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2010年10月25日 (14:39)

+1凸i*+1凹i=+1:半封建/半近代的自我の日本人:唯物論的であり、精神界が欠損している

先に以下の感想を述べた。
「情けは情け、義は義である。」:森鴎外『阿部一族』の柄本又七郎
http://ameblo.jp/renshi/entry-10686451402.html
結局、この柄本又七郎の「情けは情け、義は義である」という発想は、基本には、やはり、自我、偽装自我+1凸iがあると見るべきである。そしてその偽装自我が偽装他者+1凹iを狡猾に知覚して、計算、打算的に行動を取るのである。これは、言うならば、半封建/半近代的自我である。以前も指摘したが、これが、「近代」日本人の類型になっているように思う。
 これは世間体に囚われる自己保身的、非個的人間である。ここには、物質界+1はあるが、精神界-1が欠損しているのである。
 問題は、いったいどうして、精神界-1を完全喪失するようになったのか。それとも、もともと希薄なのか。
 後者の可能性があるが、やはり希薄にさせられたように思う。一体何があったのか。What happened to Japanese?
 本来、誰でも、差異共立(共融)の精神をもって生まれるだろう。それは、精神界-1と通じている。
 しかし、誕生後は、物質界に母体から分離して生存することになり、⇒+1の+1が重要な意味をもつようになるのだ。ここに、物質的自我が生まれるのである。  
 思うに、自我の核は凸iである。いわば、原自我である。これは、知能を司るだろう。 
 そして、物質的自我+1凸iは、社会を認識する。それは、他者である。しかるに、日本社会は偽装他者+1凹iの社会である。そこで、物質的自我はそれを捉えて、偽装他者を利用するのである。それが、柄本又七郎である。そして、菅直人である。(以前は私はこれは官僚タイプだと言ったが、当たらずとも遠からずであろう。)思うに、愚民はこれをさらに劣化させたものである。偽造することすらできないのである。 
 では、肝心の精神界が喪失される力学を考えたい。これは簡単に言えば、社会に精神界が喪失しているので、個人が精神性を喪失すると言うことができる。日本の場合はとりわけ戦後である。近代合理主義、唯物論、近代民主主義が導入されたのである。
 しかしながら、外的な理由よりも、内的な理由の方が積極的、本質的である。個とは差異共立(共融)且つ差異共振に基づくだろう。ルネサンスとはそういうものであった。 
 しかしながら、日本文化は母権文化が基盤にある。それは、凹iの文化である。しかし、封建主義によって、それが、父権的傾斜を受ける。そうすると、+1 凹iになるだろう。これは、似非父権文化である。母権が捩れていると考えられる。(日本語に、主語が希薄なのと関係するのではないだろうか。)
 繰り返すと、ルネサンスは、差異共立(共融)であり、それは、-1凹i(第三象限)が根源にある。イタリア・ルネサンスで、新プラトン主義が起きたのも不思議ではない。それは、古代的な神秘主義に通じると言えよう。(日本において、禅仏教がそれに近い発想をもっているだろう。例えば、道元である。)問題は、ルネサンスの場合、差異共立から差異共振へと展開したことである。それは、西洋文化の凸iの傾斜に拠ると見ていいだろう。つまり、同一性へと傾斜したのである。そして、その帰結がデカルト哲学と考えられる。  
 日本文化においては、西洋文化のような凸iの強い傾斜はない。
 凹iの傾斜による物質化+1、即ち、+1凹iが生起すると考えられる。世間である。 
 問題は、凹i⇒+1のプロセスである。もし、凹i⇒-1の契機があれば、+1凹iへのプロセスは強固にならないはずである。しかるに、日本において、凹 i⇒-1の契機が乏しかったと言えよう。 しかし、「近代化」以前においては、神道、仏教、民俗祭礼等があり、それは、凹i⇒-1の契機をもっていたと考えられる。 明治維新によって、凹i⇒-1の契機は天皇制、国家神道が吸収したと考えられる。そして、戦後においては、その回路が断ち切られたと考えられる(三島由紀夫の「断絃のとき」)。  
 問題はやはり、凸iの原自我の希薄さではないだろうか。もし、強い凸iがあれば、天皇制や国家神道に吸収されることはなかったはずである。 
 では、天皇制、国家神道を形成した明治政府の力学とは何であったのか。それは、柄本又七郎的半封建/半近代的自我の力学ではないだろうか。確かに、凸 i⇒+1はあるが、それは、凹i⇒+1を顧慮する狡猾な自我に過ぎないのである。つまり、+1凹iに囚われる自我に過ぎないのである。(追記:これはあまりに一面的である。例えば、坂本龍馬や横井小楠などの考えは、封建制を脱している。それは、精神的民主主義である。私の唱えるトランス民主主義に近いだろう。) 
 すると、やはり、先に述べたように、日本母権文化のデカダンスが見えてくるのである。積極的な原自我凸iがあれば、凹iへの顧慮ではなく、凸i*凹iの差異共立(共融)が生起可能となり、-1の精神界が予感されるはずである。 
 私は先に、日本の父権文化はユダヤ教ではないかと言ったが、それは、まったく間違いだろう。ユダヤ教が導入されていれば、あるいは、キリスト教が入っていれば、強固な自我文化が生まれたはずであるが、それがなかったからである。(追記:正確に言うと、平田篤胤の神道には、キリスト教が導入されているのである。だから、国学には、一神教性があったと考えられる。父権的なものである。これについては検討課題である。) 
 日本母権文化のデカダンス、これが、現代日本の狂態を生んでいると考えられるのである。日本人が英語が苦手なのもこの点と関係しよう。英語は父権的言語(主語+動詞)であるからだ。 
 日本人を再生させるには、父権文化の導入が必要である。私は主語+動詞(述語)のある外国語を日本人は身に着けるべきであると思う。これは、思考を自我的論理にするからである。主語の希薄な日本語、述語的日本語は、差異欠損的であり、半封建/半近代的である。あるいは、未分化的である。差異未分化的ということである。それは究極のところ、菅直人的な二重人格的欺瞞論理となるのである。

