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2013年02月11日 (19:02)

<無双陰陽原理概念座標:Ver13.0.0>:自己を自我に変更する:陽は自我となる    

図は以下を見られたい。
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11468440131.html


<無双陰陽原理概念座標:Ver13.0.0>:自己を自我に変更する:陽は自我となる    
 
テーマ:無双陰陽原理/トランス・サイエンス

自我と知性のズレ:自己同一性の盲目と知性(悟性):父権的自我は知性 ...
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11463254471.html
先に以上で述べたことを受けて、以下のようにバージョンアップする。
つまり、自己が自我となったのである。陽原理は自我の原理であり、自己のではない。自己とは自我・陽と他者・陰との共振体が本当のものであり、それは、個ということである。

<無双陰陽原理概念座標:Ver13.0.0>

         陰陽(円)

          陽(✡):自我
          |
          |
          |
          |
          |
          ★
_______・_______実軸(気=天地軸)+1
          ☆
          |
          |
          |
          |
          |
         陰(✪):他者

【但し、・は太極点(内在的超越点、MP: Media Point)、★は陽における陰点、☆は陰における陽点である。
 そして、陰陽(円)は軸ではなく、多次元、無限次元、無次元であり、陽=自我と陰=他者で意識、精神、魂、自己=個を形成し、生命気螺旋とは区別される。
尚、実軸は気軸=天地軸とし、太極点から発出する生命気螺旋における四元数(1, i, j, k)の三つの虚軸(空間三次元)は記入していない。時間はエネルギーであり、以下の⇒に相当する。
 霊「数」、陽✡、陰✪を仮説して、また、陰陽共振を✇で表わし、以下のように公式化する。無双陰陽原理公式である。
✪✇✡⇒a + bi + cj + dk 
or
✪✇✡⇒+1 + i + j + k

http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11468440131.html




英文法革命へ向けて:英語の補語Complementについて:日本人の英語能力を進化させる

テーマ:language

英語の5文型は周知である。
 それは主語Subject、動詞Verb、目的語Object、補語Complementからなるが、補語がどうもしっくり来ないのである。
 Complementは補足、補完という意味である。
 しかし、実際は、そのような意味ではないと「直感」するのである。

1)I am a boy.
2)She is beautiful.
3)I found it very interesting.

下線部が補語であるが、補足、補完しているのだろうか。していないと思う。
 ある主体、存在の存在様態を表現していると思う。
 例えば、1では、私という存在様態が少年ということになり、2では、彼女という存在様態が美しいということであり、3では、それという存在様態がとても興味深いということになるだろう。決して、主体、存在を補足、補完していない。
 だから、補語ではなく、存様語、存象語、存態語、等ではないのか。あるいは、思い切って言えば、現象語Phenomenonである。
 そうすると、

主語S+動詞V+補語C

は、

主語S+動詞V+現象語P

となる。
あるいは、

主語S+動詞V+目的語O+補語C

は、

主語S+動詞V+目的語O+現象語P

となる。
 こうすることで、明快明晰になり、非常にすっきりするのではないだろうか。
 ところで、be動詞であるが、これは、多くの人が言うように、存在動詞と見るといいだろう。

 She is a beauty.

は、

She主語+is存在動詞+a beauty現象語

であり、「彼女は美人という現象として、存在する。」ということになる。

追記:因みに、無双陰陽原理から言うと、主語は、「陰」であり、現象語は「陽」である。
 では、存在動詞は何だろうか。陰⇒陽、ないし、陽⇒陰の⇒ではないだろうか。これは、陰陽極性そのものではないだろうか。私の用語では、共振である。陰陽共振である。
 ならば、主語は陰、存在動詞は共振、現象語は陽となる。
 思うに、存在動詞は太極と言えるような感じがするのである。あるいは、少なくとも、太極と関係するように思えるのである。
 思えば、ヤハウェは、「我は『在りて、在り余れる』ものなり」とモーゼに述べたのである。そうすると、ヤハウェは、存在動詞の根源のようなもの、あるいは、太極のようなものと言えようか。
 とても興味深いが、今はここで留める。

追記2:「わたし」、自己の問題であるが、以上の視点から見ると、根源の 「わたし」、自己は、陰=肚(腹)=他者に存することになろう。自己=他者?!である。そして、一般に、自我とは、陽=頭のことで、これは、根源の「わた し」、自己の現象として存する、存在様態であるということになる。
 この現象としての「わたし」、自己、即ち、自我が、一般には、自分と思われているが、それは、単に現象に過ぎず、本体、本質、実体は、陰=肚=他者に存するのである。
 近代の狂気は、陽=頭=自己を中心としたことに拠る。デカルトの「コギト・エルゴ・スム:我思う故に我在り」はこの原理原則である。
 D.H.ロレンスがそれを逆にすべきであると述べていた。即ち、「スム・エルゴ・コギト:我在り故に我思う」であるが、正に、天才的洞察である。

追記3:結局、陽の光とは、陰の闇から生まれるのである。陰陽論が陰から始めるのは、正しいと言える。
 老子の説く玄牝は正しい。
 ついでに資本主義であるが、金融資本とは陽であり、協働資本とは陰である。今日は、陽が陰を食らっているのである。
 そう、陽が資本で、陰が労働とも言えよう。資本経済に関する無双陰陽原理の考え方は後で検討したい。

