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2014年10月13日 (15:26)

二つの西側:賤民資本主義的西側と社会的資本主義の西側

二つの西側:賤民資本主義的西側と社会的資本主義の西側

テーマ:賤民資本主義と共同体的資本主義

千争邪に支配された西側と社会的資本主義的西側があると言えよう。二重構造である。当然、米国もそうであるが、前者が優勢的である。
 ノーベル賞を宣伝に使う「西側」は正に、賤民(パーリア)資本主義である。自分たちの利益さえ守り、かつ、拡大できれば、他者は利用するための手段に過ぎないのである。冷酷な利己主義である。
 ダブルスタンダードである。イデオロギーと利益を使い分けているのである。
 とまれ、賤民資本主義は、父権主義であり、専制・独裁主義であり、自己利益のためには、なんでもする「悪魔」、鬼である。
 とまれ、そこにあるのは、自我欲望主義である。利己のため、他者は道具、奴隷に過ぎないのである。つまり、封建主義である。
 さて、この見せ掛けと実体の二重構造=ダブルスタンダードであるが、これは、こころの欠落した父権主義的自我の所産と言えよう。これは、自分が生きるため、他者を利用し、破滅させるか、それとも、自分が死ぬかの発想である。妥協はないのである。「死ぬのは奴らだ」である。
 これは、哲学的には、二項対立原理である。(ポスト・モダンはこれを批判したが、現実的には無力である。)
 それに対して、母権主義とは、対極性原理、陰陽原理である。
 それは、他者との共立を志向するのである。
 宗教的に言うと、ユダヤ教的民族主義に対して、キリスト教は、母権主義をもたらしたのである。しかし、結局、ユダヤ教的父権主義がキリスト教を支配してきたのが、西洋文明の歴史である。
 とまれ、父権主義=賤民資本主義の「西側」の欺瞞・偽善性に気付かないといけない。
 ただし、社会的資本主義の「西側」は忘れるべきではない。
 そう、こういうことである。社会的資本主義の作ってきた、民主主義や自由主義を賤民資本主義はイデオロギー、見せ掛けとして、利用しているのである。
 端的に言えば、言葉のもつ、いわば、魔術を利用して、賤民資本主義は、他者を利用するのである。
 そう、言葉は、単に、形式的容物に過ぎず、その形式は空虚なのである。しかし、その空虚な形式が、言葉の受容者に、魔術的に実体を想起させるのである。言葉の幻惑力、幻想力が作動するのである。
 とまれ、言葉は魔法・魔術である。あるいは、言葉はペテン、詐欺である。
 政治家はそれを知っている。愚民が引っかかるのである。
 さらに言えば、騙されるその他の理由は、他者を信じていることである。騙さないだろうと思っていると、言葉のマジックに引っかかるのである。
 今日の文明は父権文明であり、騙しの文明である。賤民資本主義の文明である。
 しかし、言葉がマジックにしろ、賤民資本主義が気付かない現実があるのである。それは、お金、資本である。賤民資本主義は拝金主義であり、お金が富を産むと思っているのである。
 これが、最大の誤謬である。お金は言葉と同じである。空虚な形式である。形式は形式を産むに過ぎない。
 言葉の魔術を利用するが、お金の魔術に騙されているのが、賤民資本主義である。


参照:

「ノーベル賞に西側支配層の宣伝機関としての役割があることは否定できない。学問分野の評価もそうだが、醜悪なのは平和賞。」(櫻井ジャーナル) (10/12)

詐欺師ほど耳ざわりの良い美しい言葉をつかう。
その美しい言葉を簡単に信じてしまい、ケロッと騙される…。これが一般的な日本人の傾向だ。

「核の平和利用」、「ノーベル平和賞」から、「秘伝の乳酸菌!(わずか8000円!)」まで、まったく疑いもせずにコロリ、コロリと騙され続けてきた日本人…。

ま、下の文章と、本文をよ~~く読んで、目からウロコを落として、少しは賢くなりましょう!
(だっけど、ココ(『文殊菩薩』)は賢いヒトしか読まないからな~ www)

「ノーベル賞に西側支配層の宣伝機関としての役割があることは否定できない。学問分野の評価もそうだが、醜悪なのは平和賞。」
(飯山一郎)

