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2012年08月07日 (08:45)

ナルシシズム(自己愛)の無双PS原理からの分析:差異共振鏡への自己同一性の投影としての視線

画像等は以下を見られたい。
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11322148805.html

自己愛の「愛」の部分はどう説明できるだろうか。(そう、女性は自己愛の生き物だろう。)
 自己鏡像に同一化することであるが、その力学はいかに。

先ず、「見る」ことを解明する必要がある。

「わたし」が何かを見るとき、「わたし」は何かを投影して、見ているのである。それは何か。

凸i*凹i⇒+1において、⇒を視線と考えることができよう。+1は対象像である。そして、対象像には、自己凸iと他者凹iの共振が内在していると考えられる。

しかしながら、人間は自己凸iに傾斜している存在である。だから、自己と他者との共振とは言え、それは、自己同一性に傾斜した性質をもっていると考えられる。

そのために、外在的他者は、自己同一性によって、連続化されているのであり、他者の差異が否定されるのである。言い換えると、視線において、差異共振像(+1)には、自己同一性が投影されていると考えられる。

そのように考えると、自己鏡像とは、差異共振の心的鏡に映された自己同一性像であり、それが、自己愛(ナルシシズム)の根源と考えられるのではないだろうか。

さて、差異共振の心的鏡と言ったが、それは、無双PS原理ガウス平面では、MPに存すると言えよう。凸i*凹i⇒+1で言えば、⇒の起点に存すると考えられる。

本題の自己愛の「愛」であるが、それは、自己欲望であると言えるだろう。

ところで、ここで、不連続的差異論について言及するのが相応しいだろう。つまり、不連続化のことである。それは、自己同一性化を切断するもので、他者を差異として認めるものである。

問題は、自己と他者の位置である。これまで、凸iを自己、凹iを他者としているのが、ここでまた疑問が生じるのである。

というか、自己同一性化において、果たして、自己優位、他者劣位だけで考えていいのか疑問に感じるのである。

しかし、それは不連続化を行なっている意識において、そう感じるものであろう。しかし、不連続化以前においては、やはり、一般的には、自己優位、他者劣位であると言えよう。

ということで、従来通り、自己は凸iであり、他者は凹iである。

ここで、小説家/哲学者のD.H.ロレンスのキリスト教批判を考えてみよう。それは、端的にはキリスト教の愛の精神の批判である。

キリスト教の愛の精神をロレンスの考えに即して言えば、それは、自己否定における他者肯定である。つまり、凸iを否定して、凹iを肯定するという精神である。

これは無双PS原理から見ると、実に不自然な精神である。何故なら、自己凸iは否定しようなく存する「陽」であるからである。必然的に存する自己凸iを否定すれば、当然、反動がくるのである。それも、病理的な反動である。何故なら、自然的な存在を否定しているからである。そう、自己凸i否定を伴う他者凹iへの傾斜は当然、必然的に、自己凸iの反動を衝動的に呼び起こすと考えられる。

だから、その意味で、ロレンスのキリスト教批判が正鵠を射ていると言えよう。

しかしながら、キリスト教の愛を否定して、新たに「力」を肯定するというロレンスの一時期の考えは、逆に反動的であろう。

無双PS原理から言えば、自己凸iと他者凹iの均衡を達成することが真の個の形成を意味するのであるから、「力」の肯定は誤りである。

ただし、自己凸i(陽)と他者凹i(陰)の均衡であるが、それはMPの新たな開化を意味するので、太極からの、言わば、未知のエネルギーが参入すると考えられるので、それは、確かに、一つの「力」とは言えるのである。

だから、ロレンスの「力」の肯定はまったく間違いとは言えないのである。

では、何が問題なのか。そう、それは、端的に、キリスト教の愛の精神を否定するあまり、他者自体をも否定することになり、自己の極に極端に傾斜したことに存するのではないだろうか。そう、確かに、ロレンスの場合、MPは開化しているが、それと同時に、自己凸i・陽の極が優越化したと考えられるのである。つまり、言い換えると、キリスト教の愛の精神を否定して、逆に、反動的に、自己凸i・陽の極へと傾斜してしまったのである。

