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2012年01月30日 (16:23)

感覚の至高体験凸iと凹iの関係:極限の凸iと凹iは共振する:ロレンスの光と闇の王冠哲学について

感覚の至高体験凸iと凹iの関係:極限の凸iと凹iは共振する:ロレンスの光と闇の王冠哲学について

テーマ:manichaeism: 哲学

以下の生成門氏の「凸iの至高体験、陶酔、没入といった光の強度が高く、対象との一体感の高い位置」(強調はResurrectionによる)は、D. H. ロレンスの感覚的絶対的体験を解明するものだと直観した。
 私はこれまで、ロレンスのその意味がよくわからなかったのである。確かに、生成門氏のように捉えれば、明晰である。
 また、それで、「わたし」の至高性であるともロレンスが言っていたことも理解できる。
 しかしながら、ロレンスはそれを感覚の「闇」と表現しているのである。これが謎である。
 少し説明すれば、ロレンスの王冠哲学は、ライオンとユニコーンの相克的闘争に基づくが、前者が感覚で、後者が精神である。そして、それぞれ、闇と光なのである。
 今の私の説明は、凸iの至高体験、光の最高強度であるが、思うに、対象との一体感とは、実は他者凹iとの一体感であり、虚MPの差異共振ないし凹を指していると思えるのである。
 だから、最強度の凸iとはとりもなおさず、最強度の凹iとの一致を意味すると考えられる。だから、光=闇の至高体験ということになるだろう。
 つまり、対象との一体感には、凹iとの共振が入っているということである。また、それは、超越的存在(凹、マイナス1)的だるということである。
 そうならば、ロレンスのユニコーンの光、精神はどうなるなのだろうか。ロレンスはそこに、非自我を見て、他者だけの世界としている。つまり、凹iの世界である。
 しかし、そこには、もはや一体感はなく、外部の他者がいるのである。だから、それは、生成門氏の視点では、身体凸(+1)となると考えられる。だから、それは、現象光の光の世界と言えよう。
 つまり、ロレンスはユニコーンの光=精神で凸(+1)を意味しているのであり、凸iの光、あるいは、凸i*凹iの差異共振の超越光を意味しているのではないということになる。
 以上のようにざっと考えて、ロレンスの王冠哲学の長年の謎が解明されたように思う。獅子(感覚=闇)VS一角獣(精神=光)の絶対的矛盾の相克は、実 は、凸iの最強度、最高度と凸(+1)との相克だったのである。そして、凸iの最強度とは、凹iを含むものであり、差異共振化、即非共振化であり、 media point化であり、第三象限や凹を指すものと考えられる。
 また、さらに、ロレンスがキリスト教と近代科学を結びつけて考えていたこともこれで判明する。キリスト教は、王冠哲学では、一角獣=精神=光に当たるの であるが、それは凸(+1)の物質体なのである。だから、近代科学に結びつくことになるのである。(あるいは、ロレンスの光は生成門氏の視点から言えば、 凸iの強度が弱化した位置のもの、凸の強度が増加した位置のものとも考えられる。)
 とまれ、整理すると、ロレンスの感覚=闇(ライオン)は、凸iの最強度による対象=他者との一体性(即非共振)に拠るものであり、最強度の凸iを指していることになる。つまり、最強度の光である。
 それに対して、ロレンスの精神=光(ユニコーン)は、最強度の光はなく、凸(プラス1)が強度も帯び出したときのものである。極限では、凸の最強度の場合である。物質主義である。
 それは、言い換えると、同一性化された凹iであり、物質となった他者のことである。これこそ、正に、近代科学=唯物科学の対象に相応しいと言える。
 結局、ロレンスの闇=超越光だったのである。そして、ロレンスの光=(現象光=)物質的対象・物質体であったのである。
