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2014年02月03日 (06:23)

氣=内超的力・即・内超的知:陰陽調和心の観念(イデー)・理念(イデア)とは超越的知性(理性)だ

氣=内超的力・即・内超的知:陰陽調和心の観念(イデー)・理念(イデア)とは超越的知性(理性)だ

テーマ:無双(太極)PS陰陽論:無双は陰陽未分化

私は不連続的差異論(不連続的差異論 (108)  http://sophio.blog19.fc2.com/blog-category-3.html)の段階で、心(心身、氣身)、あるいは、肚に発生した不連続的差異(今のPS陰陽論では、陰我と陰陽調和心の未分化混淆様態か)における思考とは何なのかと大いに疑問に思ったものである。
 不連続的差異とは、直感では、コスモス(不可視宇宙、小宇宙=大宇宙)に通じる、繋がるものであった。そして、そこにおいて、思考することができるのである。とまれ、その段階(2004年から数年間か)では、それが何なのか、不明であった。
 しかし、今や、PS理論(不連続的差異論の進展した理論で、2005年、2006年頃に形成され、2013年初期まで継続した)の後、一年ほどの大試行錯誤を経て、太極無双PS陰陽論(簡略して、PS陰陽論)に到達したが、今や、不連続的差異論におけるその疑問が、理論的にはより明晰になった形で、解明されると思われる。
 即ち、不連続的差異は、今や、新たに分化して、陰我と陰陽調和心に錬成したのである。即ち、

不連続的差異⇒陰我+陰陽調和心

である。
 そして、陰陽調和心は、一(いつ)としての氣であり、それは、内在超越した心性であり、直観・直感では、イデアであると思われるのである。
 しかしながら、不連続的差異におけると同様に、そこでも、当然、思考が存するのであり、私自身、そこで思考しているのである。そして、この思考が、私の周囲の人の自我・主観的思考(近代的利己的自我思考)とは、異なることが明瞭なのである。
 私は、それは、陰陽調和心は、観念の領域であると思う。それは、概念を包摂したイメージ、情感、意志等を内包した「知」・「智」である。
 そして、同時に、それは、プラトン哲学のイデア(理念)ではないかと思うのである。
 そこでは、自我的、利己的、主観的感情、否定的感情、諸々の反感から超越し、肯定的な思考が支配しているのである。自我(両自我、つまり、陽我と陰我)を包摂して超越した(造語で、包超ないし内超した)、いわば、自己ないし個の思考が支配するのであるが、同時にそれは、普遍的思考(普遍的知・智)であると思えるのである。
 それは、端的に、哲学的思考であり、同時に、そこは、芸術領域、倫理領域に通じると思われるのである。つまり、プラトンの言う真善美のイデア領域ということになるのである。
 思うに、日本人が無思考であると言われるのは、この観念(イデー)・理念(イデア)の領域において思考できないからのように思えるのである。
 それに対して、西洋の知識人、賢者は、このレベルで思考していると思えるのである。しかし、そうはっきり自覚していないと思われるのであるが。また、日本の伝統的な賢者もそうであったと思われる。例えば、空海、道元、世阿弥、芭蕉、西田幾多郎、鈴木大拙、漱石、宮沢賢治等々である。
 そう、戦前までのまともな日本人はこの観念・理念のレベルを十分ではなかっとしても、もっていたと思う。(追記:美空ひばりの歌唱は、純粋な観念・理念のレベルに存すると考えられる。)
 しかし、戦後、唯物科学が支配して、その哲学的思考が壊滅してしまったと思う。私見では、特に、1970年代後半以降である。
 本題に返れば、自我を包摂的に超越した陰陽調和心における、観念(イデー)・理念(イデア)の思考であるが、それは、上記したように、一(いつ)としての氣の領域でもあるのである。
 つまり、この思考、超越的知・智は、氣的でもあるということになるのである。
 ここで想起するのが、朱子の理気論である。即ち、朱子は、理を形而上学的なもの、氣を形而下的なものと捉えているが、思うに、一(いつ)としての氣とは、ほぼ、朱子の理に相当すると思うのである。
 そう、ここが微妙なところである。つまり、私が唱える氣は、一としての氣と陰陽としての氣があり、前者は、朱子の理に相当する。あるいは、観念・理念と一致するのである。
 しかし、一としての氣は同時に、陰陽の氣である。つまり、

一(いつ)の氣=陰陽の氣

である。
 それで、一の氣=理であるから、結局、

理=一の氣=陰陽の氣

である。
 そして、一の氣は観念・理念であるから、結局、

理=一の氣=観念・理念=陰陽の氣

となる。少し整理すると、

理=観念・理念=一の氣=陰陽の氣

である。
 そうすると、朱子の氣の考え方は、間違っていたのではないかと思うのである。
 確かに、氣は、物質に近いものであるが、物質の内在超越的原理と見るべきであり、物質そのものではないのである。
 ただし、朱子が氣を生命的原理にとっていたならば、それは、間違っていないと言えよう。(今、ふと想起したが、スピノザの説く心身並行論であるが、彼の精神をここでの理=観念・理念と捉えれば、スピノザ哲学はより整合的になると直観される。)
 思うに、この公式は、多くのことを物語ると思う。つまり、今や、氣が解明されたと思うのである。それは、実は、力であり、且つ、知なのである。力即知(智)なのである。これが、自然を形成しているのである。
 しかし、この知(智)は、物質的な知、あるいは、自我的知(陽我の知)ではないのである。つまり、それは、超越的知なのである。
 だから、書き直して、氣=力即超越的知、さらに、

氣=超越的力即超越的知

となる。より正確に言えば、

氣=内在超越的力・即・内在超越的知

簡単にすれば、

氣=内超的力・即・内超的知

となる。
 結局、陰陽調和心の思考、観念・理念の思考、超越的思考に達すると、それは、氣でもあるのであり、結局、それは、心身的であるので、身体をも形成するし、引いては、環境、社会、自然、宇宙も形成すると言えよう。
 キリストの説いた信とは、いわば、氣信と見るべきだろう。
 今はここで留める。

追記:大事なことを言うのを忘れていた。即ち、氣は自然を生成成形造形するが、人間は超越的思考によっては、一般的には、その一部しか意識できないのである。例えば、五臓六腑において、その一つの、心臓において、氣がどのような超越的力・即・超越的知=超越的理力をもっているか、意識できないのである。そう、無意識である。(しかし、シュタイナーのような瞑想によっては、理解できるようになるかもしれない。)
 ただ、思うに、直観・直感・勘(感)において、その暗示を捉えることはできるように思える。
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