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2011年11月13日 (01:24)

感覚と魂:ver2:精神的光と現象光:虚点と実点の即非態

感覚と魂:ver2:精神的光と現象光:虚点と実点の即非態

テーマ:manichaeism

先の考察とは逆方向が本来の直観であったと思う。即ち、差異共振エネルギーが生じて、それが感覚界まで到達する。これは聴き手ではなく、創作者の視点である。
 とまれ、氣的エネルギーがあり、それが感覚へと下降する。この感覚には氣の情報が入っている。つまり、美的情報である。

追記:「この感覚には氣の情報が入っている」という言い方は曖昧であると思う。というか、間違いだと思う。氣の情報はここにはないのである。虚点において氣の情報はあるが、実点においてはないのである。

追記2:追記に対して疑義が生じる。即非態ならば、虚点の性質が実点に反照するのではないのか。思えば、これは長らく気になっている点ではある。思えば、反照があると以前述べたのである。いったい、どちらなのだ。これは実に微妙な問題だ。やはり、即非様態である。つまり、実点には氣の情報はあると同時に無いのである。有であり、無である。だから、実点は虚点よりも不思議なものと言えよう。超越性があると同時に、不在なのである。思うにハイデガーが『存在と時間』で存在についてグチャグチャ言っているのは、この実点についてではないだろうか。しかし、虚点が把握されていないので、いわば、中途半端なのである。超越性であるような、物質性であるような一種未分化な発想に留まっているのだ。

 これは、media pointの虚点(虚軸上の点をそう呼ぶことにする。次の実点も同様。)と実点(実軸上の点)の関係性をもつ。
 思うに、バッハ音楽を精神感覚で受容するというのは、虚点においてと考えられる。ここでは陽と陰が共振している。
 つまり、虚点の感覚、つまり、精神感覚があるということである。しかるに、実点においては、物質的感覚、現象的感覚があるだろう。これが通常の五感であろう。
 実点の感覚とは同一性感覚であり、ここには、芸術的感覚(美的感覚)はないと思われる。
 つまり、陽と陰が実点では連続的同一性化しているために、差異共振のもつ美が欠落すると言えよう。
 バッハ音楽を聴いて、精神を感覚するというのは、その音が虚点の様態をもっているということと考えられる。そう、結局、感覚とは陰と陽、凹iと凸iの極性によって形成されると言えよう。そして、差異共振から連続的同一性へと転化すると物質的感覚になるのである。
 感覚において勘違いしているのはこの点にあると考えられる。即ち、感覚は本来、精神様態なのであるが、それが実点において物質化作用を受けるのである。
 そして、それが一般的になっているのために、感覚本来の精神性を消失するのである。
 そう、私が光の超越光を感じるというのも同じことである。つまり、光は本来、精神光、超越光なのである。そのために、光を見ると爽快なのである。
 この精神的光、超越光は氣と言ってもいいだろう。氣的光、氣光である。
 これはまったく音の場合でも同じと考えられる。精神的音があり、それが物質的音として表出されるのである。
 これは先に述べた氣と電磁波と同じ関係であると考えられる。
 これで直観をほぼ表現できたようだ。
 ところで、後の課題は分割作用である。二等分、四等分、五等分はわかるが、三等分、六等分、七等分等の等分割はどうやって生まれるのか。これは今だによくわからないのである。

追記3:追記2のように考えると、その後の論と齟齬を来すので、修正しないといけない。
 結局、追記2が正しいのか、それともそれ以下が正しいのか。実点において、氣があるのか否かである。やはり、追記2が正しいだろう。つまり、そこには、氣があるが、同時に、無いのである。
 しかしながら、一般的には物質的世界に慣れてくると、つまり、大人になると、精神性、超越性を排除して生活するので、結局、実点には氣、精神、超越性がないようになってくると言えよう。これが今の解明である。





魂と感覚:光と闇の共振体と精神

テーマ:art & design

今は予見のみ。
 例えば、バッハの音楽を聴くと、すぐ精神を感じる。つまり、聴覚を介して精神に結びつく。ということは精神と感覚は結びついていることになる。
 しかし、一見連続的であるが、そうではない。精神と感覚とのつながりの力学をどう見るべきか。
 思うに、そもそも感覚とは何かが問題である。直観では、光と闇の共振が感覚を形成するのであり、それが外界の感覚的刺激を得て、感覚受容するのである。
 例えば、光を見るとしよう。光は視覚に入り、光と知覚される。しかしながら、視覚は光と闇の共振感覚とするならば、受容された光とは実は光且つ闇ではないのか。正確に言えば、光と闇の共振体ではないのか。
 つまり、もともと、光とは闇と一体ではないのか。それが、知覚されたとき、感覚器官は共振体を受容するのであり、それが、光だけでなく、闇をも感じ取るのではないだろうか。否、光と闇の共振体を感じ取るのではないだろうか。
 それは当然、光と闇の共振体であるから、精神として感受さるのではないだろうか。
 バッハの音楽に戻せば、それは、単に音響ではなく、音と非音の共振体ではないのか。それが、聴覚で感受されたとき、その共振体を感じて、精神を感じ取るのではないのか。
 あまりうまく言えていない。後で再考したい。
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