ロレンスの精神は二重的であり、一方は陰陽論理的あり、他方は二項対立的であり、キリスト教精神の批判は前者であったが、キリスト教精神の否定は後者であった。そして、後者が主導的になって、自己優位の発想が生まれてしまい、反キリスト教的な反動化が生じたと考えられる。

そのような反動の原因であるが、それは、第一次世界大戦のインパクトと考えられる。その大破壊は、否定的対象であり、この否定の精神において、ロレンスは、二項対立的な反動へと陥ったと考えられる。

さて、最後に、ついでながら、科学の問題に触れよう。ロレンスは、科学はキリスト教精神から生まれたものと考えているが、それは誤謬であろう。しかし、キリスト教の他者主義は関係していよう。正確に言えば、科学とは、私見では、キリスト教的他者精神とデカルト的な自己同一性的精神の結合に拠るのである。

ここで、日本の場合を見ると、当然、キリスト教的他者精神はないのである。故に、日本における科学は、他者性の希薄な自己同一性精神が支配するものになり、西洋の科学とは異なるものになったと言えよう。端的に言えば、自己同一性的、つまり、利己主義的なものになったのである。それは、西洋の科学が本来もっているキリスト教的他者精神が欠落しているので、科学自体を歪めるものになるのである。

とは言え、西洋の科学は、キリスト教精神があるために、ロレンスが批判した反動的な自己の衝動が生じるのである。それが、西洋の暴力主義、覇権主義、植民地主義、帝国主義になると考えられる。


追記:ロレンスの極性的無意識論であるが、一方では、共感の軸があり、他方では、単独性の軸がある。これは、無双原理で言えば、前者は陰・凹i・他者の極であり、後者は陽・凸i・自己の極と考えられる。

 ロレンスの無意識哲学の問題は、両者が常時揺らいでいることにあると考えられる。(それが、王冠論における、獅子・父と一角獣・子との闘争として、表現されていると考えられる。)これは、ロレンスにおいて、一種二重人格性、ないしは、「統合失調症」が存していると言えよう。

 しかし、そのような表現はロレンスの哲学を矮小化するものであり、より的確に言うならば、父権的人格と母権的人格の二重性がロレンスの精神に存しているということになろう。

 無双PS原理においては、父権的人格は陽・凸iの傾斜による自己同一性主義であり、母権的人格とは、
MPの陰陽均衡作用に存していると考えられる。

 だから、ロレンスの母権的人格は正確に無双PS原理のそれとは合致しない。これをどう見るのかが、本質的問題である。

 私はロレンスはMPが開化(開花という表現の方が美的であり、また、適切ではないだろうか。だから、以下は開花にしよう)がしていると述べたが、それは、無双PS原理における母権的人格を意味する。

 つまり、ロレンスの精神において、母権的人格とは、開花しているMPと陰・凹i・他者の二重性があると考えられる。これを整合的に説明する必要がある。

 言い換えると、陰陽均衡・差異共振性と共感性の区別を解明する必要があるのである。

 前者は言わば、知と感性のバランスをもっているのであるが、後者は感性により傾斜していると言えよう。そう、知性より、情感へと傾斜しているのである。だから、後者は知性の一種の抑圧があると考えられる。

 これは、陰・凹i・他者による陽・凸i・自己の抑圧と言えるのではないだろうか。この抑圧力学をどう見るのか。

 これは次のように説明できるのではないだろうか。即ち、ロレンスにおいては、本来的な母権的人格と、父権的人格の二重性が存する。前者は開花したMPに拠るのであり、後者は陽・凸i・自己の傾斜に拠ると考えられる。