* 菅首相、TPPの調整加速指示 「農業と両立可能」 共同通信 (21時48分)

(この点は別の機会に考察しよう。)
 思うに、戦後日本人が凹i⇒-1の第三象限へと展開するチャンスがあった。それが、折口信夫の新神道論であるが、戦後近代合理主義の狂信の中で、無視されたのである。
 また、オカルト・ブーム、精神世界の流行も、内因として、超越性を求める志向があるだろう。しかしながら、それは、一般には、自我が希薄なのである。その典型がオウム真理教事件である。 
 その点から見ると、シュタイナーの精神学は自我ichを基盤にしているので、それなりに考察に値するものである。(確かに、あまりに、内界に傾斜している難はあるが。)
 そう考えると、日本人に必要なのは、哲学的思考、哲学的知性であると言えよう。哲学は、知的に内的世界を探究するものであり、その点では、原自我凸iを介在させているのである。本質は直感的思考であると思うが、原自我凸iの知性を道具としているのである。(思うに、原自我凸iとは、フッサールの超越論的自我と一致しよう。)
 結局、現代日本人にとって、外国語研究、哲学研究が必要である。精神のインフラ、知のインフラが抜けているのである。そう、個となること、原始仏典にある「犀の角のように唯一人歩め」が必須である。集団、群れを成すな。

追記:国学が一つの問題である。本居宣長の「大和心」について解明する必要がある。それは、非合理主義でありつつ、且つ、自我的なのである。これをどう説明するのか。
 「漢心」(合理性ないし自我性)を排除するから非合理主義なのである。あるいは、情動主義である。しかるに、「漢心」を排除する二項対立論理があるのである。
 つまり、自我と非合理主義が結合した論理がそこにあるのではないだろうか。これは、ロマン主義に近い論理である。それは、第一象限と第三象限の混淆ではないだろうか。
 これは、-1凹i=+1凸iの短絡論理ではないだろうか。超越性・無我性と物質・自我性がショートしているのではないだろうか。これが、尊王攘夷の狂信の原理ではなかったのか。今はここで留める。後で、再考したい。

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「偽装自我」と「真正な無我」:+1凹i*+1凸i=+1の民主党指導層?
テーマ:検討問題:思考実験・仮説・エッセイ・メモ
以下、生成門氏の偽装自我VS真正の無我の視点は興味深い。
 これは、意識と無意識(潜在意識)にも関係しよう。私は民主党の左派的人間の自我とその反動性の力学をどう解明しようかとは感じていたのでもあった。
 言うことと為すことがまったく乖離し、正反対になっている民主党の指導部であるが、それは偽装自我の視点で説明できよう。他者、凹iが欠落しているのである。正確に言えば、-1凹i(第三象限)の他者である。だから、他者偽装するのである。「コンクリートから人へ」。
 思うに、純粋な(?)自我の人は、+1凸i(第一象限)であり、他者偽装しない。ストレートである。他者偽装するのは下心があるからである。それは、+1凹i(第四象限)であろう。これが、他者偽装するのである。
 そう見ると、民主党指導層は、+1凹i(他者偽装)と+i凸i(自我)の二重人格であると言えよう。選挙では、前者が前面に出て、後者を引っ込める。そして、選挙に勝つと、逆転して、前者が消えて、後者となる。
 かれらに「個」ないし真正の無我がないのは、-1の超越性が欠落しているからである。つねに、二重性を使い分ける、悪賢い人間なのである。しかしながら、真実、真理は、-1の領域ないし第二象限か第三象限に存するのである。故に、彼らは愚鈍・愚劣でもあるのである。
 意識と潜在意識で言えば、意識が自我であり、潜在意識が偽装他者である。
 ここから、ペテン師の真相がわかる。偽装他者(偽装自我)を使って、欺し、自我利益+1を獲得するのである。
 外交もこの面が強いだろう。ただし、常に、-1をもっていないと、見透かされ、馬鹿にされる、民主党指導層のように。小沢一郎が一目置かれるのは、あるいは、恐れられるのは、-1、ないしは、第二象限と第三象限があるからである。誠意、誠実さとは-1に拠るのである。
 ここから、政治教育がはっきり認識される。プラトン哲学も、-1の認識を目指したものと言えよう。

参照:人間認識図(by Mr Kaisetsu)
人間認識図


Japonesian Trans-Apocalypse:Trans-Modern New Platonic Trans-Creation
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本来、+1凹iは自我の対称性である無我ですから、無我の心-1凹iの反転した現れのはずですが、+1凸iの自我から反動した+1凹iは、無我ではなく擬装自我なのです。つまり無我のように見えて真正の無我ではなく、恨みを抱えた自我なのです。

+1の反動

+1凸i=自我→(反動)→+1凹i=無我(擬装自我)

-1からの反転

-1凸i(凹i?)=無我の心→(反転)→+1凹i=真正の無我


擬装自我と真正の無我の心との戦いが、この物語の主人公チュモンの生き様であり、テーマでもあるのです。

無我の心とは-1凹iであり、それを反転した+1凹iが真正の無我の自己であり、自我+1凸iから反動したのが+1凹iの擬装自我なのです。
http://www.c-player.com/ad00178/thread/1100098199050

* チュモンというベクトル・モード(1):恨みは進化の原動力 (1)

シムダンス「四次元能」
http://ameblo.jp/renshi/entry-10682083204.html
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