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2014年02月08日 (16:15)

魂とは何か:連続的陰陽の不連続化に拠る陰我と陽我と陰陽調和心の三層構造の内の陰我=肚=他者である

魂とは何か:連続的陰陽の不連続化に拠る陰我と陽我と陰陽調和心の三層構造の内の陰我=肚=他者である

テーマ:無双(太極)PS陰陽論:無双は陰陽未分化

先に、魂という言葉を使用したが、それは、哲学的用語というよりは、日常的語である。気概、気骨を示す用語である。
 しかしながら、魂を普遍的用語にできると思った。
 つまり、こうである。陰陽調和心があると言った。それは、一(いつ)の氣に通じているのである。
 この陰陽調和心であるが、それは、胸(中丹田)に位置しているが、魂は直観では、肚に存する。
 そう、魂は気概、気骨に関係し、また情感、情熱、意志等に関係する。
 それらは、知性領域ではない。だから、陽我凸i=頭ではなく、陰我凹i=肚に存するということになる。
 ただし、単純な陰我=肚ではない。それだけなら、権力的感情・欲望となろう。
 魂にある気概、気骨、情感、情熱等は、他者性をもっている。つまり、いわば、他者倫理をもっている。
 これをどう説明するかが問題である。
 そう、先にも提起したが、他者は陰陽論理でどこに位置するのかが問題ではある。
 ここで、以前、考えた個=他者ないし肚=他者という視点を再度とりあげると、肚は陰我凹i(極大陰であるが)であり、陰我凹iは、連続的自我態においては、単純に、他者にはならない。
 それは、陽我の反射としての他者であり、鏡像に過ぎないのである。そう、ナルシシズム(自己陶酔、自我反射、自我投影)に過ぎない。だから、連続的自我 (陰陽連続的自我:これについて、後で説明したい)の場合、肚は、他者にならず、自我反射、鏡像にしかならないのである。(思 えば、よく、人が他人の悪口を言う場合、その悪口が悪口を言う本人にこそ当てはまることが多いが、そのメカニズムは、この連続的陰陽自我に存すると言えよ う。つまり、複雑ではあるが、陰陽が連続化(連続的同一性化)したとき、そこに悪意、邪気があるのであり、それを陽我は認識できず、逆に、他人を知覚する とき、逆に、自我の連続的陰陽の欠点が浮び上がり、それが、陽我に認識されて、他人に投影されるということと考えられるのである。)
 だから、連続的自我(陰陽連続的自我、陰陽連続的同一性自我)をいったん解体する必要がある。それは、不連続的差異論(非連続的差異論とも言えよう)の役割である。
 陽我(頭・知)と陰我(肚・情意)をいったん切断する必要があるのである。この切断、つまり、不連続(非連続)化によって、陰我=肚は他者になりうるのである。(ただし、即、陰我=肚が他者になるということではなく、いわば、他者性となる。)
 この陽我と陰我の切断、陰陽切断によって生起するのは、実は、先にも述べたが、陰陽調和と肚(陰我)の未分化様態である。
 だから、ここから、心身陶冶、経験陶冶・鍛練・涵養によって、陰陽調和心と肚(陰我)を分化させていくのが、精神、魂の成熟である。時熟とも言えそうだが。熟成でもいいだろう。
 とまれ、院長調和心と肚(陰我)を分化させたときの肚(陰我)が他者になると私は今考えるのである。
 以前は直観的に、肚が個であり、他者であると思ったが、それは、陰陽調和心が個であり、また、肚が他者であるとと視るのが適切であると考える。
 さて、そのように、陰陽分離し、また、陰陽調和心(個)を形成していき、肚(陰我)=他者となるとき、魂であるが、これは、ほぼ、肚(陰我)=他者と一致するように思われる。
 つまり、

