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2010年10月06日 (18:18)

「存在」の問題:ハイデガー存在論批判

「存在」の問題:ハイデガー存在論批判

テーマ:検討問題:思考実験・仮説・エッセイ・メモ

「我思うゆえに我在り」の「我在り」の「存在」について検討したい。今は予備考察のみである。
 先に、ハイデガーの唱える「存在」とは存在性のことであると述べた。思うに、フッサールの志向性は凸i⇒凹iのことである。左辺がノエシスであり、右辺がノエマである。
 しかし、ハイデガーはフッサールの虚と突くように、「存在」を唱えた。しかしながら、ハイデガーの「存在」とはいわば、物質の超越論性である。現存在の超越論性である。だから、先に、⇒の先端がそうであると述べたのである。
 しかし、又、先に存在性とは凹iに存するのではないかと示唆した。「我在り」の「我」は自我と個が混合していると思う。つまり、それは、凸i⇒+1と凹i⇒-1が混合しているのである。
 存在性とは、本来、後者であると思う。それは、「個在り」である。前者は「自我在り」である。(先に述べたが、individualityもこの点で混同がある。)
 思うに、ハイデガーの「存在」は、凹i⇒+1である。つまり、凸iが主導のフッサール現象学の虚を突いて、凹iを指摘したのである。しかしながら、それが、⇒+1と連続化しているのである。
 ここにハイデガー「存在論」の大問題があると思う。フッサール現象学を補完するならば、凸iと凹iの共立を志向すべきであった。言い換えると、凸i⇒凹 iのフッサール現象学に対して、凹i⇒凸iの志向性を提起すべきだったのであるが、凹⇒+1へと連続化、同一性化、現象化、物質化、実体化してしまったのである。
 思うに、その結果、ハイデガー存在論は似非神秘主義と物質主義の間を揺らぐようになるのである。つまり、凹iの原存在は、⇒-1を漠然と予感するが、すぐに、⇒+1の物質主義が干渉して、真の神秘化を否定するのである。結局、連続性が支配していたので、ハイデガーの存在論は物質主義から脱却できなかったのである。
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