 最後に強度の衰えた光であるが、それは、生成門氏の第一象限の光であり、ロレンスの光に通じるものと考えられるが、それと私が考える現象光との関係について考えてみたい。
 今のところ、二つの考え方がある。一つは、実MPにおいて、超越光が現象光=可視光へと変換されるというものである。これは、差異共振光=超越光とは絶対的に区別される。
 そうならば、この現象光=可視光がロレンスの光に当たると言えよう。(そして、ロレンスの闇は当然、超越光=差異共振光である。)
 もう一つの考えは、実MPにおいて、差異共振は凸i主導性によって作用しているので、凸iの光が現象光=可視光になるというものである。この場合、凸iの光が凹iの闇に衝突して、自己反射して、同一性の光=現象光=可視光を発出すると考えられる。
 この二つ目の場合であるが、現象光は、凸iの原光とは異なると見ないといけない。(先には、同一であると述べたが、訂正する。)
 つまり、凸iの光は差異的光であり、現象光のような同一性的光(物質的光)ではないと考えられるということである。換言すると、差異的光の凸iの光は、 実MPで、同一性の光=物質的光=現象光=可視光に変換するということであり、二つの光の区別が為されなくてはならないということである。
 ここで飛躍して、二つ目の光について考察すると、これはこれまで、原光と呼んだが、純光と呼んでもいいだろう。そして、対の原闇であるが、それも純闇と呼ぶことができる。
 つまり、純光凸iは常に、対極の純闇凹iと極性を形成しているのであり、純光・即非・純闇、極言すれば、純光=純闇である。
 そして、繰り返すことになるが、生成門氏の凸iの至高の光は、正に、純光であり、それは、即、純闇との差異共振=超越光を意味すると考えられる。
 二つ目の考えに戻ると、凸iの純光が主導性となる場合とは逆に、凹iの純闇が主導性の場合がありえるだろう。その結果は当然、光ではなく、「闇」である。問題は、純闇が純光と同様に、自己反射するのか否かである。
 直観では、純闇は純光に当たり、自己反射はしないで、受け止めるのである。純光を受容するのである。つまり、差異共振化するのである。だから、純闇が主 導的な場合は、純光が主導的な場合とは異なり、差異共振=超越光が生起して、第三象限に向うと考えられるのである。(やはり、これが、重力、dark matter, dark energyと関係しそうだ。)あるいは、精神の形成である。あるいは、マニ教の光の種子である。
 まとめると、二つ目の考えをとるとき、即ち、凸iの純光の主導性の場合と凹iの純闇の主導性の場合の二つの場合を想定するとき、おそらく、同時生起的に、同一性光=物質光=現象光=可視光と超越光=精神光=不可視光が発出するのである。
 以上全体を整理すると、一つ目の視点では、超越光と現象光の不連続性を認めて、実MPにおいては、現象光の発出を見ると考える。そのとき、純光凸iは現象光の裏面に隠れているだろう。
 二つ目の視点は、純光凸iの主導性のときは、同一性光=物質光=現象光=可視光が発出し、純闇凹iが主導的な場合は、差異共振光=超越光=精神光=不可視光が同時生起するということになる。
 二つの考えは、結局、一つに収斂するだろう。即ち、純光凸iが主導的な場合は、実MPから現象光が発生するが、現象光にいわば裏面に純光が隠れている。
 そして、純闇が主導的な場合は、実MPは、空となるが、差異共振が生起して、超越光=精神光=不可視光を内発するのである。
 結局、純光凸iと純闇凹iの主導性の変化であるが、基本的には、常時交替していると思われるが、ある時代には、純光が支配的であり、ある時代には純闇が支配的であると言えよう。前者が例えば、近代であり、父権的時代であり、後者は前近代や母権的時代と言えよう。
 結局、問題であった、純光凸iと現象光(実MPの光、又は、⇒凸の⇒の終点の光)は全く異なるということである。
 だから、超越光(超光)と純光と現象光の三種類の光があるということになるのである。それは既述したことに合致する。
 

