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2012年04月10日 (23:24)

カントの純粋悟性論と同一性世界:純粋理性と凸i主導のmedia pointにおける凹iの浸透様態

カントの純粋悟性論は明らかに、同一性、量、物質の世界を超越論的に捉えているものである。凸iの同一性が支配している世界である。だから、凸i*凹凹i⇒凹(-1)である。これは先にも述べたので、これ以上説明しない。
 問題は、凹iを凸iの同一性支配から解放したときに事態である。これは当然、不連続的差異論の事態であり、また、PS理論の事態である。
 これまで差異共振して、凸i*凹i⇒凸(+1)になると述べた。凸(+1)は精神である。
 思うに、解放された自由になった凹i(「時間」)がもし差異共振しない場合はありえるのだろうか。もし可能ならば、それはどういう事態なのだろうか。
 思うに、あり得るならば、それは、第四象限、コスモス、イデア界を意味するのではないだろうか。
 この問題はここで留める。
 次に、カントの純粋理性の問題について簡単に予見を述べたい。
 純粋悟性は凸i支配を意味する。それに対して、純粋理性はその超越論的なものである。つまり、それは、第一象限を意味するかもしれない。
 あるいは、簡単に言えば、凸iと凹iとの「差異」がアンチノミー、背理になっていると考えられる。もっとも、カントにおいて主導的なものは凸iであり、凹iが形成する差異共振をカントは認めていないと考えられる。
 しかしながら、先に述べたように、media pointにおいて、凸iに対して、凹iに拠る差異共振が浸透しているのであり、その浸透において、カントは差異共振の曖昧な像を予感して、純粋理性の問題を捉えているようにも思える。
 そう見ることができるならば、カントにおいて、ポスト・モダン、正確に言えば、構造主義抜きの同一性と差異の問題をカントは先駆的に扱っていたことになる。
 ポスト・モダンが混乱したのは、超越論的なもの、認識問題を、同一性、量的視点が排除してしまったからだと思われる。
 とまれ、カントの純粋理性とは、凸i主導のmedia pointにおける凹iが浸透するときの認識であると思われる。
 そうすると、PS理論ははるかに、カント哲学を超えていると考えられる。
 そう、以前述べたように、フッサール現象学の超越論的主観性は、カント哲学を超えて、凹iの浸透自体を捉えたように思える。しかし、完全に純粋化したかは疑問の余地がある。

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