肚(陰我)=他者=魂

という図式が成立するということになる。
 そして、当然、道徳・倫理のインフラ、ベース、根源もここに存するということになるのである。仁理、仁道、仁倫とも言える。
 ただし、肚=他者=魂は仁理・仁道・仁倫のベースであって、そのものではないだろう。仁理・仁道・仁倫自体は、肚=他者=魂をベースにしつつ、陰陽調和心に存すると考えられる。
 そして、陰陽調和心は、先に述べた、観念(イデー)・理念(イデア)、プラトンの真善美のイデアと一致すると考えられるのであり、精神と呼べよ う。(今、想起したが、昔バッハの音楽を聴くと、即、精神を想起をしたが、結局、バッハの音楽は、陰陽調和心=観念・理念=真善美イデアを表現していると いうことと考えられる。)
 これで、一応、魂と精神を区別したことになる。
 問題は、精神である。それを霊と呼んでいいのか、である。
 しかしながら、陰陽調和心は、一(いつ)の氣=一元氣と一体であるから、内在超越性をもっているので、霊のように感じられるのである。
 先に、霊は存在しなく、霊の感じ方はあると述べたが、今、考えると、つまり、実質で考えると、呼び方の問題のように思えてくる。
 つまり、陰陽調和心は観念・理念・真善美イデアであり、精神と呼べるが、それは内在超越性をもつので、霊と呼んでもおかしくないと思えるのである。
 ドイツ語では、der Geistは精神であり、霊である。英語のspiritもそのようになりうる。
 そう、結局、陰陽調和心は、精神、霊、精霊、神と呼んでもいいと思えるのである。問題は用語、名称ではなく、実体、本体、実質である。
 PS陰陽論は、唯氣論であると言ったが、ならば、唯霊論、唯精論、唯神論と言ってもいいのではないだろうか。
 ただし、氣と見る方が、陰陽という対一、双一的極性をもつので、科学的に便利である。だから、唯氣論で通そうと思うのであるが、霊、精神、精霊等を排除 しない。ただし、シュタイナーのように、霊を氣から独立した存在とは見ず、霊は氣の派生事象と見るのである。ここが違うポイントである。
 そう、魂であれ、陰陽調和心=精神=観念・理念=真善美イデア=霊・神であれ、あくまで、氣の派生事象と見るのである。
 霊や神では、擬人性が強く、科学的ではなくなると思われる。
 結局、以上の事柄は、内的科学の事象である。近代科学、物質主義科学、いわゆる、自然科学(ただしくは、唯物論的自然科学)は外的科学で、この内的科学の事象をまったく捉えられないと言えよう。ただし、外側から、表層を見ることはできるのであるが。
 結局、内的科学は、陰陽事象を扱うと言えよう。易とは、内的科学であったのである。ただし、以前述べたように、易経は問題がある。つまり、陽的視点に傾斜しているのが問題なのである。それは、ここでは、詳述しない。

追記:陰陽調和心とは、陰陽調和氣とも言えよう。そして、それが、太陽の本体だと思う。これが、現象化すると、日光になると考えられる。
 陰凹i*陽凸i⇒+1の+1が日光・陽光・太陽光線と考えられる。
 左辺の陰凹i*陽凸iが太陽を構成する陰陽氣であり、⇒が太陽ではないだろうか。⇒はMP(Media Point:メディア・ポイント:原点)である。
 つまり、

太陽氣☞太陽☞太陽光線

となる。ただし、☞太陽☞は⇒を意味する。










八百万の神々とPS陰陽論

テーマ:無双(太極)PS陰陽論:無双は陰陽未分化

この問題は後で、詳論したいが、簡単に言うと、

一(いつ)の氣⇒陰陽1+陰陽2+・・・+陰陽n⇒八百万の神々⇒森羅万象

という図式で説明できるように思える。

追記:多神教の問題は、後、アニミズムと関係する。とまれ、もう一度言うと、一(いつ)の氣があり、それは、多様な陰陽様態を帯びる。それが、八百万の神々であり、そこから、森羅万象が発現すると見るのである