『文殊菩薩』


参考:
『古代ユダヤ教』M.ウェーバー(2) - きおくのきろく

『古代ユダヤ教』
マックス・ウェーバー
岩波文庫

●対内・対外道徳の二元主義

 隣人愛は古代ユダヤ教でもあったが、それはどうもすべての隣人ではなく、同じ宗派仲間を意味していたらしい。

隣人とは常に民族共同体員であるか、宗派的仲間なのである。このことは、「(隣人を)自分のように愛すべきだ」という心情倫理的説教においてもあてはまる。説教の道徳的内容は「兄弟」のみにかぎられていた。

では、宗派仲間以外の他者についてはどうなるのか。そこに、共同体の境における対内・対外道徳の二重化が発生する。たとえば、「兄弟」からは利子をむさぼってはならないが、それ以外の他者からの利子は許容されるとか。ここが、いわゆる「ブロテスタンティズム」の経済倫理と決定的に相違したことをウェーバーは強調する。

プロテスタントのピューリタニズムにとっても、同じ宗派仲間ではない者はやはり「神なき者」であることにかわりはないのだが、それに対して、どのような態度をとったかというと、

彼らはまさに「神なき者」との経済交渉において、ごまかしたり、だましたりするかわりに、合法的で正直で公明であった。彼らは固定価格の制度を遂行し、たとえ子供が買い物に来てもやはり公正価格で公正な商品を常に手渡した。預金もクレジットも彼らにおいてはまさに一般的な「信用」が出来たこと、だからこそ「神なき者たち」の多数が彼らの商業金庫や実業家の顧客となった。要するに、宗教的に制約された、優越せる経済的エートスをもっていたおかげで、「正直は最上の政略」という原則に従って、神なき者たちとの競争に勝った、ということである。

こうしたことはアメリカ合衆国においては、つい2、30年前までは中産階級の現実のエートスとしてそのまま体験することができたものなのである。

それに対して

ユダヤ教の場合は、これと相違した。経済的対外関係の倫理的合理化へと導く救済論的な動機づけが欠如していたからである。

ユダヤ人たちが特に通暁したのは、貨幣高利貸しや商業とならんで、国家・掠奪資本主義であり、これこそピューリタニズムが徹底的に嫌悪したものである。

ウェーバーはユダヤ民族が「客人民族」であったことを強調する。「客人民族」とは現地における部外者民族という意味で、ディアスポラ以降、国を失った彼らの置かれた必然的な状況なのである。

ブロテスタンティズムの「世俗内的禁欲」は、自己修養・自己鍛錬・向上心、傲慢をひかえ謙虚に前向きに努力するような自己に対する態度と、勤勉・節約・蓄財を美徳とする経済倫理的生活態度(エートス)を生み出した。また自らの職業に対する研鑽の努力と献身は、職業を神からの「召命」としてとらえる独特の職業倫理から来たものである。つまり現世内で一定の職業を持ち、研鑽し、力量を高めることは、救済への確証を得る手段であった。

隣人の定義が自らのうちわだけの隣人ではなく、まさにおのれ以外のすべての他者を意味するように普遍化された時、万人に対して平等に通用する公正さこそ、神との契約を履行するものであるという宗教的信条をもつにいたったのである。このような経済倫理は法律で定められない以前は、ただ人々の生活習慣や個人的信条に基づくほかはないのであり、それは宗教の教えによって根本的に規定された。

「時は金なり」というフランクリンの言葉は、資本主義だからそのような精神が出てきたのではなく、上記のようなプロテスタンティズムが生み出した独特の職業倫理・労働倫理から来ているものなのである。つまり、彼らはカネのために働いたのではなく、働くことは信仰に基づく救済論的な意味合いをもつ行為だったのであり、勤勉であることは、救済の確証を得るための前提条件だったのである。そしてのこような宗教的倫理観念に基づいて、職業・労働の尊さや、勤勉であること、浪費しないこと、カネをためることが美徳とされるようになった。逆に、働かないこと、浪費することは悪ということになるだろう。

この美徳観念は現代でもわずかながら残っているように思える。しかしながら、もはや一般的に通用しているとは言い難いだろう。それは根本的には救済論的な動機づけがなくなったからである。つまり存在を主導的に導く理念と、それを信じつづけながら、それに従いつつ生きるという生活態度がなくなったからである。その救済論的な理念こそ、「人間」という名の共同体の理念であり、それを確信的にもつことが現世的な倫理観念を決定的に規定するのである。

プロテスタンティズムの倫理は実際資本主義の精神を生み出すきっかけになったであろうが、いつしか世俗内的禁欲の、経済的に合理的なエートスは、その宗教的な、倫理的に強固な地盤を失い、物質主義的な欲望の体系の資本主義的精神となっていった。
世俗内的禁欲における自己修養は自己を”武器にする”ことにかわり、向上心は常に資本主義的な”評価”を求める心に、謙虚に前向きに努力する態度はあくなき闘争心にかわって、この経済社会においてはむしろそれのほうが適合的なのである。確かにこのような精神は、われわれがそこで生き抜いていかなければならない資本主義経済社会によって規定されている精神である。

