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2011年03月15日 (23:31)

『気』超越的エネルギーについて:不可視界と物質界:超越的絶対的「知即存在」と『気』の精神

テーマ:神道ルネサンス:気と東洋文明:新マニ教

東日本大『神』災は、『気』、つまり、宇宙エネルギー(コズミック・エネルギー)によって引き起こされたと私は仮説している。
 『気』とは、不可視であり、また、一般には感知されていない。しかしながら、東洋文化は、伝統的に、『気』の文化であり、それを否定することは、東洋文化を否定することである。
 先に述べたように、明治近代西洋化と戦後は近代合理主義を中心化して、日本における東洋文化を否定してきたのであり、そのため、『気』は一般的認識から排除されることになったのである。
 意識や心を形成しているものも『気』と考えられるが、自我のもつ連続的同一性によって、『気』が自我と一体化していて、的確に言えば、即自化しているので、『気』を対象化できないと考えられるのである。
 それは、一般的なことであるが、ここで、私自身の経験に即して考えたい。
 私は戦後以降の物質主義・唯物論的科学教育を刷り込まれて成長した人間であるが、二十歳前後であろうか、シューベルトの『冬の旅』を聴いて、胸中になにかある「存在」、事象が感じられたのである。
 そう、物質科学的知性と胸中の感性、この二つに私の意識は分裂したのである。
 ある意味で私の半生はこれをどう統一するかにあったと言えよう。深層心理学(フロイト、ユング)を読み、また、ユング心理学の研究者であった湯浅泰雄氏の著作を読んで、ユング心理学から『気』の研究へと進んだのに注目した。そう、そこで、胸中の感性は単に自己の主観性だけでなく、物質的身体を超えたものであることが確認されたので、近代的自我を超えた視点をもつことができたのである。
 それは、今から言えば、不可視的エネルギーの確認であったと言えよう。その後、それが、私の中では、「コスモス」cosmos(宇宙)と結びついていったのである。
 しかしながら、この『気』の感性と物質的合理的知性とは分裂したままであった。カントの判断力批判から、構想力(想像力)によって、両者をつなげる試みもしたが、それは、まだ、統一的視点にはならなかったのである。
 その後、いわゆる、ポスト構造主義等の思考に触れて、差異の哲学を知ることになった。ドゥルーズ哲学に触れた後、スピノザ哲学に感動して、個と共同体の「精神」をほぼ形成していたのである。それは、原不連続的差異論であり、原PS理論であった。その後の展開はスレッド、『不連続的差異論の誕生』で知ることができるので、ここでは述べない。
 ここで述べたいことは、『気』の感性、正確には、『気』の精神である。これが、不可視界を形成していることがほぼわかっている。この不可視界は、Kaisetsu氏の人間認識図で言えば、ガウス平面の第三象限に当たると考えられる。

人間認識図

         人間認識図

 そして、『気』の感性、『気』の直観・直感とは、陰陽(凸i*凹i)の共振に存すると思われる。これもほぼ不可視界に存すると思われる。
 問題は、不可視界と『気』の精神との関係である。ここに、宇宙の秘密があると考えられる。
 まだ十分判明していないが、『気』の精神はmedia point(陰陽交叉点)と凹i(陰)に存すると思われるのである。あるいは、media pointに存するのかもしれない。この点がまだ判明していないのである。
 確かに、経験的基礎は凹i(陰・肚)にあるが、主に感知するのは、media point(陰陽交差点・心胸・差異均衡点)のように思えるのである。思うに、以前述べたように、差異均衡が形成されたときに、『気』の精神が発動するので、それは、media pointの賦活であり、また、凹iの直感を意味すると考えられるのである。この問題は、いちおう、これで済んだこととする。
 では、本題に入ると、『気』の精神と不可視界(第三象限、コスモス)はどう関係するのか。
 直感で言うと、『気』の精神は凹(超越的存在)に接触しているのである。あるいは、一体、一如である。以前、即非的事象の一如性について述べたが、即非的事象の半面は『気』の精神と凹の接触、すなわち、第三象限であると思われるのである。即ち、「わたし」は「樹木」であり、且つ、「わたし」は「樹木」でないという即非的事象の前者がそれだと考えられる。それは、神秘主義的融即に似ている。
 そう、差異均衡点で『気』の精神と凹との接触があるというのだから、第三象限的認知は、即非的事象を帯びると言えよう。
 とまれ、本題に集中しよう。『気』の精神と凹の接触であるが、それは、凹i(陰、他者)を介するのであり、このとき、自我中心的態度は否定されるのである。自我はあるが、自我主義ではなくなるのである。
 この他者的精神と不可視界ないし超越的存在は繋がっているのである。ここで、わかりやすくするために、超越的存在を『神』と呼ぼう。宇宙創造神としてもいいし、グノーシス主義的ないしマニ教的に、至高神としてもいい。あるいは、宇宙論的に、ビッグ・バンを形成する超越的原点(母点)と見てもいいだろう。
 ともあれ、そこには、根源的な力・エネルギー(ポテンシャル・エネルギー)が存していると考えられる。
 それはまた、以前に述べた「知即存在」であると考えられる。つまり、「知即存在」である根源的力・エネルギーである。この根源的「知即存在」が他者的精神、凹iに働きかけるのではないだろうか。つまり、超越的絶対的「知即存在」が、個における凹i、他者的精神に働きかけると考えられるのである。端的に言えば、個における凹i、他者的精神において、超越的絶対的「知即存在」がいわば、臨在しているのである。
 そして、超越的絶対的「知即存在」とは、単に、人間を創造・形成し関与するだけでなく、森羅万象を創造・形成し関与すると考えられるのである。
 もし、人間が凹iの他者的精神を喪失した場合、どうなるのだろうか。超越的絶対的「知即存在」は、その力・エネルギーを能動的に発動させることができなくなると考えられる。そのため、未使用の力・エネルギーを人間以外に振り向けるということになるのではないだろうか。
 端的に言えば、あるいは、有り体に言えば、超越的絶対的「知即存在」は、人間が「消費」しない余剰の力・エネルギーを他の事象に振り向けるということになるのではないだろうか。即ち、地球という惑星自体に働きかけるのである。地球のマグマ、活断層、プレートに働きかけるのではないだろうか。
 そうならば、大地が活性化して、火山活動や地震が増加すると考えられるのである。人間によって、使われない宇宙的エネルギーを地球に振り向けるのである。(これを書いたとき、地震が起きた。震度4と外で、市の防災が放送している。なにかまだ揺れそうだ。みしみししている。)
 今回の東日本大『神』災はこのように作業仮説的に説明するのである。
 後でさらに検討したい。

追記:人間に否定される超越的絶対的「知即存在」のエネルギーとは、超越的絶対的「知即存在」にとって、「被造物」である人間によって自己自身が否定されたのであるから、つまり、人間の尊大な行為によって否定されたので、「怒り」、「憤慨」を覚えると言えよう。この「怒り」が人間に向けられるということも考えられる。
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