追記2:
一元氣⇒多様陰陽氣⇒八百万の神々⇒森羅万象

追記3:一の氣=一元氣であるが、それは、元陰と元陽に分極化するが、その元陰*元陽はいわば、元陰陽音楽、あるいは、元陰陽ゆらぎ、元陰陽流動である。
 この元陰陽音楽が、その和音的、交響的、あるいは、ポリフォニー的法則によって、多様な形態・原型=原形(イデア、ないしエイドス)を生み出すだろう。それが、八百万の神々ではないだろうか。

八百万の神々はPS陰陽論でどう説明できるか

先に以下にあるように「神道の八百万の神々であるが、つまり、多神教であるが、それも、根源の一の氣が原因となって個々の現象を生成すると考えるとき、個々の根源に氣を見るということで説明がつくのではないだろうか。これについては後で、もっと精緻に考えたい。」と述べた。
 多神教はPS陰陽論で簡単に説明できると思っていたが、なかなか手ごわい。
 ここで、多神教を解明したい。
 結局、森羅万象の個々の現象に氣核を認めれば、説明がつくのではないだろうか。氣核とはMP(メディア・ポイント)である。
 そこには、多様な氣波動があると考えられる。ある気波動は、植物になり、ある氣波動は動物になる。また、植物でも、その中で、さまざまに分岐する。
 思うに、このように分析的に説明するよりも、一(いつ)の氣の宇宙で説明する方が明快のように思える。
 つまり、一の氣が森羅万象を形成するのであり、森羅万象の個々の現象は当然、一の氣が浸透しているということになる。
 つまり、一の氣が多様な陰陽氣に変容していることになる。
一⇒多である。
 どうもすっきりしない説明になっている。
 後で、より直観的な解明を試みたい。

****************************
PS陰陽論から「霊(スピリット)」、「神」を解明する:ポスト霊学・宗教・魔術:ポスト一神教
テーマ:無双(太極)PS陰陽論:無双は陰陽未分化

PS陰陽論は、唯氣論である。そこには、基本的には「霊」という観念・理念はない。
 しかし、「霊」ないし「霊性」という感じ方は存すると考える。つまり、「霊」は存しないが、「霊」という感じ方は存するということである。
 今は一言言うだけだが、簡単に説明すると、一(いつ)の氣=陰陽氣であり、前者の一の氣が陰陽精神において、「霊」のように感じられると思うのである。そう、「聖霊」のような感じがすると思うのである。
 もう少し、具体的に言うと、森の中にいると、氣を感じるが、それだけでなく、いわば、森の精、妖精、森の精霊(霊)のようなものを感じる。ロマン主義、ケルト文化的世界、宮崎駿的世界である。
 しかし、この「精・妖精」、「精霊(霊)」は、実は、一(いつ)の氣の働きだと思われるのである。なにか超越的な生き物のような感じであるが、それは、一の氣の働きだと思うのである。
 端的に、一の氣は、内在超越性であり、超自然的な、不可思議な感じをもたらすと考えられるのである。
 また、さらに言えば、神、神霊という観念・理念も、一の氣で説明できると思われるのである。
 そう、霊的自然観、呪術・魔術、宗教は、氣の自然観であるPS陰陽論で説明できると思うのである。
 そう、ポスト霊学、ポスト宗教、ポスト魔術としてのPS陰陽論である。

追記:また、ポスト一神教、ポスト超越神でもある。

追記2:一の氣がコスモス(ミクロコスモス=マクロコスモス、小宇宙=大宇宙)の感覚をもたらすとも言えよう。
 いわゆる、神秘主義世界観もここに起源があると考えられる。
 思うに、古代的宇宙観、世界観、自然観はこの一の氣が根源だと思う。古代ギリシアのパン神はこれが正に説明するだろう。
 神道の八百万の神々であるが、つまり、多神教であるが、それも、根源の一の氣が原因となって個々の現象を生成すると考えるとき、個々の根源に氣を見るということで説明がつくのではないだろうか。これについては後で、もっと精緻に考えたい。
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11765922549.html
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