勤勉はたしかに美徳ではあるが、倫理的内発性によるものではなく、逆に勤勉でなければ生きていけないという、せっぱ詰まった外的・強制的な事情になっている。
経済的に合理的な生活態度は、生存のための必然性であり、欲求を満たす手段である。かつて神に忠実であろうとすることに地盤をもっていた合理的な経済的生活態度=エートスは、今では、資本に忠実であろうとするところの”賃金奴隷のエートス”と呼ばれるようになったのである。

ウェーバーが強調するのは、経済社会は人間にとって外から規定するような外的・強迫的なものではなく、むしろ人間が日常生活においてすでに実践しているところの、日々の経済的生活慣習によって規定される、そういう側面も必ずあるということである。そして、経済的生活慣習を主導する人間の価値観や倫理観念は、過去においては、宗教の強大な影響があった、ということである。

この宗教が倫理観念を通して規定する人間の生活態度や慣習・価値観が、その共同体の経済を合理化に導くか否かは、当の宗教自体にかかっている。

要するに、ユダヤ人たちがもっとも長い期間住んでいたオリエント、南ヨーロッパや東ヨーロッパ地域においては、古代・中世・近世において、特殊な傾向をおびた近代資本主義というものは発展しなかったのである。

西洋の発展におけるユダヤ人の関与は、本質的に彼らの「客人民族」としての特徴に基づくものであった。そしてこれは、ユダヤ人が自らの意志でおこなった遮断が、ユダヤ人自身に刻印づけた地位なのである。

ヤハウェは万人に理解可能な言葉を語り、また在来宗教につきものの「魔術的」な要素を排除していった点で、まことに理性的な神であった。しかし、のちのキリスト教と、そのまた宗教改革以後のキリスト教がもたらしたような経済的な観点での合理主義的な生活態度を、ユダヤ人たちが持たなかったのは、対内・対外道徳の二元主義にもとづくという。このダブルスタンタードが、共同体の境を越え、国境を越え、文明の違いを越えて万人に通用する行動基準や生活態度を生み出さなかった。それはユダヤ人自身がみずからの「純潔」を守るためにとった「遮断」が行き着いた先であり、彼ら自身が決断したことの結果であって、近代資本主義を最高の価値原理として前提しないならば、この決断は彼らにとってやはり合理的だったのかもしれない。

近代合理主義的な資本主義の「資本の論理」は、あらゆる民族・宗教・また思想・信条の壁を越えて貫徹する。
その意味でまことに合理的である。ただし、資本の論理においては、人間は労働力商品という商品として生き残るほかはないのである。そして商品として生き残るというのは、つまりは売れる商品でなければダメ、ということなのだが…。しかしそれも、資本主義的に見て、まことに合理的なことなのである。

このような状況において、「遮断」は神との契約を遵守する上で合理的な態度であったと思われる。むしろ、富を蓄えることによって、それが何らかの「救済」に結びつくものと発想することのほうが、宗教的に異質な感覚ではないだろうか。経済生活と信仰生活を切り離す態度のほうが、純宗教的に見える。だが、それは社会学的な立場からいうと非現実的なのだが。

人間の営みという観点において、宗教的な精神生活と物質的な経済生活をウェーバーは切り離さなかった。むしろ、経済生活にどれだけ宗教的な価値観が作用するかに重点をおいている。経済的な観点における合理的な生活態度は、自己に対しても他者に対しても平等に適用しえる態度、つまり「公正さ」を倫理観念にまで高めた。それは古代ユダヤ教において準備され、キリスト教、就中プロテスタンティズムによって、普遍的な倫理的価値に高められたのである。
http://blogs.yahoo.co.jp/leic523/35325084.html




日本の狂気は明治維新から始まり、戦争で亡国し、今日、狂気が昂じて、再び、亡国へ向かう

テーマ:総て出鱈目日本の元凶ヤハウェ父権自我悪魔

先に次のように書いた。

日本の狂気は、主語・主体なき日本語+農耕民族集団主義+父権民族に拠るだろう


この三つの中で、最大の原因は、三つ目の父権民族だろう。

 今は、簡単に指摘するが、明治維新までは、ベースの母権民族と上層の父権民族のなんらかの均衡があり、それが、伝統日本文化社会を形成してきた。

 しかし、そして、ベースの母権民族は神仏習合をもっていただろうし、母権民族と父権民族は、他者として、東洋文化をもっていた。決して、偏狭なナショナリズムはもっていなかったのである。