追記4:天候を表わすit(It is sunny. It is windy. It is raining. Etc.)であるが、それも、陰(闇)=肚=他者ととると実に明晰明快になるだろう。できれば、後で説明したい。


参照:
5文型とは - ELM英語学習教材研究所
英語5文型のまえがきと目次
3-1 基本五文型
英文法「第5文型」
なぜ日本では5文型論が生き残っているのでしょうか? - 英語と書評 de ...
be動詞、is, am, areについて。 - Yahoo!知恵袋 http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11466674787.html
西田哲学の場所の論理と身体性 - 思考の部屋
blog.goo.ne.jp/.../e/a42af781a62afb871de6c45385ae73ce - キャッシュ
2012年5月12日 ... 西田の場所の論理は述語論理とも言えるものであり、中村(『西田哲学の脱構築』岩波
書店・一九八七年)が指摘するように、これはアリストテレス以来の西洋論理学の中枢を
なす主語論理を逆転させるものである。そして、西田の場所の論理の ...
時枝誠記 : Toward the Sea
yokato41.exblog.jp/tags/時枝誠記/ - キャッシュ
2012年5月23日 ... 時枝は、英語を天秤に喩えた。主語と述語とが支点の双方にあって釣り合っている。
それに対して日本語は「風呂敷」である。中心にあるのは「述語」である。それを包んで「
補語」がある。「主語」も「補語」の一種類である! (私はこの指摘を知っ ...







自我と知性のズレ:自己同一性の盲目と知性(悟性):父権的自我は知性・真理・科学を詐称する

テーマ:無双陰陽原理/トランス・サイエンス

今は簡単に触れるだけだが、これまで、自我同一性(自己同一性)と知性とを結びつけて考察してきたが、両者は同じものではない。
 前者は後者の振りをする。自我は自分が知性であることを独断・独善的に主張する。
 この事象の力学は何であろうか。
 これは、これまでの理論で説明できるだろう。即ち、自我は他者を否定しようとする。これが、自我同一性(自己同一性)の志向である。これは、言わば、一種の悪意である。
 そして、この自我同一性は知性であることを主張する。つまり、自我が知・真であり、他者が反知・偽であると主張するのである。
 しかし、これは、独断、独善、臆断(憶測)でもある。
 何故なら、自我同一性の衝動の基本は、他者否定という欲望であり、真理への志向ではないからである。他者否定の欲望が真理を偽装(擬装)するのである。
 では、この他者否定の欲望の根因は何であろうか。
 思うに、他者への嫌悪・憎悪・反感等のルサンチマン(怨恨)があると思う。
 思うに、他者のもつ共感性の感性・精神への無意識の反感があるのではないだろうか。
 では、何故、共感性に反感をもつのだろうか。
 それは、共感性が自我同一性主義の力学を解体するからではないだろうか。
 つまり、自我同一性主義(有り体に言えば、自己中心主義である)とは、他者を排除することから発生するものである。言い換えると、自己自身の基底にある 他者への共感性を排除することによって、自我同一性主義(自己中心主義)が成立するのであるが、他者の存在(共感的、精神的、魂的存在)は、それを否定す ることになるのであり、そのために、自我同一性主義は他者へ反感・嫌悪・憎悪をもち、他者を否定する言動をとるように思える。
 その時、自我同一性主義は、同一性形式である言語において、他者を否定するように思われるのである。言い換えると、他者の言語(同一性形式)を否定するのである。
 そして、同一性形式(言語)は確かに知性に似ているのである。つまり、観念行為ということで、両者は似るのである。しかしながら、あくまでも似ているということに過ぎず、両者、別物である。
 自我同一性主義の同一性形式(言語)は知性を似せるのであり、真の知性ではないのである。疑似知性、似非知性、虚偽的言語である。
 ということで、本題を解明できたことになる。簡単ではなく、長くなったが。
 結局、これまで、自我同一性と知性が一致するような考えを私はもってきたが、それが誤りなのが判明した次第である。(これまでの私の理論の不十分さをここで明確に指摘する。理論と言っても、無双陰陽原理というよりは、それ以前の不連続的差異論である。そこでは、同一性が知性と一致していたのである。)
 以上のような解明から、父権的自我主義が近代科学、自然科学と関わるときわめて危険な事態になることがわかる。つまり、父権的自我主義は、「科学」の真 理を偽装するからである。自我自身は自分が真理をもっていると盲信(狂信)するが、実は、それは、妄想なのである。(原発や権力に関係する人間はこのタイ プが大半ではないだろうか。)
 そして、逆に言うと、真理(科学的真理や哲学的真理)とは、自我同一性主義(父権的自我主義)ではなく、共感性によってこそ、形成されるものではないだろうか。
 つまり、共感性とは、他者を感知するのであり、それが、自己とは別個の存在であることを知るものである。共感的他者性における思考こそ、真の知性、真理と考えられる。
 自我同一性とは異なる他者的思考が知性、真理であると考えられるのである。
 そう、共感的他者的思考とは、言い換えると、母権的思考である。知性、真理とは、母権的思考においてこそ、形成されると考えられるのである。
 今日の日本、世界が狂気的カオスなのは、父権主義が支配して、知性、真理を喪失しているからと考えられる。
 そう、父権主義、自我同一性主義とは、シュタイナーの霊学から言えば、アーリマンである。
 今日、アーリマンが人間、人類を狂わせていると言えよう。
 ある意味で、アーリマンはルシファーを抑圧しているのである。悪魔の対立があると考えられる。
 神秘・ロマン主義はルシファー主義である。それが、今日、アーリマンの唯物的自我主義によって、抑圧されていると考えられるのである。

