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2012年04月29日 (11:22)

同一性と模倣欲望:同一性暴力力学・父権的暴力と民主主義的資本主義社会

視覚と感覚物質同一性世界

テーマ:manichaeism: 哲学

以前、視覚や視覚的美はどうして、自我(同一性自己)と結びつくのか、疑問を呈した。
 視覚的美については後で述べるが、私の疑問は一種愚問であった。何故なら、視覚と感覚物質同一性世界が密接に結びついているからである。視覚は物質世界と同一性の点で親和的なのである。
 では、視覚的美との結びつきはどう説明できるのか。
 やはり、これも、感覚物質同一性世界との結びつきでほぼ説明できよう。ただし、美的感覚は、media pointと結びついているのである。media pointは単に感覚だけではなく、感情と深く結びついている。つまり、凹iの側面である。
 しかしながら、凸iの同一性的側面が強いので、視覚的美も自我と結びつきやすいと考えられる。





同一性と模倣欲望:同一性暴力力学・父権的暴力と民主主義的資本主義社会

テーマ:manichaeism: 哲学

リマスターされ、ブルーレイになった映画の古典『太陽がいっぱい』を見た。
 これは実に理論的な作品である。自分のライバルを模倣し、且つ、ライバルを否定する(殺す)ストーリーである。
 ルネ・ジラールの模倣欲望という理論に適合する作品である。
 これをPS理論から解明したい。
 同一性主義は他者を否定するということで、わかりやすいが、この場合の他者模倣と他者否定をどう説明するのかである。
 PS理論から丁寧に見てみよう。凸i(同一性、自我)は、凹i(他者m差異)を知覚する。しかし、同一性・自我は他者・差異を自己自身に取込むことができない。そこで、前者の後者への対応の主要な一つは、後者を同一性化することである。つまり、後者を同一性的に否定することである。他者・差異の否定である。これは極端に言えば、破壊である。とまれ、これで、他者否定は説明できた。
 次に、他者模倣についてである。
 これは、劣等感コンプレックスと関係するだろう。つまり、同一性・自我Aより、他者Bがなんらかの点で強者、優れている者である場合を考えよう。
 このとき、AはBに対して、嫉妬を感じる。そして、悪化すれば、敵意、さらに殺意を感じる。また、逆に、Bに対する支配欲も生じよう。
 とまれ、もう少し条件が必要である。AとBはライバル的な横並びの関係がなくてはならないだろう。最初から、上下、高低の隔たりがある場合は、否定的になることは少ないだろう。言い換えると、AとBとの存在としての同一性が存することが必要である。
 結局、同一性同士の関係の中に、他者・差異が現われるときに、ライバルへの嫉妬等の否定的感情・欲望・意志が生まれてくると考えられる。(『太陽がいっぱい』で言えば、当然、トムとフィリップの関係であり、フィリップの強者性(他者・差異性)はマルジュという恋人やボート等を持っている点である。)
 ここで他者模倣であるが、出発点において、AとBとの同一性があるので、AとBは自分を相互に重ねると言えよう。つまり、A=Bである。
 しかしながら、Bには、Aにはない有利さがあるのである。それ故に、AはBを否定しようとするのである。つまり、ここで、同一性模倣(他者模倣)と他者・差異否定が同時生起するのである。
 つまり、ライバルを否定して、ライバルの他者・差異性を模倣する(横取る)という事態が生じるのである。
 これで解明できた。結局、同一性による否定にしろ、他者模倣にしろ、根本は同一性力学、同一性暴力力学のしからしめる事態である。これは父権的暴力と言い換えることもできる。
 政治・経済的に言えば、民主主義化された資本主義社会は、この同一性暴力力学・父権的暴力が支配的に発現する場であると考えられる。

追記:A=Bについてもう少し説明が必要である。同一性の一致とは、他者凹iの位置に凸iが来ることを意味する。
 この他者凹iの位置がポイントである。A=Bにおいて、BはAにおける他者凹iの位置を占めているのである。そうでないならば、同一性暴力力学は作動しない。
 では、凹iの位置にA=Bを置く同一性力学とは何かを考える必要がある。
 本来、他者・差異であるBを同一性化(同一化)する力学とは何か。それは端的に、Aのもつ同一性力学であろう。他者・差異凹iを否定して、他者・差異凹iを同一性化しているのである。
 つまり、他者・差異であるBをそもそも同一性化している暴力力学がそこにはあるのである。父権的同一性暴力力学と呼ぶことができよう。カント哲学的に言えば、悟性暴力である。
 結局、模倣欲望とは、端的に、同一性暴力力学が原理であると言えよう。他者・差異の否定とは、他者・差異の模倣なのである。
 簡潔に言えば、否定とは模倣であるということになる。これは、偉大な法則ではないだろうか。


参考:
太陽がいっぱい (映画) - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/太陽がいっぱい_(映画) - キャッシュ 類似ページ
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太陽がいっぱい』(たいようがいっぱい、仏:Plein soleil)は、1960年のフランスとイタリアの合作映画。主演:アラン・ドロン、監督:ルネ・クレマン。 パトリシア・ハイスミスの小説「才人リプレイ君」(原題。邦訳本の題名は『太陽がいっぱい』、『リプリー』)を原作と ...

ルネ・ジラール - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/ルネ・ジラール - キャッシュ 類似ページ
一般公開で +1 しました 取り消す
ルネ・ジラール(René Girard、1923年12月25日 - )はフランス出身の文芸批評家。アメリカ合衆国のスタンフォード大学やデューク大学で比較文学の教授を務めた。いわゆるミメーシス(模倣=擬態)の理論を考案し、欲望のミメーシスな性格の発見によって ...
 






PS理論の生命への応用へ向けて

テーマ:biology

今は余裕がないので、詳述できない。
 結局、生命とは何かを、PS理論的に明快にしたい。簡単に予備考察をすれば、凸i*凹iが生命魂である。これで、植物、動物、人間の生命を説明できよう。
 問題は物質的生命体の形成や意義である。
 物質は凹(-1)で説明できる。では物質的生命体ないしは生命有機体はどう説明できるのか。
 ここで作業仮説であるが、凸i*凹凹i⇒凹(-1)という物質方程式であるが、凸iによる凹iの否定が凹凹iであるが、この否定に対して、凹iからの反発があるはずである。それは端的に、差異共振志向、光形成志向である。
 この志向が物質を巻き込んで物質生命体、生命有機体を形成するのではないのか。
 その巻き込み力学は、media pointに存するのではないだろうか。そう、凸iと凹iが共振するとき、渦巻きや螺旋が形成されると推測できる。このmedia pointでの渦動、螺旋的力学が、物質凹(-1)を巻き込んで、螺旋形態の物質的生命体、生命有機体を形成するのではないだろうか。
 そうならば、生命本体の核とは差異共振性である。そして、それが物質的形態を持っているのであり、その物質的形態を維持するために、食、その他の生命体の活動があると思われる。
 結局、生命も光を志向しているのである。
 今は以上で留める。

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