 しかし、国学の勃興とともに、尊皇攘夷が生じて、それが、父権民族と結びつき、明治維新を為すのである。

ここで、母権民族とその神仏習合文化と脱亜入欧で伝統を形成していた東洋文化が排除され、偏狭な夜郎自大なナショナリズムと官僚制国家主義が起ったのである。

 それによって、日本支配層は他者なき、傲慢・厚顔・妄想・独善・独断・無責任主義主義に陥ったのである。これが、日本似非近代の狂気であり、それが、今日に帰結しているのである。

 そう、確かに、主語・主体なき日本語や農耕民族の集団主義がそれに寄与しているのは、否定できないが、やはり、主因は、父権民族中心主義である。





シュタイナーの生命霊学とPS陰陽論の共通点:光と重力の対立は⇒+1と⇒−1の対立で表示できよう

画像は以下を見られたい。
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11937952715.html

テーマ:霊学:シュタイナー精神学


以下、シュタイナーのエーテル(氣)的生命学はPS陰陽論ととても共通することがわかり、いささか驚いている。
 後で、説明したい。

●第6講(本文)

きょうはまず初めに、植物形成のプロセスそのものを、その宇宙的連関のなかに置いて皆さんにお見せすることから始めたいと思います。私たちが見てまいりましたように、人間においては、植物生成プロセスにおいて開示されているのとは逆のプロセスが、いわば機能的に働いています。従いまして、人間に対する植物界の直接の関係を見出すためには、この植物生成プロセスを少なくとも暗示的にここでご覧に入れておかなくてはなりません。皆さんが植物をご覧になると、植物はその形成プロセスにおいて、明らかに対立する二つの傾向を持っていることがおわかりでしょう。一方は地球に向かいます。そして昨日すでに暗示しましたように、いわば樹のような植物においては、その幹のなかに地球がいわばまくりあげられていて、そのため樹の場合、花は、ふつう草のような植物や下等な植物が地球に根付くように、その葉とともに幹に根付いているのです。

 さて、一面においては、植物の地球へ向かう傾向へと私たちの注意が向けられます。けれども、他面において植物は地球から離れようとしているのです。植物は、単に地球の引力に対抗する機械的な力によって地球から離れようとしているのみではなく、その形成プロセス全体、それも内的な形成プロセスにおいて、地球から離れようとしているのです。花において起こっている経過は、根において起こっている経過よりもずっと、地上を越えたもの、地球外のものに依存していることでしょう。そしてこのように、花の形成が、本来地上的でない諸力に依存しているということを、私たちはまず見ておかなければならないのです。なぜなら、花ー種子形成プロセスを花の外部に導いていくために、植物によって用いられる諸力、他ならぬこのプロセスが、皆さんに先日の講演で暗示しました、人間における機能的に逆転した植物プロセスのために必要になる、ということがおわかりにになるでしょうから。この、人間における逆転した植物プロセスは、人間の下腹部において、排泄、分泌、そして性(セクシュアリティ)の根本にも関係するすべてのものにおいて、見出すことのできるものなのです。このように、私たちが人間と植物のこういう関係を探し出すときこそ、植物の地球上のプロセスと同様地球外的なプロセスもまた、個別的に示されるのです。



☆第6講(解説)


シュタイナー「精神科学と医学」 - Bekkoame


原文:


