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2013年02月01日 (20:51)

二つの義:外的義と内的義:超自我・格率(・キルケゴールの神)と内在的個的仁理

テーマ:無双陰陽原理/トランス・サイエンス

先に以下のように(論理がたどたどしいが)、マスコミの原理的批判をしたが、この問題はさらに根本的な哲学的批判が必要である。それは、父権的自我批判に通じるのである。
 もっとも、だいぶ以前にこの問題について、考察したが、今一度、整理する意味でも検討したい。

「マスコミという組織はある利益集団であり、ある階層的集団であり、必ずしも、社会全体を代表していない。というか、極く、偏った階層による組織であるマスコミには、社会を代弁することは本質的にできないと考えられる。
 マスコミ利益特定階層集団というバイアスがあるのであるから、世論を代弁することは不可能である。
 だから、世論を代弁して語る社説は欺瞞的で、胡散臭いのである。
 マスコミ利益特定階層集団組織であるから、その利益に偏した報道するのは、目に見えているのである。
 ということで、マスコミは、偏向した報道機関であり、公正な報道機関ではありえないのである。」

欺瞞のマスコミの終焉と個によるミクロメディア・ネットワーク新時代へ
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11459669475.html

結局、倫理・道徳の問題である。
 先に、日本の父権的集団主義について述べた。そこには、内在的個の原理が欠落していると述べたと思う。
 私的情理はあるが、それは私的個人の情態に留まり、公的には、権力的権威に従属するあり方が、そこにはあるのである。没個の原理である。(何度も言うと、森鴎外の『阿部一族』の柄本又七郎の人格に典型的にこれが見い出せる。)
 思うに、日本人の伝統的倫理・道徳を形成したのは、神道、仏教、儒教等の宗教等(武士道等のエトスも含める)があるだろう。しかしながら、それがどれだけ内面化されたかは問題である。
 ある程度は内面化されたが、時代とともに、衰微してきて、日本人の倫理・道徳は希薄なものとなっていたのではないだろうか。これは、宗教的感性の希薄化とも言えよう。
 さて、本題であるが、父権的自我は善を外的なものとする。つまり、外在的なものである。一神教では、超越神が倫理・道徳の根拠となる。言い換えると、内在的感性を超越した道徳・倫理である。(キルケゴールの宗教は、このような超越的倫理・道徳性をもつ。)
 キリスト教で言えば、キリストないしは聖霊が唯一の超越神と人間を結ぶ媒介である。
 それに対して、日本仏教は内在的倫理・道徳性をもっていると言えよう。ジェンダー論的には、母権的倫理・道徳である。
 内在的倫理・道徳についてはここではこれ以上論じない。
 問題は父権的自我における倫理・道徳・義である。
 私は父権的自我には先験的善の意識があると見ている。言い換えると、独断的善意識があると見ている。つまり、独善的倫理・道徳性である。
 問題は、独善的であるにしろ、善の原因は何か、ということである。有り体に言えば、何故、父権的自我は善意識をもつのか、である。
 さらに根本的に言えば、いったい何処に善の原因があるのか。
 私が以前述べた説明に即すように言えば、自我は同一性志向なので、差異である他者をそのまま肯定できず、不満に感じるのである。否定的感情が生じるのであるが、自我は自我として、自己肯定したいので、他者を自我的同一性の下に取り込むのである。
 そう、それは、同化的感情と呼んでいいのではないだろうか。これは、自我のもつ同一性機能によってもたらされる感情である。
 とまれ、この同化作用によって、自我は自己同一性形成をすると考えられる。
 しかしながら、最初は、自我は他者への、言わば、劣等感があるのである。何故なら、同一性は差異である他者を取りこめないからである。自我の力を越えた存在として、他者が存するからである。
 しかし、同化作用によって、自己同一性価値が形成されると、自我は他者に対して、逆に、優位の感情をもつようになるのではないだろうか。
 このメカニズムは何か。
 思うに、最初は、自我は他者に対して、劣位である。しかし、同化することで、自己同一性が形成される。それは、他者を同一性のもとで取り入れたことになるのである。つまり、自我の同一性によって、他者を統合したのであるから、そこで、自我機能が支配しているのであるから、自我は他者に優位を感じると考えられる。
 つまり、同化作用によって、価値逆転が生じるのである。ここに自我が他者に対して優位である、優越するという意識が生じると考えられる。
 思うに、この同一性価値が善の原因ではないだろうか。自我同一性は価値あるものであり、善であるということではないだろうか。
 そして、そのような自我同一性に即さない他者は悪ということになるのではないだろうか。
 この自我的善とは、だから、正に、倒錯論理である。あるいは劣等感の裏返しの優越感論理である。
 では、この自我的同一性的善と本題の外在的善との関係は何だろうか。
 自我的同一性的善とは、差異である他者に対して、正に、外在的なものである。
 そう、自我とは、一般的に外界、物質的世界と関係するものであり、この意味でも外在的ものであり、だから、自我的同一性的善は、外在的善であると考えられるのである。
 つまり、二重の意味で自我的同一性は外在的なのである。一つは、内在的他者に対して、外在的であり、また、外界、物質的世界に関係するという意味で、外在的なのである。
 ということで、自我同一性的善とは外在的善であることがこれで証明できと言えるのではないだろうか。
 以上が父権的自我の善の分析である。
 では、私が肯定する内在的個的善とは何かと述べる。
 これは、以上の考察から示唆されることである。
 即ち、差異である内的他者の肯定こそが、内在的個的善であるということである。
 しかし、内的他者は絶対的他者(絶対的差異)であり、それは、自我的同一性では認識できないもの、不可知のものである。
 この点を押さえておく必要がある。
 ところで、今ふと思ったのであるが、キルケゴールの宗教性とは、外在的な超越的なものではなく、内在的もの(内在的他者、内在的絶対的差異である他者的なもの)ではないのかということである。
 そう、思うに、ここでは、もう外在的超越性と内在的絶対的差異・他者性とが一致するのではないだろうか。
 無双陰陽原理において、太極とは、内在的超越性である。
 思うに、内在的超越性とは、外在的超越性と一致するのではないだろうか。内在的にしろ、外在的にしろ、超越性であるから、それは、不可知である。
 しかしながら、外在的超越性とは、本質的に、絶対的超越性である。
 それに対して、内在的超越性とは、絶対的超越性ではなく、内在性において、直感できる超越性である。
 外在的超越性においては、直感ないし直観をも超越しているのである。
 だから、内在的超越性と外在的超越性は一致しないと言わなくてはならない。
 ならば、キルケゴールの神の場合はどうなのか。
 やはり、基本は外在的超越性であると思うが、しかしながら、いくばくかは、内在的超越性に近づいているように感じられるのである。
 というのは、内在的他者のもつ絶対的差異性が、外在的超越性に似ているからである。
 とは言え、外在的超越性と内在的超越性とは、異なるものであるとするのが妥当と考える。
 ということで、本題に戻すと、外在的善と内在的善はやはり、異質なものであり、前者は自我に関係するので、超越性が衰退すると、自我的側面、つまり、利己主義が支配的になり、正に、独善主義になるのではないだろうか。
 今日、権力が激しく腐敗しているのは、外在的超越性が衰退した父権的自我が利己主義になった結果ではないだろうか。とりわけ、現代日本の父権的自我は度し難いのである。
 そう、超越性とは、外在的にしろ、内在的にしろ、陰(肚)のエネルギーに拠ると思えるのである。
 陰のエネルギーが枯渇しているのが、現代日本人と言えるのである。

