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2011年08月22日 (14:33)

思考実験としての再考:粒子と反粒子の生成力学に関して:粒子/反粒子は物質的対であり、反粒子/反物質は超越的存在、霊的存在ではない

思考実験としての再考:粒子と反粒子の生成力学に関して:粒子/反粒子は物質的対であり、反粒子/反物質は超越的存在、霊的存在ではない

先に、+1を粒子、-1を反粒子(反物質)としたが、それは、勘違いであり、訂正したい。⇒+1において、粒子/反粒子の対生成があると考えられる。それを作業仮説的に共役複素数とする。とまれ、粒子/反粒子の対を電子と陽電子とすると、原子核とはMedia Pointではないだろうか。思うに、原子核のMedia Pointを中心として、電子と陽電子が回転するのである。それが、物質の原像ではないだろうか。
ここで、「空」について触れると、それは、やはり、Media Pointと考えられる。有と無を生み出すものである。(思うに、ハイデガーの存在論はこの点でまったく一面的ではないだろうか。存在ではなく、「空」である。もっとも、「空」が「在る」ということになるが。しかしながら、「空」=Media Pointは、「在る」を超えている。)
さらに、それは、-1に通じる。しかし、正確には、第三象限である。なぜなら、「空」=Media Pointは陽である凸i、+1を滅却して、到達できるからである。つまり、凹i、-iの根源的優位性があると考えられるからである。前者を個我とすれば、後者は非個我である。しかしながら、個我を経過して、非個我には達するべきである。そうでないと、全体性ないし集合性に飲み込まれるからである。
ここで個やアートマンについて考えると、それは、陰陽ないし霊魂と考えられる。それをブラフマンと考えること、即ち、梵我一如と、「空」=Media Pointとは異なるだろう。
後者は前者を包摂していると考えられる。なぜなら、空即是色、色即是空であるからである。言い換えると、個/アートマンとは、「空」=Media Pointの「存在」あるいは陽=凸i=+1の傾斜と考えられるからである。後者から前者が生成するのである。
ここでジェンダー論的に説くと、前者が父権であり、後者が母権である。母権から父権が生まれ、今や新たに母権に回帰しつつあるのである。



龍樹(ナーガールージュナ)をちらと見たが、PS理論に通じると直観される

テーマ:Buddhism

「空」とは端的に、PS理論のmedia pointのことであると言えよう。それは、在ると同時に、無いのであるから。問題はウパニシャッド哲学のアートマンの問題である(梵我一如)。
 私は個は他者であると言った。つまり、アートマンは他者(ブラフマン)になるのである。
 ならば、ウパニシャッド哲学と仏教哲学はPS理論において統一されると言えよう。
 D. H. ロレンスの唱えるコスモスも個=他者=「神」と同じことである。個でありつつ、他者なのである。「個」即非「他者」である。
空 (仏教) - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/空_(仏教) - キャッシュ
龍樹の空観 に移動‎: この空の理論の大成は、龍樹の『中論』などの著作によって果たされた。 龍樹は、存在という ...
インドでの基本概念 - 仏典の用例 - 空とは何か - 類似の発想の西洋での芽生え



『平家物語』と『源氏物語』:民衆的文学と貴族的文学:どちらが日本を代表する文学か

テーマ:二つの日本:父権的日本と母権的日本

以下、kaisetsu氏の日本文化に関するコメントは徹底している。想起するのは、以前、私が日本文学を代表するのは『源氏物語』ではなく、あえて『平 家物語』であると述べたことである。前者の権威が強いために、断言するのは勇気がいるのであるが、面白さから言えば、端的に、後者の方が面白いのである。 日本語の簡潔で力強い口語体がすばらしいし、私はトルストイの叙事的文学の文体を想起したものである。そう、私が日本で一番好きな人物は木曽義仲である。 個に徹した人物、日本では稀有である。坂本龍馬に通じる人物だと思う。
 思うに、『源氏物語』の美学は当然に貴族趣味的であり、なにか生活感情から言うと、繊細すぎて、ぴんとこない点が強いのではないだろうか。閑人の感情と言おうか。
 それに対して、『平家物語』は野太い声が聞こえるが、清冽な感情が漲っていると思う。あえて言えば、ホメロスの叙事詩に匹敵するのではないだろうか。それにしても、端正な生活的な言語である。
 思うに、kaisetsu氏の日本美学大転換は大きな意味があるだろう。舶来趣味にかぶれた日本知識人や愚民への大痛打である。

倭国と日本国は異なる。よって、他国が倭(ウェイ)と揶揄しても日本人は「平気」だ。

注:基本的に、鎌倉以降の日本人的精神は、貴族趣味を嫌い、土着的で泥臭い文化を愛しているのである。

 倭国が百済や新羅的な貴族趣味的な傾向を持つのに対して、天武朝は地方豪族と半農半武、半漁半武の土着的で泥臭い気風と皇族との結託によって、中央勢力である倭国が打倒され、日本国が形成されたのである。

 平安期になると、また、百済的、新羅的な貴族趣味が蔓延するが、やはり、鎌倉期に、地方の武士階級と浄土宗などの泥臭い庶民階級によって、日本的精神の覚醒が起こるのである。

 日本人は、泥鰌掬いの踊りを、誇りを持って、眺めるのである。「カッコイイ」と感じるのである。

海舌
『海舌』 the Sea Tongue @ Kaisetsu with Archaic smile



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