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2011年07月22日 (01:00)

PS理論的自己様態と連続的自己様態:新母権的自己様態と父権的自己様態:「わたし」とは何か

テーマ:自己認識方程式:凸i*凹i⇒凸(+1)

今はざっと言う。
 PS理論は不連続的差異論からの発展・進展である。根本は不連続性である。
 では、これはPS理論的にはどういうことなのか。もっとも復習になるが。
 凸i*凹iが凸(+1)になるが、それが連続的自己(=自我)である。本来、極性であるものが、同一性化されるのである。
 そこにおいて、凹i(他者)が開けても、連続化されているので、差異化されずに、同一性を引きずるのである。つまり、純粋差異、純粋差異共振は生起しないのである。
 思うに、誤まれる神秘主義はそれであるし、ポスト・モダン(ポスト構造主義)もそれであると考えられる。
 ここにおいて、不連続化の意義があるのである。不連続化、切断によって、差異と同一性が絶対的に分離するのである。すなわち、差異共振様態と連続的同一性様態に分離するのである。それらは言い換えると、精神様態と物質様態である。
 では、本件の問題を考えると、自己とは当然、両者をもつものである。自我とは後者である。
 では個とは何か。私はこれまで、個=他者であると言ってきた。すると、個とは純粋差異における凹iのことであると考えられる。つまり、自己における他者というlことになる。
 最後に、シュタイナーのichであるが、それは、自我というよりは、自己であるが、正確に言うと、差異共振様態と連続的様態の並立であろう。
 物質世界に生きる為には、自我(連続態)は必要であるが、それは、仮象的である。根本、本質は差異共振様態である。
 
追記:問題の一つは、凸iとは具体的に何かということである。
 連続的自己において、凸iと凸が一体化する。同一性的自己である。
 では、純粋な凸iとは何かである。凸(+1)とは分離している凸iとは何か、である。凹iは他者であるにのに対して、凸iとは何か、である。
 これは、父権的自己ではないだろうか。それに対して、凹iは母権的自己ということではないだろうか。
 プラトンのコーラとは後者ではないだろうか。
 男性的自己の尊大さは、凸iに拠るだろう。そして、それが、凸(+1)と連続化して、同一性自己(自我)となる。それは又、近代合理主義の原型と思われる。
 次に、個について再考したい。直観では個は確かに、凹iを指すものの、凸iが存在が微妙である。
 しかし、今、凸iを父権的自己としたのだから、個である凹iは凸iとは直接関係をもたないのではないか。
 個は凸i的な尊大さを否定するものである。つまり、凸i*凹iにおいて、凹iに傾斜があると思われる。
 凹iに傾斜をもたせることによって、脱父権的自己になると思われるのである。
 直観では、凸iは存するが、静止的、空的になっているのである。単に容物的である。同一性の容物である。そして、主体は他者
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