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2013年11月05日 (04:30)

ヤハウェと無双太極:無双太極の円錐⇒円・円周⇒陰主導の氣=陰陽⇒螺旋現象⇒純物質ー自我

ヤハウェと無双太極:無双太極の円錐⇒円・円周⇒陰主導の氣=陰陽⇒螺旋現象⇒純物質ー自我

テーマ:無双(太極)PS陰陽論:無双は陰陽未分化

これまで、ヤハウェをいわばいちばんの敵に見てきたが、そう、悪魔、邪神ではないかと思ってきたのだが、今日、ふと、「我在り」ということがぴんときた。ヤハウェは「我在り」という神である。
 つまり、「わたし」の存在の神である。これは、デカルトのコギト(我思う)ではない。初めに「我在り」である。デカルトは、「我思う故に我在り」で「我在り」は結果である。
 ここは決定的な違いである。
 思うに、「我在り」は無双太極を指すように思えるのである。というか、無双太極から発して、自我に達しているのである。
 無双太極は、陰陽未分化であり、認識というより、存在、一体的存在である。当然、「我」はない。
 「我」が生じるには、物質化が必要である。だから、自我と無双太極が結びついているのが、ヤハウェではないだろうか。
 自我から見ると、根源の無双太極は超越的に感じるはずである。いわば、人体四層構造の両極端が一致したのがヤハウェであると思われるのである。
 これで、ヤハウェを悪魔にしないで済んだ。悪魔は、極陽を固定する原理である。
 因みに、キリストは氣=陰陽である。植物体である。あるいは、陽光である。太陽神と言っても間違いではないような気がするのである。(シュタイナーはアフラマズダがキリストであると言っているのである。あるいは、キリストは太陽霊なのである。)
 正確には、根源的氣を体現した人物がキリストであろう。
 で、根源的氣であるが、それは、端的に無双太極ではないだろうか。つまり、太水(あるいは、太水火)である。
 無双太極が氣の源泉であるから、そうなるのではないだろうか。
 つまり、無双太極=太水(太水火)を体現した人物がイエス・キリストということになる。
 キリストは次のように言っている。

25水と霊から新しく生まれて神の国に入る

25水と霊から新しく生まれて神の国に入る

イエスは次のように言っています。
「よくよくあなたに言っておく。だれでも水と霊から生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれる者は肉であり、霊から生まれる者は霊である。あなたがたは新しく生まれなければならないと、わたしが言ったからとて、不思議に思うには及ばない。風は思いのままに吹く。あなたはその昔を聞くが、それがどこからきて、どこへ行くかは知らない。霊から生まれる者もみな、それと同じである」(ヨハネによる福音書3・5~8)。

http://page.freett.com/kogayasuko/newpage27.html


「水と霊から生まれる」と言っているのである。
 これは、先にも述べたが、無双太極=太水の陰陽未分化を示唆しているのではないだろうか。
 だから、現段階では、キリストは、無双太極と氣=陰陽を体現していると考える。
 しかし、そうすると、キリストは「父」になってしまう。キリストは「子」であるから、やはり、氣=陰陽に留めおくべきように思われる。
 しかし、それでは、単に植物と同じになってしまう。
 やはり、氣=陰陽の太陽系の根源をキリストは体現しているのではないだろうか。
 ちょっと、小手先的であるが、こう考えたらどうだろうか。
 根源の無双太極(不二極、無極とも呼べよう)のイデアをもった氣をキリストとするのである。太極氣ということになろう。これは、太極霊ではない。
 ここで整理すると、無双太極は理、霊の世界である。だから、理霊界、ないし霊理界である。これがイデア界ではないだろうか。ならば、理霊はイデアである。一応、ここでは、そう作業仮説する。
 この理霊=イデアが氣の世界へと展開する。理霊氣=イデア氣が生じるのである。そして、これが、キリストである。
 普通、氣=陰陽と言う場合は、個別のものであるが、キリストの場合、総合的、全体的、宇宙的であると考えられる。
 ヤハウェ、キリストと出たので、聖霊はどういう力学だろうか。
 それは、物質化しないのであるから、氣には関係しないのではないだろうか。氣は現象と結びつくのであるから。
 そうすると、理霊=イデア的なものということではないだろうか。これは、端的に、理霊=イデアが接することではないだろうか。難しいので、これは課題にしておく。
 ここで整理すると、

1)無双太極(陰陽未分化:理霊=イデア)・・・肚・・・太陽神経叢
2)氣=陰陽・・・胸
3)自我=陰陽二元論・・・頭

となり、ヤハウェは1と3の結合であり、キリストは1の理霊=イデアと2の結合である。そして、聖霊はあえて言えば、理霊=イデアであり、それが、氣の空の様態において、3に達することではないだろうか。

追記:以上の無双太極における理霊と気であるが、これは朱子の理気二元論と類似している。
 しかし、違う点は、朱子の場合、理は形而上であり、気が形而下であり、物質に近いものである。
 しかし、私の無双太極PS陰陽論(簡単に言えば、PS陰陽論)では、氣=陰陽はあくまで、形而上的であり、生命物質体を成形する原理なのである。
 あえて言えば、朱子の氣をPS陰陽論に近づけて、霊的氣として、捉えることができるのではないだろうか。どうも、後世の人が解釈を誤ったのかもしれない。
 とまれ、朱子の用語を使えば、理気物三元論となるのである。
あるいは、理気物我四元論である。