陰(肚)に帰れ!!!


参考:
「死に至る病」におけるキルケゴールの宗教観


三阪祐治:「死に至る病」の自己と絶望に関する考察



「キ ルケゴールの書物はキリスト教徒以外にも極めて興味深い」というヤスパースの言葉はいったい何を意味するのであろうか。そのまま考えれば、それはキルケ ゴールの宗教観をキリスト教以外の宗教にも当てはめることができる、ということである。ではどのような点でキルケゴールの宗教観が普遍性を持つのだろうか。

キ ルケゴールの宗教観の特徴は、信仰を徹底的に自己の問題として捉えていることである。では「自己の問題」とは何か。それは人がこの世界と関わって生きるた めに常に問題にしなければならない基本的かつ重要な問題である。キルケゴールは大衆を非難する。なぜなら、大衆において人は自己を失っているからである。大衆に埋もれることで生じる「主体性のなさ」や「群集心理」といった事態は、広い意味で自己の喪失を意味する。キルケゴールは、大衆に埋もれることなく 「単独者」としての自分を自覚し、主体的に生きることこそ真に人間らしい生き方と考える。キルケゴールでなくても、「個性」や「主体性を持つ」といった言葉は、現代において比較的ポジティヴな意味で使われている。人には、多かれ少なかれ、そういうものを求める傾向がある。しかし我々は「単独者」的な生き方 を求めると同時に常に何らかの集団・組織に属して生きている。だからこそいかにして自己とのバランスをとりながら社会の中で生きるのかが問題となるのである。(付け加えるなら、先のヤスパースの世代は、ヨーロッパがニヒリズムを露呈し、第一次世界大戦と第二次世界大戦を経験して現代よりも切実な意味で自己 が問題となっていた世代である。そのような時代にキルケゴールが求められたのも、ある意味では当然といえる。)

で は、キルケゴールにおいて自己とはどのように考えられているのかを具体的に見ていくと、まず『死に至る病』の冒頭において、「人間は精神である。しかし精 神とは何であるか。精神とは自己である」とある。ここでは人間と精神と自己が同じ様相として捉えられている。人間であることとはつまり自己であることと同義であり、さらにこのように人間を捉えることが人間であることの理由でもある。人間は精神の存在であり、精神によって規定されている。さらに人間を規定す る精神といっても、決してデカルト的コギトをさすのではない。「人は単独な人間を思惟することはできない、ただ人間という概念を思惟しうるばかりである」といわれるように、近代理性主義の「精神」が基礎づける人間存在とはあくまでも概念的な人間でしかない。キルケゴールにとっての自己はあくまでも有神論的 実存主義的な自己である。「信じるがゆえに我在り」なのである。信仰という具体的行為によってこそ人の生は可能になる。決して思惟に還元できない現実存在(事実存在)とは、シュリングに由来するテーゼであるが、シェリングにおいては現実に存在するもの一般をさす言葉であった実存が、キルケゴールにおいて人 間存在にその意味を先鋭化されることになる。つまり人間=自己は思惟することを根拠に、その存在を基礎付けられるようなあり方をするものではない。思惟ではなく神への信仰こそが人間存在を基礎付けるのである。