追記:うつ病についてであるが、新型うつ病であるが、それは、自我同一性主義が肥大化したもののように思える。それは、他者を抑圧・排除しているので、生命・気の共振エネルギーが形成されず、生命力が弱化するものと思われるのである。
 陽が陰を抑圧して、陰陽共振による気エネルギー=生命エネルギーが喪失されるのである。
 思うに、単に、身体生命エネルギーだけでなく、情感エネルギー(アストラル・エネルギー:造語)も枯渇するのではないだろうか。
 そう、陰を私はアストラル体とも見ていると言えよう。この点は後で検討したい。

参考:以下のアポロとディオニュソスであるが、以上の自我同一性主義と知性との不一致の視点から見ると、アポロと自我を一致させている誤謬があると言えよう。アポロは知性とすべきであり、自我同一性主義とは別のものと見なくてならない。
 この点では、ニーチェの『悲劇の誕生』は明らかに、混乱していると言えよう。
 思うに、アポロの光と自我の光を私は混同したと考えられる。これはたいへんな誤りである。
 とまれ、以上の論考は新たな発見である。光について、新たに論考したい。

******************************
光・陽のもつ闇と闇・陰のもつ光:光の影を他者に投影し、他者と敵対する自我:万人の万人に対する戦争

テーマ:無双陰陽原理/トランス・サイエンス
以下、簡単に図示する。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                 


Ⅰ:陽・光・頭(知)・父権・西洋・自我・同一性
    
              
             アポロ

     
     ↓   ↓   ↓   ↓   ↓   ↓
     影   影   影   影   影   影

ー⇅ーー⇅ーー⇅ー胸・境界・浸透膜ー⇅ーー⇅ーー⇅ー

     光   光   光   光   光   光
     ↑   ↑   ↑   ↑   ↑   ↑


          ディオニュソス


Ⅱ:陰・闇・肚(魂)・母権・東洋・他者・差異



ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー



Ⅰの領域は、Ⅱの能力がⅠとは一致しないので、Ⅱの領域を抑圧するのである。
 つまり、Ⅰは自我の光であり、それは、他者の闇を抑圧するのである。そこで、ⅠとⅡの境界のⅠの面、あるいは、Ⅰの底面に影が生じるのである。これは、 光の影(シャドウ)である。このシャドウが光のもつ闇なのであり、その影が光には見えないのである。自分の影に気づかず、返って、それを他者に投影するの である。
 言い換えると、光の影(スクリーン)を通して、自己は他者を見るのであり、他者は自分の影が映った存在となり、自己は他者に敵対的になるのである。
 では、光に生じた影(シャドウ)・闇を取り去るにはどうしたらいいのだろうか。
 それは、Ⅱの領域を肯定する意識をもつことである。
 思うに、ⅠとⅡとの境界は、言わば、浸透膜である。ⅠはⅡに触れ、ⅡはⅠに触れている領域である。
 この浸透膜的境界を介して、Ⅰの光・陽・頭はⅡの闇・陰・肚を肯定し、ⅠとⅡとの共振、つまり、陰陽共振を目指すべきである。
 しかし、最高に注意すべきは、Ⅰの同一性でⅡの差異を認識することはできないということである。Ⅰは認識ならば、Ⅱは存在なのであり、相互に異質なので ある。ただし、ⅠはⅡを否定するが、ⅡはⅠを包摂することができるという非対称性があると考えられる。ジェンダー的に言えば、男性原理は女性原理に包摂さ れるということである。おそらく、生物的に、女性原理の方が先行していたことを証すように思われる。
 無双陰陽原理の原点である不連続的差異論がここで重要になる。
 即ち、Ⅰにとって、Ⅱとは不連続なものであるということであり、ⅠはⅡを同一化できないのである。つまり、Ⅱは絶対的差異、絶対的他者であるということである。
 この点を具体的に言えば、Ⅰは知性とすれば、Ⅱは性(セックス)である。Ⅰの精神はⅡの身体を理解できないのである。そう、Ⅰを西洋・父権で、Ⅱを東洋・母権と見てもいい。
 今日の世界、日本の闇・悪は、実は、光・善から生まれたものであることがわかる。光の支配による暗黒化なのである。
 価値逆転的に、Ⅱの陰・闇・肚をベースにすれば、光の悪の支配は終焉し、陰と陽との和解・調和が生じるのである。新しい母権の世界である。

http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11457363068.html

http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11463254471.html
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