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2013年06月16日 (09:50)

初めに、個己ありき:自我と個:全体的個己と個体的個己:個己の二つの様態

テーマ:不連続的無双太陰ヴィデア論:新陰陽論

それなりに多忙で、考察の余裕がない。
 とは言え、自我と個について簡単に予見を述べたい。
 おそらく、自我がなければ、個は生じないのではないだろうか。
 陽だけでは、自我にはならない。何故なら、陽は陰と均衡するのであり、根源の太陰といわば未分化であると考えられる。言うならば、母子一体ではないだろうか。つまり、母権性である。
 しかし、父権化して、陽から超陽=自我が飛び出すようにして、生まれる。そのとき、超陽=自我は太陰=太母(母)から独立する。つまり、自我と陰陽の分裂がそこにあるのである。二元論である(これが、西洋文明の原点である)。
 そして、超陽=自我は太陰=陰陽を排除し、また、破壊しようとするのである。これが、植民地主義、帝国主義、金融資本主義の原点であると考えられる。
 しかしながら、超陽=自我と太陰=陰陽の二元論、二重性は、いわば、分裂症である。これを調和させる内的必要があるのである。東洋文明は、内身体文化の発達によって、バランスをとってきたのである。端的に、瞑想文化、肚の文化、気の文化等である。これは、太陰=陰陽をベースとする文化であり、超陽=自我の暴走を抑える真の理性文化(身体理性文化)と考えられる。
 つまり、東洋文明は太陰=陰陽性が支配的であり、そのため、超陽=自我の暴走を許さないセーフティーネットをもっていたと考えられる。
 逆に言うと、そのため、超陽=自我の文明が西洋文明のようには発達しなかったのである。自然科学、物質文明は西洋文明が発達させたものである。
 さて、ここで、個の問題になるが、個とは、これまでの私の見解では、肚=太陰が他者であり、個となるものである。
 そうならば、太陰において、個があるということになるのではないのかという疑問が生じよう。
 しかし、私が肚=太陰において、他者=個が存するというとき、それは、自我=超陽を前提にしているのである。このために、単に、肚=太陰において、個が存するとは言えないと考えられるのである。
 もっとも、問題は微妙である。以前、私は母権的個ということを言っていたのである。
 しかしながら、今考えてみると、それは、やはり、自我=超陽が前提だと思う。その前提の下に、母権的個=肚というものを考えていると思われるのである。
 果たして、そう考えていいのか、疑問である。
 丁寧に考える必要がある。
 私は近代以前の日本において、母権的個があったと考えてきたのである。しかし、日本は母権と父権の二重社会であるというのが持論である。つまり、日本文化において、母権と父権の両要素が混在していると思われる。
 故に、私が日本の伝統社会における母権的個という場合、やはり、父権的自我が前提に存するように考えられるのである。
 しかし、果たして、純粋母権文化に個はないのだろうか。
 直観では、肚即全体である。そして、肚は個である。
 つまり、肚=個=全体である。
 そう、太陰とは太一であり、一(いつ)である。この一が個を感じさせるのではないだろうか。
 ならば、自我=超陽がなくても、個はありうるのである。母権的個はありうるのである。
 つまり、太一=太陰=肚=個という図式である。
 そうならば、自我=超陽を前提にした個の成立とはどうなるのか。齟齬になるのである。
 思うに、太一=太陰=肚=個とは全体的個であり、自我=超陽を前提とした個とは、物質世界における個体的個ではないだろうか。つまり、二つの個があると思われるのである。全体的個と個体的個である。個体的個は、純粋母権文化では不可能であろう。結局、自我=超陽の前提があって、個体的個と同時に全体的個が成立すると考えられる。
 では、個体的個と自我とはどう関係しているのだろうか。
 自我は他者排除的であるが、個体的個は、全体的個をベースにした自我的要素のある個ということではないだろうか。
 そう、物質的個というとわかりやすいだろう。
 今はここで留める。後で更に検討したい。

追記:以上の議論だと全体的個と個体的個の二つに分裂したままであるが、実際の様態は違うように直観される。
 個というのは、個体的様態と全体的様態の両側面があると思うのである。(ユング心理学の個体化に少し似るが。)
 個体的様態は自我的様態に近いものがあると思う。
 しかしながら、自我の排除機能は解消しているのである。
 つまり、自我の変容としての個体的個が存すると思う。
 やはり、物質的個である。現象的個とも言えよう。
 そう、結局、気的個と物質的個の二つがあるのであり、言い換えると、個の気的側面と物質的側面があるということになるのではないだろうか。
 物質的側面を形成するには、自我=超陽は必要であったということではないだろうか。
 とは言え、端的に、個とは何か。
 それは、「わたし」の存在であり、意識である。
 「わたし」ならば、自我ということになるのではないのか。
 これは実に微妙な問題である。
 「わたし」は自我とは同じではない。「わたし」は自我にはなるが、自我自体ではない。何故なら、「わたし」は全体でもあるからである。
 ルドルフ・シュタイナーがイッヒichというはそのような「わたし」であり、自我ではない(自我と訳しているが、誤訳だと思う)。
 思うに、「わたし」を個とすればいいのではないだろうか。
 つまり、太一=太陰=肚=個=「わたし」である。そして、超陽=自我は「わたし」=個の分枝となる。
 「わたし」=個とすれば、以上の齟齬も二元論も解消される。
 故に、個私、私個、あるいは、個自、自個、あるいは、個己、己個という用語が考えられよう。(ユング心理学において、個我という用語があったが、どうも抵抗がある。)
 己個か個己がとりあえず、いいように思える。一応、個己を採用する。
 結局、上述の検討であるが、個己の問題であると言えよう。全体的個とは、太一=太陰=肚の個己であり、自我=超陽を前提した個体的己とは、個己の物質的様態を意味すると言えよう。
 そう、

初めに、個己ありき


、である。
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