キ ルケゴールにおいて人間とは、抽象的思考の俎上にのせられるような抽象的人間ではなく、あくまでも今この時の「生」を生きる具体的人間である。そのような 具体的人間の存在を基礎付けるものも具体的なものでなくてはならない。思惟に還元できない具体的存在が思惟によって見出された抽象的なものによって基礎付けられるというのはひとつの矛盾ですらある。キルケゴールにとってその人間存在を基礎付ける具体的なものこそ、「信仰」なのである。ここで誤解してはなら ないのは、キルケゴールは決して抽象的思考を否定しようとしたのではないということである。問題は、抽象的思考が具体的人間存在を呑み込もうとする点にある(「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」というヘーゲルのテーゼはその典型である)。ここが、キルケゴールのドイツ観念論批判の ひとつの要点であり、事実存在を顧みなかったというシェリングのヘーゲル批判を、実存の概念と同じく先鋭化したものである。

キ ルケゴールは先の引用に続いて、「自己とは何であるか、自己とはひとつの関係、その関係それ自身に関係する関係である。あるいは、その関係において、その 関係がそれ自身に関係するということ、そのことである。自己とは関係そのものではなくして、関係がそれ自身に関係することである」と述べている。これは、自己とは「関係そのもの」ではなくて「関係する」ことである、と要約できる。ここで自己とイコールで結ばれる「関係」とは、対立する二つの概念のあいだに ある停止した静的なもの(「主観と客観の関係」というように使われる関係)ではなく、動的な、自ら関係していくものである。自ら態度を決定し自己を決定していくこと、というような積極的な意味である。では何に対して態度を決定し、決定し、関係するのか。もちろんキルケゴールにおいては神である。さらに「神 の観念が増すにつれて、それだけ自己も増し、自己が増すにつれて、神の観念も増す」といわれるように、神への関係は自己への関係に相即する。では、自己へ関係することから神へ関係することへのシフトをどのように捉えればよいのか。

自 己に関係する、という事態を詳しくみていくと、「人間は無限性と有限性との、時間的なものと永遠なものとの、自由と必然との統合、要するに、ひとつの統合 である」さらに「統合というのは、二つのもののあいだの関係である。このように考えたのでは、人間はまだ自己ではない」とされる。自己が対立する二項の弁証法的関係として捉えられているのであるが、問題は前者の「ひとつの統合」と後者の「二つのもののあいだの関係と定義される統合」との違いである。後者の 統合が、二つの対立する概念が「関係」に関係することで成立する弁証法の統合であるのに対し、その「関係」の方が二つの対立する概念に関係することで成立する弁証法の統合が前者のそれである。前述の「積極的な関係」とはこのような意味であり、これがキルケゴールのいう自己である。

こ のような自己は、決して自己自身に関係するだけであるのではない。自己は同時に自己を措定した他者に関係することで均衡を保つのである。もしそこに他者が いないなら、「その場合には、自己自身であろうと欲しない、自己自身から逃れ出ようと欲する、というただひとつの絶望の形式しか問題とはなりえず、絶望して自己自身であろうと欲するという形式のものは、問題になりえないであろう」。後者の絶望は、「あらゆる絶望が結局はこの絶望に分解され、還元される」よ うな本来的な絶望であり、よって前者の他者を考慮にいれない絶望は非本来的な絶望として後者に還元される。そしてそのような本来的な絶望が成立するのは、他者によってである。『死に至る病』のテーマであり、キリスト教徒にとって本来的な死であるとされる「絶望」は、その本来的な形式により他者の存在を保証 する。自己は自己自身(精神)によって規定されていると同時に他者によっても規定されているのである。

し かしなぜそのような本来的な絶望が成立しなければならないのか。一般的に考えれば、絶望などだれもしたくない。しかしキルケゴールの心理学的分析による と、絶望は短所であると同時に長所でもある。「この病(絶望)にかかりうるという可能性が、人間が動物よりも優れている長所なのである」とさえ言う。ではどのような点で絶望が長所になるのか。

我 々は普段の生活のなかで、様々な形で絶望する。近しい人の死であったり、目標の挫折であったり、その理由は様々であるが、これらは自己との関係を不均衡に させる。絶望という心理状態に人が陥るのは、このように自己への関係がバランスをとれなくなったときであり、さらに自己との不均衡とはつまり他者との不均衡である。

http://www.cc.kyoto-su.ac.jp/~konokatu/misaka.htm


追記:以上の引用した下線部の箇所(ブログ管理人強調)が混乱していると思う。
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