 そして、後者は前者を否定するのであるが、否定された前者はそれに対抗するように、反動的に、陰・凹・他者性を主導化すると思われる。

 父権的傾斜に対する母権的反動が、言わば、共感主義を形成するのではないだろうか。言い換えると、元基的な陰陽均衡という母権的人格に対して、父権的傾斜の力学を発動されると、母権的人格は反動的に共感主義的様態になるというように考えられる。それが、ロレンスの共感性の軸ないしは極の意味と考えられるのである。

 だから、それは、本来的には正しく母権的人格であるが、それが父権的傾斜力学によって、反動的様態を帯びたものということになる。

 結局、上述したロレンスの常時揺動、即ち、陽・凸i・自己の極と陰・凹i・他者の極の常時の揺らぎは、本来的母権的人格の精神に対する父権的人格の傾斜力学によって生じたものと考えられる。

 父権的人格が過度に傾斜した時期とは彼の「リーダーシップ小説」期であり、その父権的人格が超克されたのが、最晩年の時期であり、本来的母権的人格、即ち、陰陽均衡・差異共振を肯定するに至ったのである。それは、『逃げた雄鳥(死んだ男)』に表現されているのである。それは、西洋文明を乗り越えた新東洋文明的哲学である。正に、無双PS原理的である。

 最後に、ロレンスのコスモス(宇宙)について簡単に言及したい。

 これは、明らかに、開花したMPによって直観される「宇宙」である。もともと開花したMPをもっていたのであるが、最晩年に至るまでは、内在する父権主義(一神教的父権主義)によって混沌(カオス)化されていたのであるが、それが超克されて、今や全面的にコスモス(宇宙)が開花したのである。

 それは不可視のコスモスである。何故なら、開花したMPは太極(=超越界・霊界)を「啓示」するからであり、それは、形而上学的存在であり、当然、現象界を超越しているので、不可視なのである。もっとも、可視の宇宙・自然はその外化、物質的表現と言えよう。螺旋的宇宙・自然はそれを意味すると考えられる。

 そう、不可視のコスモスは気的な螺旋形状をもっているだろう。それが、現象化・物質化するのである。

 占星術の宇宙であるが、それは、このコスモスをべーすにして、新たに構築されるべきと考えられる。


resurrectionのブログ

ナルシシズム - Wikipedia

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二次性のナルシシズムは病的な状態であって、思春期から成年にみられる、自己への陶酔と執着が他者の排除に至る思考パターンである。二次性ナルシシズムの特徴 ... 二次性ナルシシズムは自己愛性パーソナリティ障害の核となる。 ナルシシムという語は ...
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%83%AB%E3%82%B7%E3%82%B7%E3%82%BA%E3%83%A0


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サンクコストの呪縛

なぜ失敗しそうな事業から撤退できないのか

>さらに言えば、たとえサンクコストの呪縛やもろもろの懸念材料から解放されたとして も、組織では、また別の呪縛に陥ることも考えられる。それは、名誉やプライドである。誰々さんが始めたプロジェクトだから、自分の沽券に関わるから、と社 内の人間関係や周囲の評価を気にして、赤字事業に固執してしまう。案外、こちらの呪縛のほうが闇が深いのではないだろうか。

http://newsbiz.yahoo.co.jp/detail?a=20120806-00010000-president-nb

霞ヶ関ヒエラルキーは、
失敗を前提に、税金をちょろまかすため、
横領するため、横流しするため、
事業をやっているので、
サンクコストが「無い」わけでw

だから「税金こじき」といわれるw

採られているほうの奴隷国民は、
もう後が無いのに、
見たくないものは見たくなく、
まだ大丈夫だぁ~幻想に浸っているわけで。

なけなしの学歴や地位や名誉も、
デタラメだったのに、
手放すには「おしい」と、
まじで思ってるわけで。

学歴の総本山、原発を爆発する国の
「学歴」はゴミでした、と、
思えないんだろうなーーーw

放射能を飲んでも大丈夫という
ジャパニーズアカデミー。

どんなカルト宗教大学より、
ぶっちぎりでおかしいんだがw


建築とかあれこれ 呪いもあれこれ 

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