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2012年04月18日 (10:42)

思考実験:光の問題:光と物質:視覚とは何か:視覚としてのmedia point

凸i*凹i⇒凸(+1)     ・・・・・ A

において、右辺が光である。つまり、光とは同一性(「物質」)と差異(「精神」)によって形成されているのである。
 しかし、自我(凸i)は、光を物質(光子)としてのみ捉えるのである。
 
凸i*凹凹i⇒凹(-1)      ・・・・・ B

の自我方程式(と呼ぶことにする)において、右辺は物質主義、利己主義、合理主義、自我主義等を意味すると考えられる。近代・現代人はこれに陥っているのである。
 問題は物質である。物質はどう記述されるのか。
 同一性凸iを「物質」と上記している。問題は、同一性凸i=物質としていいかどうかである。先にはそう考えたのであるが。
 直観で考えると、同一性凸iが内的他者凹iに否定的に接するときに、物質化が為されるのである。
 つまり、凸i*凹凹i⇒凹(-1)である。だから、物質は右辺の凹(-1)であると思われる。
 そうすると、自然は単に差異共振しているだけではなく、同一性主導があることになる。ここが極めて重要なポイントとなる。
 もし、自然が差異共振事象だけならば、すべては光となり、物質は形成されないだろう。
 だから、これまで、自然は差異共振現象であるとした私の考えを訂正しないといけない。
 結局、自然現象とは、差異共振現象=光と同一性現象=物質の両面をもっていることになる。簡単に言えば、自然現象とは光と物質の複合体である。
 ところで、このように考えると、z軸は不要になり、再び、ガウス平面だけで説明できるようになる。
 では、自我凸iはどのようにして、光を認識するのか。media pointが原点であり、そこが差異共振事象の起点である。同時に、当然、同一性事象(物質事象)の起点でもある。
 問題は視覚とは何かである。
 ゲーテが光が視覚の原因であると述べていたと思う。そうならば、視覚は、差異共振事象が形成したものである。
 直観では、視覚とは差異凹iの、同一性凸iにおけるいわば飛び地である。つまり、凸iと凹iのなんらかの連結において視覚が形成されると考えられる。
 同一性凸i主導だけでは、視覚は形成されないし、差異凹i主導だけでも、視覚は形成されない。両者のなんらかの結合が視覚形成のために必要である。
 この結合力学はいかなるものか。
 というか、端的に、media pointが視覚ではないのか。結合力学は必要ないのである。
 media pointは同一性凸iの極と差異凹iの極、両極、双極、対極をもっているのであるから、これを視覚として捉えるのは的確であると考えられるのである。端的に、視覚は正に特異点である。聴覚はそれに対して、より差異に傾斜しているだろう。いわば、視覚の裏側である。(ついでながら、古代ギリシアのアポロとは正に、media pointの表現であろう。ディオニュソスとは、同一性にとらわれない、正に、差異共振現象を指しているだろう。つまり、アポロから同一性側面を取ったものであろう。ニーチェの混乱は両者の二元論化にあるだろう。D. H. ロレンスのdark sunとは正に、差異共振事象としての光である。そう、視覚であるが、media pointの同一性側面としての視覚は、光を差異共振事象としてではなく、同一性のフィルター[精神的フィルター]を通して見ていると言えよう。思えば、以前、超越光と私がしきりに述べたが、それは、media pointの差異側面から見た差異共振事象=光[dark sun]のことであると言えよう[dark Godは凹iであろう]。光はルドルフ・シュタイナーから言えば、アフラ・マズダ=キリストである。)
 とまれ、以上から、自我凸iがどのように光を知覚するのか解明できた。つまり、自我は視覚であるmedia pointを介して、光を主に同一性的に、従的には差異的に、知覚するのである。
 ここで、プラトンの有名な洞窟の比喩に言及すると、洞窟とは正に、同一性であり、その壁の影像とは、正に、凹(-1)である。そして、洞窟外の太陽(善のイデア)とは、正に、凸(+1)である。そして、洞窟の穴がmedia pointである。
 最後に光と宗教の関係に簡単に触れよう。
 いったい、差異共振事象の起因である凸i*凹i(的確には、凹i*凸i)の「存在」はどういうものなのか。始めから存するのか、それとも形成されたものなのか。
 ここで、凹(-1)の問題が出てくる。凹(-1)の平方根が凸iと凹iである。そうすると、物質である凹(-1)が差異共振事象の起源であることになるだろう。
 これはどういうことなのだろうか。いわば、摩訶不思議である。もし、そうならば、唯物論である。光も宗教も物質が根源になるのである。
 しかし、そうではないだろう。
 凸i*凹iを産出するのは、なんらかの超越性であろう。ここで、ガウス平面に直交する軸が必要になるのかもしれない。Kaisetsu氏の言う超越軸である。
 先にフレミング右手の法則の視点を提起したが、ここではフレミング左手の法則を上記の視点から適用すべきだろう。
 即ち、磁界の方向をz軸、導体にかかる力をx軸の凹(-1)、そして、電流の流れる方向をy軸の凹iに見るのである。
 導体にかかる力を物質の力(重力)とすれば、光はその正反対の方向に位置する。(これで、重力が光を曲げることが説明できよう。そう、導体にかかる力の方向はブラックホールの方向であろう。そして、おそらく、dark matterは存在しないかもしれない。それに対して、dark energyは明らかに存するだろう。それは正に、差異共振事象としての光を意味しよう。つまり、今日の科学は、光の同一性的側面、物質的側面しか見ていないので、光の差異共振本体を捉えていないということになるのである。)
 ということで、超越軸を仮説してそこが凸i*凹iの起源であると考えたい。超越軸の差異共振方程式(と呼びたい)は、

凸j*凹j⇒凹i+凸(+1)   ・・・・・ C

である。これこそ、宗教的な光方程式(と呼びたい)と言えよう。
 では、凸jと凹jとは何か。あるいはどういう神霊なのか。先に述べたように、凸jは「父神」で凹jは「母神」と考えられよう。しかしながら、差異共振は、主導的根源は凹j、「母神」に存すると考えられるのである。
 そう、それが母権的文化、母権的世界である。本来のアジア、東洋の文化世界である。
 それに対して、一神教は「父神」の凸jが主導的になって形成されたものである。即ち、

凸j*凹凹j⇒凸i+凹(-1)   ・・・・・ D

ではないだろうか。(因み、創世記におけるヤハウェは凸jであり、エローヒーム[神の複数]は凹jと考えられる。)
 そして、この場合はフレミング右手の法則を手がかりすることができると思う。即ち、電流の流れる方向が凸iとなるのである。(ひょっとして、陽電子の流れと言えるのかもしれない。)
 だから、D式は父権的一神教方程式と呼べよう。そして、C式は母権的多神教方程式とも呼べよう。
 ということで、これまでの諸論考をだいぶ整理できたと考えられる。結局のところ、人間認識図は基本的には左右逆転にすればいいことになる(人間認識図の構成は左右逆転すれば、ほぼそのまま使用できよう)。また、ガウス平面に直交する超越軸z軸をつければ、ほぼ十全な認識図になると考えられる。それは、宗教的認識図と呼べよう。それは、超越論的ではなく、超越的認識図とも言えよう。


参照:


Flemings_Left_Hand_Rule.png



フレミングの左手の法則 - Wikipedia



Flemings_Right_Hand_Rule.png


フレミングの右手の法則 - Wikipedia


人間認識図
《ガウス平面で表した人間認識の図》
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