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2012年05月23日 (08:29)

不連続的差異とはいったい何か:不連続的差異論の再検討:闇と光の共振造化作用

テーマ:不連続的差異論とPS哲科学

もう一度、不連続的差異論に立ち返って、根底から再検討したい。基本は、自我的意識と他者的意識が一般には、連続的(未分化)であるが、両者を意識において切断することで、後者が不連続的差異になるのである。
 この自我的意識から切断され、独立的になった他者的意識(他者性)、不連続的差異は、実際、どういう事象を形成するのか。
 この点については、当然、既に考察して、それは、差異共振様態を形成すると考察しているが、それを今、再検討するのである。
 わかりやすく具体的に言えば、他者的意識=不連続的差異とは、肚の意識である。それに対して、自我的意識とは、頭の意識である。そして、その中間に胸(心胸)の意識があり、それは、media pointと考えている。
 では、独立した肚の意識とは何であろうか。直観では、他者を映す鏡である。他者をダイレクトに受容する鏡である。そう、優れた芸術家は、この能力をもっている。(英国の詩人、ジョン・キーツは、否定的能力negative capabilityを説いたが、これは、言わば、自我を無、空にして、他者を肯定する能力と考えられる。)
 かつては、そこで、「コスモス(宇宙)」を直感したが、今は感じなくなっている(「コスモス」はどこに行ったのか? おそらく、内在化して、一体化して、感じなくなっているということではないだろうか。)。
 とまれ、この他者の鏡の認知力と自我の意識が結合して、思考、認識が形成されるのである。
 そう、両者の間に存する胸(心胸)の意識はmedia pointであり、それは、媒介的な役割をするだろう。一面では他者的意識(肚)であり、他面では自我的意識(頭)である。中継的存在である。
 ということで、独立した他者的意識=不連続的差異は、結局、自我的意識=同一性的意識と対話的協働の関係をもつに至ると考えられる。両者は対話的であるから、常に変動する様態をもつと考えられる。
 不連続的差異は、自我と差異共振するとこれまで考察してきたが、この対話的協働が一つの差異共振であるとは言えよう。
 しかしながら、対話的協働だけでは、差異共振が発出すると考える超光(超光エネルギー)が考えられない。
 そう、ここで陰陽の視点が必要となるのである。即ち、他者的意識(肚)=不連続的差異は、闇darknessであり、自我的意識(頭)=同一性的意識は光lightであるということになる。
 闇と光の「対話」が生起すると考えられる。ここでは、物理学的視点も提起されているのである。
 言い換えると、闇の宇宙dark universeと光の宇宙light universeの交叉がここで形成されているのである。
 そう、闇宇宙は光宇宙に作用して、光宇宙を「侵略」する。光宇宙を闇宇宙に染めようとする。しかし、光宇宙は、それに対して(抗して)、光宇宙を闇宇宙に浸透させようとする。
 ここでは、両者の鬩(せめ)ぎ合いがあるのである。永遠の鬩ぎ合いである。闘争と言ってもいい。しかし、これは弁証法ではない。極性力学である。
 しかしながら、両者のバランスが形成される時点があるだろう。闇の宇宙と光の宇宙の調和均衡点である。
 D. H. ロレンスはそれを聖霊=王冠と呼んだのである。鈴木大拙の即非の論理学と一致しよう。
 ここで整理しよう。闇宇宙と光宇宙の争闘があるが、それは、それなりに、差異共振であり、「波動」を発出すると考えられる。そう、差異共振波動と呼んでいいだろう。
 闇宇宙に揺れたり、光宇宙に揺れたりするのである。闇と光の揺動する波動である。
 これは、数学的に見れば、ガウス平面において、円運動を形成すると見ていいだろう(ここでオイラーの公式が役立つのである)。そして、時間軸を考えれば、円運動は螺旋運動となるのはわかりやすいことである。
 そう、時間軸は、実軸の+1(凸)の領域に相当するだろう。つまり、螺旋運動はガウス平面の実軸の+1の方向に形成されるということになる。
 では、実軸の-1(凹)の領域はどういうことになるだろうか。
 ここが一つの重要なポイントである。ここで躓きやすいのである。光宇宙は自我的意識=同一性的意識であり、それは、他者的意識(闇宇宙)を否定するのである。
 これは上述した闇と光の争闘、差異共振波動とは異なると考えられるのである。
 何故なら、波動ではなく、言わば、凝固・固体化があると考えられるからである。
 そう、ここで、対話的協働と否定を理論・哲学的に区別する必要がある。換言すると、闇と光の闘争、差異共振における対立と他者的意識(闇宇宙)に対する否定を区別しないといけない。
 対立において、「否定に見えるもの」と自我的意識における否定との区別である。そう、前者の「否定に見えるもの」とはいったい何であるのか、これが、重大なポイントである。
 そう、これは、端的に矛盾と言われるものである。論理的は、パラドックス、背理、アンチノミーである。あるいは、鈴木大拙の即非である。
 しかし、これを厳密に詰める必要がある。
 今閃いたが、対立とは極性原理の問題である。極性とは考えたら、対立ではあるが、牽引するのでる。
 異質な、対極的なものは対立するが、同時に、牽引するのである。ここがポイントと考えられる。
 そう、対立的牽引があるのである。造語して、これを対引(ついいん)性と呼ぶことができよう。否定ではなく、対引である。
 元々一体である対立性である。対一性である。
 とまれ、暫定的に、闇と光の闘争、差異共振における「否定に見えるもの」を対引と呼びたい。
 これはまったく否定と異なるものである。それが、自然の生成力学の原理である。
 しかしながら、人間においては、否定が強く存しているのである。つまり、自我的意識=同一性的意識のもつ他者的意識=差異共振意識への否定である。
