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2011年07月09日 (12:55)

凹iの問題:連続的凹i(同一性体)と不連続的凹i(media point的極性)

人間認識図

【人間認識図】
by Mr. Kaisetu with Mr. Seiseimon's collaboration

人間認識図では、悪徳の領域は第四象限に置かれる。それは、凹iと凸によって形成される領域である。
 そして、最深の領域は第三象限であり、凹iと凹によって形成される領域である。
 つまり、最高の領域と最悪の領域の両方に凹iが関わるのであるが、この力学を明確にする必要がある。
 これは、結局、連続性と不連続性の問題である。連続性において、凹iは凸と結合するのであり、そこで自我感情・欲望(利己主義)が「発達」するのである。
 しかしながら、同時に、凹iは不連続的には凸iと純粋共振して、凹との融合を保持するのである。つまり、凹iとは連続性においては、エゴイズムを形成して、不連続性においては、利他主義を形成するのである。
 これで、一応、凹iの力学を説いたが、問題は近代主義である。それは、連続性中心なので、不連続性において、保持する精神世界を喪失してしまうのであり、物質世界、機械論的世界が中心化されるのである。
 さて、ここで、存在論について簡単に触れると、凸iが認識に関わるのであり、凹iが直観・直感に関わるとするならば、存在は当然、凹iに関わると言えよう。
 思うに、私が個体に特異性、絶対的差異性を認めるのは、結局、凹iと凹との結合においてであろう。
 物質体は凸であり、それは同一性体であり、存在ではない。存在は言い換えると、media pointに存すると言えるかもしれない。勿論、存在は超越的存在と関係するのである。
 ハイデガーの存在論の欠点は、物質体=同一性体を形成する存在を中心化していることであり、それは、連続的存在に過ぎないのであり、PS理論的には精神的フィルターを存在と呼んでいると考えられる。
 何度も既述したが、ポスト・モダン(ポスト構造主義を含む)はハイデガー存在論の影響が大きく、その連続的視点を継承してしまっているのであり、そのため、とりわけ、ドゥルーズ「哲学」は唯物論に捕らえられているのであり、また、デリダ「哲学」も物質主義から逃れられず、超越的精神世界を肯定することができなかったのである。
 フッサール現象学は実は、不連続論であるが、それを不肖の弟子のハイデガーは捉えられずに、現象学を連続論に堕させたのである。

追記:連続的凹iによって、嫉み、怨恨、悪意、等が説明できる。犯罪はここから生まれる。思うに、シュタイナーが悪とはかつて善であったものが進化できなくなったものであると説いているが、凹iを不連続化することが進化と言えよう。とまれ、悪と善は凹iという共通点をもつのであり、悪も不連続化を為せば、善に変わるのである。マニ教の仁慈原則:悪を善に変容させる。

参照:

Wikipedia
マルティン・ハイデッガー
・・・
存在の意味と現象学的方法 [編集 ]

この著作でハイデッガーは、存在者と存在一般を区別した上で、存在の意味についての問い―存在者が存在する(Sein)という意味はどういうことなのか?―を明らかにしようとした。これは存在論の根幹をなす問いであり、存在者としての存在(「在るもの」として「在ること」)についての研究としてアリストテレス によって定義された(『形而上学 』)。この問題に関しては、命題論理的な見地から展開されたアリストテレスとカント 以来の(それぞれの哲学的立場は大きく異なるが)伝統があるにも関わらず、ハイデッガーはそこから離れたアプローチをとった。この伝統には、「理論的な知識はひとりの人間と彼を取り巻く(彼自身も含めた)世界内の存在との根源的な関係を意味する」という命題が内在しているためである。

この命題を峻拒してハイデッガーがとったのは現象学 的な方法である。この方法を徹底させることにより、現象学を定式化したフッサールのうちにすらなお見られたアリストテレス的/カント的な認知主義 の残滓を一掃しようと考えたのである。フッサールと同様に、ハイデッガーは志向性の現象を考察することから始めた。人間の行為は、何らかの対象や目的を(建築という行為ならば建物を、会話ならば話題を)目指す限りにおいて志向性をもっている。ハイデッガーは志向性を「関心(Sorge)」と呼ぶが、これは「不安(Angst)」の肯定的側面を反映している。ここでいう「関心」は志向的存在に関する基本的な概念であり、存在的 なあり方(ただ単にあるだけの存在)とは区別された存在論的 なあり方(存在という問題に向き合いながら存在すること)として、存在論的に意味付けられたものである。

