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2014年04月20日 (00:09)

生命と物質:死と生命:−1が闇・死で、+1が光・生:西洋文明の闇とロシア文明の光

生命と物質:死と生命:−1が闇・死で、+1が光・生:西洋文明の闇とロシア文明の光

テーマ:生命力/氣自衛医智学:唯物機械論医学批判

これはまったく思いつき。
 陰陽方程式は陰凹i*陽凸i⇒±1である。
 いちばんの問題は、±1なのである。この解釈の問題で、結局、PS理論は瓦解したのである。
 私は+1は陰陽調和の結果と見ている。つまり、植物世界である。螺旋である。
 しかし、-1は、陽が傾斜した場合に思える。
 どうも、これが、動物世界的なのではないだろうか。
もし、そうならば、 陰陽方程式陰凹i*陽凸i⇒±1は植物世界と動物世界の両方を表現していることになる。
 直観では、動物世界は、より物質的であり、植物世界は精神的である。
 ずいぶん昔のKaisetsu氏の解釈に拠れば、+1が光であり、-1が闇である。
 問題は身体である。+1の身体と-1の身体があることになるのではないだろうか。
  そう、+1は精神的身体、氣的身体と言えよう。そして、-1は、物質的身体、無機的身体と言えよう。
 しかしながら、前者へ進化していると考えられる。
 とまれ、前者は植物的セクシュアリティであり、後者は動物的セクシュアリティである。
 氣的性と物質的性である。
 おそらく、これから、前者が進展するわけである。
 
追記:-1を物質的身体、無機的身体と見ていいか問題であるので、これは、無しにする。
 やはり、+1が光、つまり、日光・陽光であり、-1が闇ではないだろうか。思うに、闇という実体を認めるべきではないだろうか。
 以前、-1をダーク・マターにとったことがあるが、確かに、実体の闇をダーク・マターにとることは考えられる。
 もっとも、そうすると、新たに議論を展開させないといけなくなる。だから、実体の闇をダーク・マターと見るというのは、置いておく。
 今は、発想の段階に留めるが、+1が生命ならば、-1は死なのではないだろうか。
 生命があれば、死があるのである。死は物質の力、エントロピーの力ではないだろうか。有機体解体の力、無機的な力である。
 それで、死の力は実に必要であろう。これは、解体力であるが、解体力とは、排出と通じるのではないだろうか。排出がなければ、生命は成り立たないのである。
 だから、生命と死は均衡していると言えよう。
 そして、それが、植物的世界・自然ではないだろうか。
 しかし、人間の場合、死の力が優位になったのではないだろうか。とりわけ、父権主義において。
 大脳の発達(概念知の形成:観念・理念とは異なる)は、生命(陰陽調和氣)を否定しているのではないだろうか。そう、-1は左脳であろう。そして、+1が右脳であろう。
 そして、資本というものも、-1だと思う。死の力である。
 これは、量的な解体力であり、自然生命世界を破壊するのである。
 西洋文明は死の文明である。それに世界が支配されてきたのである。
 しかし、今や、ロシアが世界を主導するような立場になってきたのである。ロシアは、半分、西洋であり、半分、アジア、東洋である。
 思うに、ロシアのアジア・東洋的要素が死の西洋文明に対抗するのである。そう、アジア・東洋的要素とは、私見では、植物的生命性である。陰陽調和性である。
 また、それは光、日光・陽光である。太陽である。
 世界は、闇・死に傾斜し過ぎたのである。物質的解体力に染まり過ぎたのである。
 振り子を光・生へと揺り戻すときであり、そのような時代に移行していると言えよう。
 さて、最後に日本の闇についてであるが、これは、極めて深い闇である。日本父権民族は闇の民族であり、光を知らないのである。そして、日本母権民族は、自己文化の創造性を喪失しているのである。頽廃しているのである。
 それ故に、闇の力に対して、無力なのである。
 日本母権民族の文化とは端的に、氣の文化である。植物的文化である。これに目覚める必要があるのである。




氣の捉え方:氣の気付き方:氣が心身の本体である:お釈迦様の掌の内にあるようなものだ

テーマ:氣神論:氣は万物に通ずる:氣的身体理性

氣は誰でも本来備えていると思うが、氣の存在に気付かないことがほとんだと思う。
 私のことを考えると、子供の頃からずっと氣を感じてはいたが、気付かなかったのである。
 気功の真似事を、四半世紀前にやってみたが。確かに、氣らしきは感じたが、あやふやだった。
 はっきり、氣の存在に気付いたのは、東京に20年以上住んでいて、農村地帯にある実家に、介護でもどって、部屋にいたときである。部屋の空気に東京にはないものを察知したのである。
 これは何だと思った。何か部屋にあるのである。部屋の中になにか充満しているものがあるのである。
 これが氣ではないかと思ったのである。そして、その後、氣を意識するようになったのであり、経験的な確認作業をするようになったのである。
 今では、森氣浴する中で、森の氣を感じるようになったのである。
 思うに、ずっと、東京暮らしをしていたら、氣の存在に気付かなかったと思う。東京という氣のない空間と農村地帯の氣に満ちた空間のギャップによって、気付いたと思う。
 そう、逆に、農村地帯だけに住んでいたら、氣があるのが普通であるから、氣には気付かなかっただろう。
 また、日本語には、気が有り過ぎて、逆に、気に盲目なのだろう。
 しかし、一般的に、氣に気付かないのは、認識論から説明できる。自我的思考(利己主義的思考)をすると、氣を排除することになるのである。あるいは、氣を抑圧すると言ってもいいだろう。
 だから、近代的自我思考あるいは近代合理主義が支配すると、氣はあっても、排除して、無意識化してしまうのである。(肚の形成であるが、これは、氣を肚に降ろすことかもしれない。)
 話は少し飛ぶが、ハイデガーが『存在と時間』の中で、世界内存在とは、気遣いのようなことと言っていた。
 確かに、気遣いは、社会生活における氣の働きだと思う。しかし、それは、形而下的で、氣のもつ形而上性は失せている。
 朱子の理気論の氣も形而下的である。
 でも、どうして、形而上性が失せてしまうのか。
 氣が励起されたとき、明らかに、形而上性が生じるのであるが、それは、一時の非日常経験として捉えられてしまい、平静時の氣には形而上性はないと思ってしまうのではないだろうか。
 私は森氣浴経験を重ねることで、氣の形而上学性の確認をし続けている。

追記:結局、灯台下暗しである。氣が空気のように心身に大気(自然環境における)に充ち満ちているので、つまり、有り過ぎて、気付かないということのように思える。
 それに近代合理主義が加わったので、尚更になったと言えよう。 
 そう、言い換えると、いわば、お釈迦様の掌の内にいるので、お釈迦様=氣に気付かないと言えよう。

追記2:日本の支配層・権力層は、父権民族で、利己主義であるので、氣が排除されて、国民への気遣いがないのである。
 また、母権民族の国民は氣がいいので、支配層の邪氣に気付かないとも言える。
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