Da möchte ich heute zunächst davon ausgehen, Ihnen den Pflanzenbildungsprozeß als solchen in seinem kosmischen Zusammenhange hinzustellen. Wir haben ja darauf aufmerksam gemacht, wie im Menschen gewisser-maßen funktionell der umgekehrte Prozeß tätig ist, der sich im Pflanzenwerdeprozeß offenbart. Es ist daher notwendig, um die direkte Beziehung der Pflanzenwelt zum Menschen zu finden, diesen Pflanzenwerdeprozeß wenigstens andeutungsweise hier vorzuführen. Wenn Sie die Pflanze sich ansehen, so werden Sie finden, daß sie ganz entschieden zwei entgegengesetzte Tendenzen in ihrem ganzen Bildeprozeß hat. Die eine geht nach der Erde hin. Und ich habe ja schon gestern angedeutet, daß gewissermaßen bei den baurnartigen Pflanzen in dem Stamm die Erde gewissermaßen aufgestülpt ist, so daß die Blüten beim Baum mit den dazugehörigen Blättern im Stamm so wurzeln, wie sonst die bloß krautartigen Pflanzen oder gar die niederen Pflanzen in der Erde wurzeln.
Nun werden wir da hingewiesen auf der einen Seite zu der Ten­denz der Pflanzen nach der Erde. Aber auf der anderen Seite strebt die Pflanze von der Erde weg. Sie strebt nicht nur von der Erde weg wie durch eine mechanische Kraft, die sich der Anziehungskraft
#SE312-118
der Erde entgegensetzt, sondern sie strebt von der Erde in ihrem ganzen, auch inneren Bildungsprozeß weg. Die Vorgänge in der Blüte werden andere als die Vorgänge in der Wurzel. Die Vor­gänge in der Blüte werden viel abhängiger von dem Außerirdischen, von dem Außertellurischen als die Vorgänge in der Wurzel. Und auf diese Abhängigkeit der Blütenbildung von den nicht eigentlich irdischen Kräften müssen wir zunächst hinsehen. Denn wir werden finden, daß dieselben Kräfte, die von der Pflanze gebraucht werden, um den Blüten- und Samenbildungsprozeß außen in der Blüte ein­zuleiten, daß dieselben Prozesse notwendig werden wegen der Ihnen in den vorhergehenden Vorträgen angedeuteten funktionellen Um­kehrung des Pflanzenprozesses im Menschen, im menschlichen Unterleibe und in all dem, was die Entleerungen, die Absonderun­gen und auch was die Grundlage der Sexualität betrifft, zu finden sind. So werden wir gerade, wenn wir diese Beziehung des Men­schen zur Pflanze aufsuchen, auch im einzelnen auf den außer­tellurischen Prozeß der Pflanze ebensogut verwiesen wie auf den tel lurischen.


6 SECHSTER VORTRAG Dornach, 26. März 1920


Freie Verwaltung des Nachlasses von Rudolf Steiner


参考:
新しい陰陽方程式:-1⇦凹i*凸i⇨+1:⇦は陽⇒陰を、⇨は陰⇒陽を意味する

テーマ:PS陰陽論:ガウス平面と陰陽論の統合

「つまり、陽が陰に対して、同一性化すると、-1となり、これが、重力ではないかと思う。それに対して、陰が陽に対して、共振調和すると、浮力になるということではないだろうか。これは、樹木や弦巻植物の上昇力を意味するのではないだろうか。」
四大(地水火風)と四つの象限の対応仮説:陽⇒陰が重力-1を、陰⇒陽が浮力+1を生む (09/01)
http://sophio.blog19.fc2.com/blog-entry-2126.html

以上のように述べたが、陽主導と陰主導の場合を分けて陰陽方程式を表記した方がいいだろう。
 だから、次のようになる。

-1⇦凹i*凸i⇨+1

⇦は陽⇒陰を、⇨は陰⇒陽を意味する。-1は重力を+1は浮力を意味する。だから、+1が天であり、-1が地である。つまり、この新しい陰陽方程式は天地方程式でもある。あるいは、地球方程式でもある。また、生命方程式でもあった。即ち、

陰陽方程式=生命方程式=天地方程式=地球方程式

である。

追記:天地方程式は以下の通りである。

-1(地)⇦凹i*凸i⇨+1(天)

追記2:重力(-1)、浮力(+1)を入れると次になる。また、原子核と電子も入れる。また、樹木の生命性を入れる。

-1(重力・地・原子核・根)⇦凹i*凸i⇨+1(浮力・天・電子・幹枝葉)



http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11918235366.html


追記:以下の四大(地水火風)配置は、シュタイナーの説明を使えば、変更される。

なお、マックで作図したので、ウィンドウズでは、ずれてしまう。マックのある方は、マックで見られたい。



               陽凸i 虚軸
                      |
     Ⅱ:火          |        Ⅰ:風
                      |
                      |
                      |
-1_____MP_____+1 実軸
                      |
                      |
     Ⅲ:地          |        Ⅳ:水
                      |
                      |
                     陰凹i

           陰陽ガウス平面(象限付き)



                ⇩

                ⇩

                ⇩



                陽凸i・風 虚軸
                         |
           Ⅱ            |         Ⅰ
                         |
                         |
                         |
-1・地_____MP_____+1・火 実軸
                         |
                         |
          Ⅲ:           |        Ⅳ
                         |
                         |
                     陰凹i・水

             陰陽ガウス平面(象限付き)
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