参考:
[805] 人間は再現性の足りない部分を想像力で補う

From: 生成門
人間は再現性の足りない部分を想像力で補う
<四次元能版:新世紀エヴァンゲリオン:ガウス平面上の認識位置特定システム(GPS:Gaussian plane Positioning System)>

45度の位置の基準を示そうとしてきたのですが「乾燥したワカメは蘇る」、「外が内になる」、「絶対位置はない」という探求の結果、なんとも頼りのない「曖昧なノンフィクション」という結論になってしまいました。

「写真の認識を位置づける」「写真は自己を表出させる」「プロの写真家の自己表出」「写真も表現された内容で位置が変わる」では、第1象限の特徴を浮き彫りにしました。

気になるのは、「曖昧なノンフィクション」という中間の位置の問題です。もっとましな基準の示し方はないのでしょうか。

第1象限は「私」の認識です。

凸iの至高体験、陶酔、没入といった光の強度が高く、対象との一体感の高い位置から、次第に、言語の認識になると光の強度が弱くなって自己表出が出てきます。自己表出の最大の位置は+1であり、物質化(現象)です。

どんな認識も固定されることはないので、凸iから+1移動したように、その逆の+1から凸iへ移動することもあるでしょう。又、他の象限に飛び火することもあるでしょう。今は第1象限を中心に探求しています。その第1象限の探求も終わりに近づいてきています。

第1象限の探求を終わりにするためには、やはりなんと言っても中間の認識の位置を極めなければなりません。

中間とは強度が(0.7,0.7)の位置です。

光の強度:100%とは光による虚軸(凸i)であり、陽の精神性・関心度最高・視線強度最高・対象との完全一体感、無言語・感動と至高の無距離と無時間の 4次元世界を示すバロメータでしたが、それが右にシフトして中間(0.7)になると、光の強度が下がった分、身体性の強度が上がってきて、強度が (0.7,0.7)で釣り合います。

身体性の強度:100%とは外部世界と繋ぐ出入り口でもあり、実軸(+1)であり、対象再現性最高・自己表出度最高・対象との完全分離、言語による表現、距離と時間の3次元の現実、日常の物質世界(ノンフィクション)を示すバロメータです。

第1象限の認識を極めるためには、凸iでもなく+1でもなくその中間を極めることが必要でしょう。その中間を象徴的に「曖昧なノンフィクション」という言い方をしたのですが、言語による表現の特徴をそう認識したものです。

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ガウス平面上の認識位置特定システム(GPS:Gaussian plane Positioning System)
(画像付きは以下を見られたい)
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11150288276.html

テーマ:PS理論:プラトニック・シナジー理論

以下、生成門氏のガウス平面上の認識位置特定システム(GPS : Gaussian Plane Positioning System)は画期的である。オイラーの公式を用いて、単位円上の複素数で多様な認識を数学的表記できるのである。

[788] 日常言語の限界を補う言語(複素数)

From: 生成門
日常言語の限界を補う言語(複素数)
<四次元能版:新世紀エヴァンゲリオン:ガウス平面上の認識位置特定システム(GPS:Gaussian plane Positioning System)>

人間の認識を複素化する前に、人間自体を複素化しておきましょう。

人間は精神と身体が混成した複素数的存在であると言いましたので、人間を複素化することには何も問題があるようには見えません。

人間を複素化することと人間の認識を複素化することはまったく同じ次元の問題だと思うのです。

しかし、デカルトでさえ、人間を精神(我思う存在)だと認識したのですから、安易に考えては危険です。デカルトの認識は片手落ちだったのです。四次元能では、同じ轍を踏まないように、注意していきましょう。

四次元能では人間を精神的身体と認識します。これを複素化すれば良いことになります。

つまり、<人間>を<精神的身体>と<認識>するということですので、これをe^iθ= a+ibを使って表現すれば良いということになります。

人間=精神的身体=認識=e^iθ= a+ibです。認識=e^iθ= a+ibを分解すると、
認識=実数的認識(見える)+虚数的認識(見えない)となります。

分解しても、二元的に分離はされていません。+で結合されているし、矢印(⇒)という方向と力を持っているのでe^iθは失われていません。

aとbに分解しても、いつでも、+で合成ができるということです。

複素化するということは、言い換えると、複素数として認識するということであり、実数として認識することと虚数として分解して認識し、合成することです。

つまり、

複素化された認識=実数化された認識+虚数化された認識

です。

一方、人間の認識を複素化すると、

人間を精神的身体と認識したのですから、これを実数化された認識と虚数化された認識に分解すると、実数化された認識とは身体的認識であり、虚数化された認識とは精神的認識となり、これを合成すれば、