註:存在者が存在することは前提的に了解した上でその性質や他の存在者との関係などを問う態度を存在的(ontischen)といい、自然科学 などがこれにあたる。存在論的(ontologisch)とは、存在者が存在することそのものを問う態度を指し、形而上学や現象学がこれにあたるが、ハイデッガーはこれらも不十分であるとの考えに立ちながら『存在と時間』を書いた。

理論的な知識が表現するのは志向的な行為のうちの一種にすぎず、それが基づいているのは周囲の世界との日常的な関わり方(約束事)の基本形態であって、それらの根本的な基礎である存在ではないとハイデッガーは主張する。彼は「実存的了解」(実存を実存それ自体に即して了解する)と、「実存論的了解」(何が実存を構成するかについての理論的分析)の二種類に分類した。これは、「存在的―存在論的」と呼応するものであるが、人間存在に範囲を限定したものである。ものは、それが日常的な約束事のコンテクスト(これをハイデッガーは「世界」と呼ぶ)の中に「開示される」限りにおいて、そのような存在者である(そのように存在する)のであって、そのコンテクストを離れても客観的に認められる固有性をもっているからではない。カナヅチがカナヅチであるのは、特定のカナヅチ的性質をもっているからではなく、釘を打つのに使えるからなのである。
デカルト批判と現存在 [編集 ]

こうした方法はまた、デカルト 的な実体のない「われ」――純粋な思惟者としての「われ」――の否認を必要とする。デカルトが「われ思う」だけは疑いえないものとしたとき、思っている「われ」の存在様式は無規定のまま放置されたとハイデッガーは述べている。その一方でハイデッガーは、人間の行為に関するいかなる分析も「われわれは世界の中にいる」という事実から(世界を「抽象的に」見る風潮に則らずに)始めなければならない、したがって人間の実存に関して最も根本的な事柄はわれわれの「世界=内=存在(In-der-Welt-sein)」であると主張した。人間もしくは現存在 (Da- sein)とは、世界の中で活動する具象的存在なのだということをハイデッガーは強調した。したがって彼は、デカルト以来ほとんどすべての哲学者が自明のこととして依拠する「主観 ― 客観」という区別をも拒否し、さらには意識、自我、人間といった語の使用も避けた(ハイデッガーは「人間」の代わりに「現存在 (Da-sein)」という)。これらはいずれもハイデッガーの企図にはそぐわないデカルト的二元論 のもとにあるためである。

ものがわれわれにとって意味をなすのは、そのものがある特定のコンテクストの中で使用できるためであり、そしてこのコンテクストは社会的規範によって定義される。しかし、元来こうした規範はみな偶発的で不確定なものである。こうした偶然性は、不安という根源的な現象によって明らかにされる。この不安の中に、すべての規範が投げ出され、ものは本来の無意味さの中に、特になにものでもないものとして開示される(少なからぬ実存主義者によるハイデッガー解釈に反して、これは実存のすべてが不条理なものであるということを意味しない。正確にいうならば、実存がつねに不条理の可能性を抱えているということである)。不安の経験は現存在の本来的な有限性をあらわにする。

存在者が開示されうる(コンテクストにおいて有意味にであれ、不安の経験において無意味にであれ)という事実は、いずれにせよ存在者は開示されうるという先行する事実に基づいている。ハイデッガーはそうした存在者の開示を「真実」と呼んだが、これは正しさというよりは「隠れのなさ」と定義される。この「存在者の真実」(存在者による自己発見)は、より本源的な種類の真実を含む。すなわち「存在者の存在が隠されていない、明るみに出された存在者の発露」である。これはギリシア語で「アレテイア (αληθεια)」と呼ばれ、アリストテレスやヘラクレイトス からハイデッガーによって引き出された概念である。

ハイデッガーにとって、現存在を規定するのはこの存在の隠れなさである。ハイデッガーの用語「現存在」とは、おのれの存在を関心事とする存在者であり、また、おのれの存在をそのように開示させる存在者である。ハイデッガーが存在の意味についての探求を現存在の本質についての探求とともに始めたのはこうしたわけである。存在の隠れなさは基本的に現世的かつ歴史的な、非計測的な時のうちでの現象である(本書を『存在と時間』と題したのもこのためである)。われわれが過去・現在・未来と呼ぶものは本来この隠れなさの見地に照応するものであり、時計によって測定される均一的な数値化された時間における排他的な三区域のことではない(難解をもって知られるこの本の最終章においてハイデッガーが証明を試みたように、時計の時間もまた隠れのない本来の時間から派生したものではあるが)。
解釈学 [編集 ]