 つまり、人間においては、光宇宙へ傾斜して、バランスが崩れているのである。端的に言えば、自我・同一性原理の傾斜によって、極性原理がある意味で崩壊しているのである。もっとも、抑圧されていると言った方が正確であると考えられる。
 自我・同一性原理とは、ほぼ物質原理と言っていいだろう。何故なら、それは他者を同一性化するからである。つまり、本来、闇である他者を光化して、モノと捉えるからである。
 そう、ここには、対引性ではなく、否定性が作用しているのである。
 ここで、物質とは何かと考える必要がある。上述の思考から見ると、宇宙・自然は、闇と光の極性原理から形成されるのである。宇宙・自然には物質が形成されるのであるから、闇と光の極性原理は、物質を産出すると考えられる。
 思うに、極性原理の対引力とは、氣と見るといいと考えられる。(ルドルフ・シュタイナーならば、エーテル体である。)
 氣が宇宙・自然を創造形成する根源力と考えられる。
 では、氣と物質との関係はどうなるのだろうか。これも最重要な問題点の一つである。
 直観で言えば、極性、差異共振が「有機体」的宇宙・自然を形成するのである。つまり、基本は無機的な物質ではなく、「有機体」的な物質が形成されるのである。つまり、氣の生命体的形成原理によって物質が形成されるのである。しかし、この物質は生命体に付属するものであり、無機的物質ではないのである。
 闇と光の共振が生命体を形成し、そこに「有機体」的物質が付属すると考えられる。闇と光の共振における氣・対引力が、外在的に螺旋的に物質を形成するのである。内在的には氣・対引力が存しているのである。
 問題は、この外在性である。この形成原理はどういうものだろうか。
 直観では、光が闇と共振する時、物質を形成するのである。つまり、光と闇の共振において、氣的形成が為されるが、そこにおける光の要素が物質を形成すると考えられるのである。
 つまり、共振体における光の要素が物質体を形成すると考えられるのである。光が物質に転化しているのである。
 ならば、闇は共振体において、どうなっているのだろうか。
 直観で言えば、共振体の不可視の部分である。それは何か。思うに、端的に、氣の内在部分ではないだろうか。つまり、氣の外在部分としての物質は光が転化したものであるのに対して、氣の内在部分に闇は転化したと考えられる。
 では、氣の内在部分とは何か。
 どうも、短絡的になったようだ。闇と光の共振であるが、それを氣とするのは、勘違いのようである。そうではなく、それは、宇宙・自然形成力(造化力)と見るべきである。その形成力の外在・外部が物質であり、内部が氣であると考えた方が適切であると考えられる。
 つまり、造化力の外在・外部の物質を形成するのが、光の原理であり、造化力の内在・内部の氣を形成するのが闇の原理であるということになる。陰陽論で言えば、陽が物質を、陰が氣を形成することになる。
 もっとも、陰陽において、陽も氣であるから、陽が物質を、陰が氣を形成するというのは、齟齬である。
 だから、氣という用語を使用すると混乱することになる。
 だから、闇と光、陰と陽との共振作用とは、これまで述べたように、超光形成作用であると見た方がいいだろう。この超光エネルギーが造化力であり、光=陽の転化したものが、その外在の物質であり、闇=陰の転化したものがその内在の不可視の力であると言うことができよう。
 そう、一般には、後者の内在する不可視の力を氣と述べていると考えられるが、上述したように、陽も陰も氣であるから、それを氣とすると、混乱するのである。もし、氣という用語を使用するなら、内在する不可視の力は超氣、合氣、結氣とか呼ぶべきである。そう、超氣がとりあえずいいだろう。
 そうすると、闇と光の共振創造造化作用において、光=陽は、その外在的物質へと転化し、闇=陰はその内在的超氣へと転化するということができる。(ルドルフ・シュタイナーのエーテル体とは、後者の内在的超氣のことと言えよう。)
 最後に、カント哲学の視点から言うと、純粋悟性とは、自我的意識=同一性的意識であり、それは、他者・差異を否定して、同一性化=物質化するのであるが、それは、闇と光の差異共振体を同一性化するものと言える。つまり、それは光=陽の原理であり、闇と光の共振体である宇宙・自然という「有機体」を同一性という物質に断片化する原理である。無機性の原理である。
 それは近代の原理であり、今や、光の原理ではなく、闇と光の共振原理へと立ち返る必要があるのである。そう、トランス・モダンの哲科学へと進化する必要があるのである。
 以上のことは、これまで行なったように、数学的に説明できる。即ち、闇と光の差異共振作用は、

凸i*凹i⇒凸(+1)

であり、

光の同一性的他者否定作用は

凸i*凹凹i⇒凹(-1)

である。
 また、光は光子、電磁波であり、闇は闇子(造語したもの)、重力波(作業仮説)である。

追記:ヘーゲル哲学について一言述べておこう。
 思うに、ヘーゲル哲学とは、上記の闇と光の極性共振原理と光の同一性原理の混淆であり、後者が前者を取り込んでいる形になっていると考えられる。
 つまり、同一性原理が極性共振原理を支配している様態にヘーゲル哲学がなっていると考えられる。
 また、ヘーゲル弁証法の正反合であるが、正は光の同一性原理、そして、反は否定性、そして、合は否定を媒介として、同一性の確定と考えられる。
 つまり、ヘーゲル哲学一般は、かなり、極性共振原理的視点がある。つまり、矛盾によって成長するというような思考においてである。しかし、ヘーゲル弁証法は、同一性原理が中心になって、極性共振原理は後退して、その形骸が正反合になっていると考えられる。

追記2:極性原理における対引(ついいん)であるが、反引、対反(ついはん)と呼んでもいいだろう。
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