人間の認識=精神的身体の認識ですから、

精神的身体の認識=身体的認識+精神的認識となります。

認識されたものと認識には平行関係(認識→認識されたもの)にありますので、

精神的身体=身体性+精神性

となります。

纏めると

e^iθ       =   a      +    ib
――――――――――――――――――――――――――
複素化された認識  = 実数化された認識 + 虚数化された認識
認識       = 実数的認識   +  虚数的認識
精神的身体の認識 = 身体的認識     +   精神的認識
精神的身体    =   身体性     +    精神性


これで、人間自体の複素化と人間の認識は、対応しているので、あまり、区別しなくてもよさそうです。


この対応関係を複素平面(ガウス平面)上の認識位置システム(GPS:Gaussian plane Positioning System)の原理1と呼ぶことにしましょう。


さて、ここで、まだ明らかにして来なかったものがあります。

それは認識するには誰か(主体)ということと何を認識するのかという二つの側面です。

自明のことですが、認識する主体とは私(後で自己と他者に分離しますが)であり、と認識するものは、つまり、対象(私も対象になります)です。

これが暗黙の前提ですが、これを暗黙の前提にしたままでは、先に進むことができなくなります。後で、言及します。

今の段階では、私が認識するためには、私の観察が必要であり、他者が認識するためには表現が必要であり、そのためにはどちらも言語(記号)が必要だということです。

日常言語では、精神と物質を融合するためには、限界があると言ったと思います。

その限界を乗り越えるためにわざわざ複素数を持ち出してきたのですが、ここで、また言語必要だと言いました。矛盾していると思うでしょうか。

精神と物質を融合するための言語(複素数)と、人間の有り様を表現するために言語(日常)は別ものです。

複素数は必要条件ですが、言語(日常)は、十分条件なのです。ですから、両方を用いることは理にかなっており、併用することは矛盾しないのです。

人間の有り様を表現する言語とは、生き様であり、人間そのものを特徴付けるものです。

人間は言語によって人間(精神的存在)になったとも言えるのであり、それを言語が促進したとも言えるのです。

それを証明するためには、生きる現場において言語がどのようにして生まれたか、認識する道具としてどのように貢献したのかを明らかにすることです。

それが言語の進化を知ることであり、その進化の様子をGPSに位置づけることです。

当然ですが、言語水準には低い段階から高い段階までありますから、それをGPSに明確に位置づけることで、人間がどのようにして生きてきたか、どのように認識能力を獲得してきたかが分かるということです。

言い換えれば、人間の生き様の変化や認識能力の獲得は、言語の進化と一致しているということです。
言語の進化を日常言語だけで説明してしまうと、又ジレンマ陥ってしまいますが、今やGPSを使うところまできましたので、日常言語の限界を心配する必要はありません。

むしろ、言語の進化を複素化することで、日常言語の限界も明らかになるでしょう。

そこで、言語がどのようにして発生したのかを探求(複素化)して見ましょう。複素化という方法は、これまでの言語学が出来なかった新たな認識の地平を浮き彫りにしてくれるでしょう。

続く
[786] 人間の認識の基本に迫る

From: 生成門
人間の認識の基本に迫る
<四次元能版:新世紀エヴァンゲリオン:ガウス平面上の認識位置特定システム(GPS:Gaussian plane Positioning System)>



人間の認識の基本構造、GPSの原型を使って、人間がどのように認識するのかをしっかりと理解しておきましょう。

表現された物には、「指し示し」が含まれているということ原則を忘れないようにして下さい。

「指し示し」は複素数で示すことが出来るのですが、それは見えるものと見えないものが含まれているからです。見えないというのは虚軸に向く意識が含まれているということです。

又、陥りやすい間違いは、凸i,凹i,+1,-1の特別な場所だけに偏って解釈することです。確かに、この四つは特別な場所だけに認識の特徴を表しています。

しかし、そこだけに絞ると、認識の本質を見失ってしまうのです。
認識の本質とは見えるものと見えないものとの混成なのですから、複素数の本来の姿a+ibで解釈すべきだということです。

解釈とは認識の仕方のことですから、認識の基盤をしっかりとしておかないと、親亀がこけたら小亀もこけるのは目に見えています。

そこまで考慮して探求しなければ、従来のアニメが何故、第2象限で、実写アニメが第1象限なのか、又、マネキンが第1象限で、ガガの写真が何故、第1と第2に跨っているのかについて正しく理解することできないのです。