総体的な存在了解は、現存在固有の存在に関する潜在的な知識を説明することによってのみ到達できる。ゆえに哲学は解釈という形をとる。これが、『存在と時間』におけるハイデッガーの手法がしばしば解釈学 的現象学と呼ばれるゆえんである。『存在と時間』は未完に終わったため、全体的な計画に関するハイデッガーの宣言や、現存在とその時間内的な限界についての緊密な分析と解釈をなし遂げてはいるが、そのような解釈学的手法により「存在一般の意味」を解明するまでには至らなかった。しかし、その野心的な企図は後の著作において異なる方法によりながら執拗に追求されることとなる。

カント は『純粋理性批判 』の序文で、外的世界の存在に関する完全な証明がいまだなされていないことを「哲学のスキャンダル」だと嘆いた(自分の著書がそれを与えるのだと自負した)が、ハイデッガーにいわせればそのような証明ばかりが求められることこそ哲学のスキャンダルであった(本書第1篇第6章第43節)。同時に彼の企図は非常に野心的であり、生物学 、物理学 、心理学 、歴史学 といった存在的 なカテゴリーにおいて研究される特定の事物の存在には関心がなく、追求したのは存在一般についての問い、すなわち「なぜ何も無いのではなく、何かが存在するのか」(ライプニッツ )といった存在論的 な問いであった。われわれにとってあまりにも近く自明なものである「存在一般」への問いこそ何よりも困難なものである。

ハイデッガーはこうした問いに対し、「いかにしてわれわれは世界と具体的かつ非論理的な方法で遭遇するか」「いかにして歴史や伝統がわれわれに影響を与え、われわれによって形成されるか」「事実上いかにしてわれわれはともに生きているか」「そしていかにしてわれわれは言語やその意味を歴史的に形成するか」といったことに注視するという最も具体的な方法をもって取り組んだ。
存在の哲学 [編集 ]

ハイデガーの見地においては、行為に対する理論の伝統的優位が逆転される。彼にとって理論的な見解というものは人工的なものであり、関わり合いを欠いたまま事物を見ることによってもたらされるものであり、そうした経験は「平板化」(Nivellierung)されたものである。こうした態度は、ハイデッガーによって「客体的」(vorhanden=すでに手のうちにある)と呼ばれ、相互行為 のより根源的なあり方である「用具的」(zuhanden=手の届くところにある)な態度に寄生的な欠如態とされる。寄生的というのは、歴史のうちにおいてわれわれは、世界に対して科学的ないし中立的な態度をもちうるよりも前に、まず第一に世界に対する何らかの態度や心構えをもたなければならないという観念においてのことである。

客体的存在と用具的存在に加えて、現存在の第三の様態として「共同存在」(mitsein)があり、これが現存在の本質となる。他者とは、孤立して存在する単一の主体「私」を除いたすべての人びとのことではなく、たいていの場合はひとが自分自身とは区別していない(ともにある)人びとのことである。例えば、「私」が作物を踏み潰したり土を踏み固めてしまわないよう注意しながら畑の周りを歩くとき、この畑は「私」にとって道具的なものであるが、同時に「誰か」の所有地として、あるいは「誰か」に手入れされている(他の「誰か」にとっても道具的である)ものとしても現れる。この「誰か」たる農夫は、「私」が思考のうちでその畑に付け加えたものではない。なぜなら、畑が耕され手入れされているという事実を通してすでに農夫は自らを現しているからである。このようにしてわれわれは世界内において他者と出会うのであり、またこうして現存在が他者と出会いともにある存在の仕方が「共同存在」であるとハイデッガーは述べる。

「共同存在」には好ましからぬ側面もあり、ハイデッガーは「世間」という語を用いてそれに言及する。つまりニュースやゴシップでしばしば見られるように、「世間では~といわれている」というとき、一般化して断定したり、一切のコンテクストを無視してそれをやり過ごそうとしたりする傾向があるということである。何が信頼に値し、何が信頼に値しないのかという実存的概念が「世間」という考えに依拠して求められるのである。たんに群集のあとを追って他の人々に習うだけでは何の妥当性も保証されないし、社会的・歴史的状況から完全にかけ離れたことが妥当なことだとみなすことなどできないにもかかわらず、「世間」がその平均性のみを妥当なものとして指示するのである(本書第1篇第4章第26 - 27節)。

* (百科事典)「マルティン・ハイデッガー」 - インターネット哲学百科事典 にある「マルティン・ハイデッガー」についての項目。(英語)

The Quest for the Meaning of Being
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