子」は虚軸の「双極子」(以下、双極子)である。これは、精神(霊)的双極子である。あるいは、数霊的双極子である。言い換えると、量子論は、「量子」を物質のスクリーンにおいて捉えているので、精神・霊的双極子が物質的粒子になっているのである。私見では、物質的粒子は精神・霊的双極子=「量子」の影である。だから、マーヤー(幻影)である。
 虚軸と実軸を不連続・非連続的に分離すれば、「量子」は本来の精神・霊的双極子になるのである。だから、トランス量子である。
 言い換えると、量子論は、精神と物質をまだ混同しているのである。両者を絶対的に分離したとき、量子論は本来的な量子論となるだろう(トランス量子論)。
 そこで、思うのは、電磁波の問題である。これは、以上から当然、精神と物質を混同していると思われるのである。「気」とは電磁波と関係するが、しかし、電磁波はやはり、物質のスクリーンに捉えられたものだと考えられる。
 私は「気」が本質としてあり、それが、物質のスクリーンに電磁波として現象するのではないかと思う。
 言い換えると、「気」とは精神をもった電磁波なのである。しかし、単なる電磁波は「気」にはならない。思うに、陽光と電球の光であるが、前者には、「気」、精神があると思うが、後者には、乏しいと思う。物質的発光とは、同一性が基盤になっているように感じられる。
 以上は、直感で述べたものである。後で精緻に検討したい。
 

外部化された自己は自我 (0)
シムダンス「四次元能」
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