参考:
朱子学 - Wikipedia

朱熹は、それまでばらばらで矛盾を含んでいた北宋の学説を、程頤による性即理説(性(人間の持って生まれた本性)がすなわち理であるとする)や程顥の天理(天が理である)をもとに、仏教思想の論理体系性、道教の生成論および静坐という行法を取り込みつつも、それを代替する儒教独自の理論にもとづく壮大な学問体系に仕立て上げた。そこでは、自己と社会、自己と宇宙は、理という普遍的原理を通して結ばれており(理一分殊)、自己修養(修己)による理の把握から社会秩序の維持(治人)に到ることができるとする、個人と社会を統合する思想を提唱した。

なお朱子の理とは、理は形而上のもの、気は形而下のものであってまったく別の二物(「理気二元論」)であるが、たがいに単独で存在することができず、両者は「不離不雑」の関係であるとする。また、気は、この世の中の万物を構成する要素でつねに運動してやむことがない。そして「気」の運動量の大きいときを「陽」、運動量の小さいときを「陰」と呼ぶ。陰陽の二つの気が凝集して木火土金水の「五行」となり、「五行」のさまざまな組み合わせによって万物が生み出されるという。理は根本的実在として気の運動に対して秩序を与えるとする。この「理気二元論」の立場に立つ存在論から、「性即理」という実践論が導かれている。「性即理」の「性」とは心が静かな状態である。この「性」が動くと「情」になり、さらに激しく動きバランスを崩すと「欲」となる。「欲」にまで行くと心は悪となるため、たえず「情」を統御し「性」に戻す努力が必要とされるというのが、朱子学の説く倫理的テーマである。つまり、朱子学の核心は実践倫理である。朱子学は、この「性」にのみ「理」を認める(=「性即理」)のであり、この「性」に戻ることが「修己」の内容である。その方法が「居敬窮理」である。「居敬」の心構えで、万物の理を窮めた果てに究極的な知識に達し、「理」そのもののような人間になりきる(窮理)のである。ちなみに、朱熹の主張する「性即理」説は、陸象山の学説心即理説と対比され、朱熹は、心即理説を、社会から個人を切り離し、個人の自己修養のみを強調するものとして批判した。一方で朱熹は、陳亮ら功利学派(事功学派)を、個人の自己修養を無視して社会関係のみを重視していると批判している。

***************************
 
 次に、無双太極と氣の関係についてであるが、一つの暫定的仮説として、円錐を考えて、頂点を無双太極点として、その底面の円周を陰陽円、即ち、氣と見るのである。

無双太極点(円錐の頂点)⇒○(氣)・陰陽⇒身体⇒自我

このように考えると、陰陽未分化とは、無双太極点ではなくて、氣になるのではないだろうか。
 再度、図化しよう。

1.太極点⇒2.円ー陰陽対極⇒3.身体⇒4.自我

問題は2の円ー陰陽対極である。円は氣であり、それが、陰陽極性をもっているということである。
 問題は、陰陽未分化と氣的一如の関係である。
 今、違う視点をもった。
 円は氣ではなく、太極点に展開ではないだろうか。そして、それから、氣=陰陽が形成されるのではないだろうか。つまり、円錐は陰陽未分化の太極点と円をもつ。
 そして、この円から、円内部に陰陽極性が生まれ、同時に、氣が中心化し、円と直交するように螺旋現象が生起するということではないだろうか。
 まとめると、無双太極円錐がある。頂点が根源点であり、円がその展開であり、無極と呼ばれるものだろう。
 そして、その円から円内部に陰陽極性と中心点の氣が発生する。そして、それから、円に直交するように螺旋現象が発現する。
 図式化すると、

1.無双太極円錐:太極点ー円:陰陽未分化・・・肚

2.円内:陰陽対極=氣             ・・・胸

3.円に直交する螺旋現象           ・・・身体

4.純物質と自我(陰陽二元論)        ・・・頭

となる。
 こう考えると、1の太極と2の氣の不連続性がよく認識できる。先に、即非と言ったが、即(一致、ないし、連続性)は円ではないだろうか。円が1と2の境界になっているのではないだろうか。
 円、つまり、円周は1の太極であり、且つ、2の氣であるということではないだろうか。そして、当然、それ以外においては、1と2とは不連続であるということである。
 そう、円、つまり、円周であるが、陰陽未分化であり、太水的である。あるいは、太水火(太陰陽と言えるのかもしれない)である。
 そして、これが、陰陽の陰と親和的であると直観されるが、その力学はどういうものだろうか。
 この問題は、思えば、PS理論の時点で、さんざん考えたものである。その答は、陰陽共振の問題である。
 つまり、陽が主導的であるが、陽は陰を支配するのであり、共振にならないのである。しかるに、陰が主導的であると、陰は陽を迎えて、あるいは、陰は陽に共感して、陰陽共振が成されると考えられるということである。
 だから、氣=陰陽とは陰が主導的なものであり、当然、それは、「水」的である。
 そして、円ないし円周は陰陽未分化の太水なので、当然、陰主導の氣=陰陽とは連続であると考えられるのである。
 これで、先の矛盾・齟齬を解明したことになる。
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