確かに、+1を現実的、-1を非現実的と想定すれば、従来のアニメが非現実(現実とは遠い表現)であり、実写アニメは現実的(まるで現実のように見える)ですから、この解釈は簡単であるように思えてしまいます。

しかし、ガガの場合(第1と第2象限に跨る)はどうでしょうか。現実的と非現実的な中間にあると解釈もできるのですが、やはり、後付(そう説明されたから納得できる)のような気がするのです。

もっと複雑な対象の認識や第3、第4象限の認識についてはどうでしょうか。数学が何故、第3象限なのかをどう説明したらよいのでしょうか。これは簡単ではありません。

何故、そこに位置づけできるのかの合理的な説明ができなければ、森羅万象についての応用など、とてもできないだろうと思うのです。

ですから、GPSの原型が必要なのです。

もう一度、「人間の認識の基本構造:GPSの原型」を良く見てみましょう。


GPSの原型は、複素平面上の単位円を見たものを認識したものとしてあたかもプラネタリウムのスクリーンに映し出したかのように喩えた図です。

上半分は光によって見えたものを認識したものとして、下半分は光によらないで認識したものという区分けをしています。

この認識の図は、ある認識の瞬間の断面を描いた図であり、スナップショットのようなものです。

実際は、超光速で回転していると考えてください。

この回転しているイメージを式で表現すると、e^iθとなります。この表現は複素数の波であるという意味になります。

つまり、認識とは波であるという理解です。
もっと、言えば、認識をe^iθで表現するということは、認識を複素化することであり、指数化(指数関数)するということの意味でもあります。

この指数関数の性質は、いわゆるねずみ算に増える複利や人口の増加を示すマルサスの法則と呼ばれ、森羅万象を説明する上で重要な性質なのです。



一方、複素数はa+ibと表現することもできます。

e^iθと表現方法が異なるだけで、実質はまったく同じ(e^iθ= a+ib)ですが、応用面ではそれぞれにメリットがあります。

e^iθの場合、θの値を決めると原点と円の間を結ぶ矢印(⇒)どこにいるかが決まり、特に、四つの値(凸i,凹i,+1,-1)を特別な位置として意味づけることが出来ます。

a+ibは矢印(⇒)を二つの要素(実数と虚数)に分解することですので、これに意味(見える・見えない)を与えことができます。



又、e^iθ=cosθ+isinθ(オイラーの公式)でもありますので、a+ib=cosθ+isinθからa=cosθ,b=sinθとなり、θの値が決まると自動的にa,bも決まります。

ちなみに、

θ=0:cos0+isin=cos0=1   (a=1,b=0)
θ=1/2π(90度):cos1/2π+isin1/2π= I  (a=0,b=1)
θ=π:cosπ+isinπ= cosπ=-1 (a=-1,b=0) 
(これが有名なオイラーの公式:e^iπ=-1)
θ=3/2π(270度):cos3/2π+isin3/2π=- i (a=0,b=-1)

となり、複素平面の特別な位置(i,-i,+1,-1)の値が決まります。

これらの四つの値(i,-i,+1,-1)をどのように意味づけるかで、解釈が違ってきますので、「意味づけ」が複素化する場合の最も重要な作業です。

既に、PS理論では、iを虚軸、自己、光、陽の精神、-iを他者、闇、陰の精神、+1を実存、存在、-1を超越的存在などと決めています。

では、特別な位置(i,-i,+1,-1)以外はどう扱えばよいのでしょうか。

もちろんθを決めれば、e^iθの位置も、それと同時に(a,b)のセットも決まります。

森羅万象に対する認識は特別な位置(i,-i,+1,-1)だけに現れることはありえません。認識は波なのですから、全ての領域に現れるはずです。

それを便宜的に四つの象限で区分けしますが、θはいくらでも無限に分割できますので、認識もいくらでも無限に表現できるということになります。

実際、海舌氏は易の64パターンを認識のパターンに重ねた表現をしています。


ここまで行くには時間がかかりますので、当面は四つの象限でいきます。
続く
http://www.c-player.com/ad00178/message/201201?page=3&format=time
シムダンス「四次元能」

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